吉祥寺エアガレージでの会話
ギターの修理のため吉祥寺エアガレージへ。10年以上ギターを使っていても使い方はよく知らないものだとつくづく思う。細かい調整もまとめてお願いする。
そこからどういうわけか、録音物や音楽そのものの話へ移っていった。
レコーディングされた、アルバムという単位でも実はレコード一枚一枚で音が違う。そこで我々が聴いている、例えばサージェントペパーズは、同じものなのか?サージェントペパーズはステレオとモノラル、さらに各国ごと複数のプレス違いとリマスター音源、そしてフォーマットもレコード、CDからカセット、オープンリール、さらにitunes等々膨大なバージョンがあって、それらの何をもってサージェントペパーズと認識しているのか、実は我々が持っていると思い込んでいる共通の認識は幻想なのだ。という話から、録音はそういう前提に対して意識的であるべきだと結論づけた。そして現状の軽音楽の方向性についても。音楽家や音楽産業の形態が少し古くなってきていて、人びとが認識する、かくあるべきという音楽のすがたもまた、幻想であるということ、それらは音源のそれと同じく、極めて曖昧であるということ。
そこから量子力学の話を少し。極小の世界ではある粒子と少し離れたところにある粒子が、全く同じ動きをする、ということだったと記憶。空間に隔てられた別々の個体が同じ動きをするとすれば、何かしらの力が働いていると考えるべきだろうか。ちょっと難しすぎてわからないけれど、たしかそれは、集合的無意識についての、例えば島に住むサルが食べ物を洗って食べ始めて、それが一定数超えると対岸に住むサルも食べ物を洗い始めるというような、空間を隔てて同時発生する認識についての話につながったと思う。それらは現在の状況、リベラリズムの行き詰まりのような新しい問題に対して、世界同時的に新たな思想が発生する可能性へのロマンティックな期待へと繋がっている。音楽家はそのとき、その芸術の抽象的特性から新たな思想への反応を鋭くできる立場にある。しかし現在の音楽システムではおそらく対処できないだろうから、すべては幻想であるという認識は音楽家にこそ必要であろうという話をした。ある種のラベリングが無意味化された後の、まだ名付けられていない状態に対して、別の閾値を設定するのでなくスペクトルとして捉えなおすことは、やりがいのある仕事かも知れない。
他にも、ジャズは最初からデジタル音楽であった、とか、認識や解釈とそのズレと、その隙間にこそ音楽の強烈な魅力がある、云々。
自分でも初対面のひとと随分長く喋ったと思うが、それもまた同時発生した認識、それも非常に曖昧な認識を、同じ地点で、非常に曖昧に共有しただけのことかも知れない。しかしこういう会話ができるなら、まあギターを破壊しても悪くはないなとは思う。
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