生悦住さんのこと

わたしは2009年に東京に来て、そのころはモダーンミュージックがまだ営業していたけれど、いつ行っても客は少なかった。最初はCDRから4枚目のアルバム、TSUBOUCHIまでは納品していたが、納品するときは生悦住さんと一時間ほど話す。シベールの日曜日は演奏を褒められたことはない。

セカンドアルバムを納品するときに店内でかけたら、「この歌はわざとずらしてるの?」と聞かれた。自分ではずらしている意識がなかったからちょっとショックだったが、そのあとのレビューではボーカルが良い、と書かれていて、それは割と自分の歌を肯定的に捉えるきっかけになったと思う。しかしそれ以降もボーカルだけしか褒められたことがない。

彼は音のスピード感を非常に重視していて、それはテンポや演奏の速さではなくて、音そのもののもつ意志のあらわれとしての、突破力や推進力や爆発力であると思われる。端的にはたとえば阿部薫の、PSFから出ている「またの日の夢物語」での絶頂期の演奏のようなものだと思う。

これはギンズバーグがディランを評した言葉

'知性と感情がひとつになり口と体から出てきた'

とぴったり当てはまっていると思う。

演奏と自身の肉体を同化させひとりの人間以上の存在へと至らんとするジャンプこそが音楽が人間に許した贈り物である。

自分にとってはスピード感を録音の際にどうやって記録するか、は重要だったが、そちらの方向をとるのか、いっそスピードは捨てるのかを考えるきっかけにもなった。

スピードとは別の、静かな表現の場合に彼が重視していたのは、音の圧力というものであったように思う。それは音圧ではなくて、演奏者にとってその音を出さざるを得ない切実さが確かに感じられる、そのうえでその様の、荒々しい才能の輝きや、その人だけに確立されたある種の音楽的なシステムを、新種の鉱物を発見するように採集していたように思う。

自分が上京してきた時点で既にレーベルの存在は神格化されており、PSFから出せればそれでいい、とは自分が働いていたレコード屋での同僚の言葉だが、そうした姿勢は、レーベルの存在がある種のモラトリアムを生んだ皮肉だろう。レーベルは出てきたものを拾い上げることしかできない。PSFをPSFたらしめたミュージシャンたちが音楽を作り上げているとき、まだPSFは存在していなかったのだし、わたしのような若いミュージシャンはPSFの方向を向いて音楽をするべきではないと直感するような言葉だった。

最後に見たのはドミューンで、レーベルの救済を訴える番組だったけれど、そこでの冷泉氏の演奏は素晴らしかった。その紹介をする生悦住さんのいきいきしていたこと。結局モダーンミュージックは何も変わっていなくて、社会情勢が変わっていったのだし、時代に合わせてレーベルのスタイルを変えていたらもうそれは違う、つまらないものになっていたのかなと思う。レーベルを運営するということははっきりと、利益を出すということが前提としてあるにも拘わらず、情勢の変化と無縁でいること、これは不可能だろう。その番組に出演していた一人、完全なるニヒリストとして振る舞っていた人はそれが解っていたのではないか?

結局わたしにとって生悦住さんは、個人的な関係、非常に優れた耳を持つ、自分の新しい音源をつくったら真っ先に聴いてもらいたいと思う数少ない人でした。そういう人がいなくなってとても悲しい。

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