弘前の洋館に見る擬洋風建築のスゴさ。

なぜ、弘前に洋館が多いのか。

明治維新を主導した薩摩藩は九州の南端に位置しました。長州は本州の西端、土佐は四国の南端です。いずれも、江戸から遠く離れ、独自の藩政を敷いていて独立心が強い上に京都との直接的な人脈を持ちながら、軍事、産業においては強く近代化を目指していました。ある意味、辺境である地域から中央政権を改革するエネルギーが起こったわけです。辺境だからこそという見方もできるかもしれません。
 では、本州の北端はどうだったのでしょう。
弘前津軽藩は、初代津軽為信(ためのぶ)が関ケ原の戦いで家康側についたことから、譜代とまでは言えませんが、外様大名とは一線を画していました。蝦夷地警護の任に当たり、隣国の盛岡南部藩とは長く対立関係にあったようです。
 幕末の12代藩主承昭(つぐあきら)は、熊本細川家の4男で継室は京都公家五摂家筆頭近衛家から招き入れています。承昭の先代順承(ゆきつぐ)も三河松平家(五男)からの養子ですから、格式を重んじると言うか、「血筋の良さではその辺の田舎大名には負けないぞ」という執念を感じます。
 
東奥義塾、クリスチャン教育が弘前に興る。
 藩を挙げてのこうした気概というものが次にどこに向かうかと言うと、教育に傾注されるわけです。幕末の弘前藩は積極的に江戸へ留学生を派遣させます。そこで弘前の留学生が集中したのが福沢諭吉の慶応義塾でした。
 そんな留学生の中に菊池九郎(1847~1926)がいます。菊池は幕末に慶応義塾に学び、さらに鹿児島兵学校を経て、弘前に帰ります。藩校稽古館を藩知事であった承昭の支援を受け、1872年(明治5年)、東奥義塾を創立しました。菊池は東奥義塾に慶応義塾から教師を招聘しました。
 菊池と共に幕末活動した弘前藩士本田庸一(よういつ)(1849~1912)は横浜に留学し、プロテスタントの宣教師サミュエル・R・ブラウンの塾に入り、さらに同じくジェームス・バラに入塾することで、英語を学び、キリスト教に入信します。そして、弘前に帰り、東奥義塾の初代塾長となり、横浜で出会った宣教師ジョン・イングを弘前に呼び寄せます。1874年(明治7年)には東奥義塾から5人の学生がイングの母校であるケンタッキー州のアズベリー大学に留学しています。こうして弘前には、横浜、札幌、熊本に次いでクリスチャンによるバンドが出来上がりました。
 
棟梁堀江佐吉の洋風建築。
 弘前の近代建築に特有な点は、堀江佐吉(1845~1907)という大工の棟梁抜きには語れません。元々、藩お抱えの御用大工の家に生まれた佐吉は研究熱心で函館、札幌の洋風建築を見て、その構造や細部を頭に入れました。また、それらの洋風建築の施工に当たった大工たちから直接教えも請うたに違いありません。
1886年(明治19年)に全焼した東奥義塾の新築が彼のはじめての洋風建築となりました。その後、第59銀行本館が代表作となります。当時の頭取岩淵惟一から「堀江さん、あんたの気がすむようなものをこしらえてくだされば、よござんしょう」と言われ、佐吉は感激すると共に自分の技量のすべてを込めて、1904年に竣工させました。日露戦争の直前でした。戦後、佐吉は弘前市立図書館を建て、これを市に寄贈します。晩年には第8師団偕行社を完成させました。1907年、佐吉の死後、その偉業をたたえて、石碑が建てられました。碑には、本人の希望により「棟梁 堀江佐吉翁記念碑」とのみ記されています。生涯を大工の棟梁として通した気概が見て取れます。
 
擬洋風建築とはどういうものだろう。
 擬洋風というと、建築物の外観を洋風にアレンジし、洋館を模倣したものと捉えられやすいかもしれません。しかし、実際にこうした建築物を見てみると、その構造の堅牢度に驚かされます。例えば、弘前の第59銀行の2階の窓辺を見ると、壁の漆喰が非常に分厚く、この洋館を柱ではなく、壁で支えていることがわかります。それは、それまでの寺社建築の構造とは異なり、柱を廃し、壁だけで堅牢さを保とうという新しい挑戦的試みが見てとれます。それは、銀行の執務空間をより広く取り、柱に視界を妨げられないスペースを作ろうという構想の賜物です。しかも、その堅牢な壁に窓がつけられます。窓というものの存在もそれまでの和建築では考えられないものでした。これらの技術は表面的には真似できるかも知れませんが、構造的にはかなりの試行錯誤と合理的な設計計画が立てられなければ、実現されるものではありません。日本の大工が持っていた基礎知識とその応用力があってこそ、擬洋風建築は実現できたのです。

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