日清と日露。戦争のあとあじ。


 晩年の日本画家鏑木清方に新聞記者が訊ねた。
「明治はいつ頃が良かったですかね」。
鏑木が答える。「ああ、やっぱり、日清と日露の間の10年ぐらいかな」。
この会話のことをずっと憶えていて、気になっていたのだが、鏑木の実感がなんでそうなのか、まったく手がかりがなく、困っていた。
 
1890年(明治23年)に国民新聞を創刊した徳富蘇峰は日清戦争の後、三国干渉に腹の底から憤慨した。これを境に自分という人間は全く変わったと言っていた。こういうのはわかりやすい。蘇峰はそれから国家の力、軍事力の信奉者になる。権力側の立場に立って、国家を考えることが出来た蘇峰という知性は日露戦後のポーツマス条約を肯定的に評価し、講和条約に不満を募らせた群衆は蘇峰の国民新聞社を襲撃した。
 
 そんなことを考えながら、あらためて旧東宮御所(赤坂迎賓館)などを眺めていると、この建築が1899年(明治32年)に着工して、10年の歳月と莫大な費用を労したことなどが思い出された。その費用は日清戦争の戦勝によって清国からもたらされた2億両の賠償金がなければ、捻出されなかったものだったはずだ。
 思えば、明治政府というのは貧乏な政府だった。
出だしの頃から、幕府が発注した軍艦の残額の支払いやら、各藩が乱発した藩札の回収費、秩禄処分の費用、急造の軍隊、お雇い外国人の人件費、東京大学を筆頭とする教育機関の費用など、枚挙にいとまがない。勿論、三井、住友、小野、鴻池などから無理やり調達もし、紙幣も刷り、土地税制も改正したが、新国家の予算に追いつくものではない。それがやっと息をつけるようにしたのが国家予算の3年分に当たる日清戦争の賠償金だった。
 
国家経済が息をついたことは国民にも感じられた。
それが日清戦争の戦後だったのかも知れない。鏑木清方の実感は日清戦争のあとあじの実感でもある。徳富蘇峰のように欧州帝国主義への激しい憤りも感じながら日本は少し息をついていた。
 
 その10年後、日露戦争が起こった。勝ったとはいえ、日本は持てる軍備のすべてを吐き出してしまった。ジリ貧の状態で講和条約を結び、賠償金は1円も受け取れなかった。新しい領土も無く、南満洲鉄道とその付属地に対する租借権だけで終わった。国民の喪失感は想像に難くない。息子や父や夫は何のために死んだのかと、その腑に落ちる答えを国家は用意できなかった。
 
 1905年、韓国に総監府が置かれ、伊藤博文が初代統監となったとき、東京に住むある大工の棟梁が「うちの惣領は伊藤を統監にする為に、日露で死んだのではない」と、当時の新聞に述べたりした。戦勝は死の代償を求める。しかし、日露戦争は日本国民に満足できる代償を与えることができなかった。いま現在の日本人は敗戦がもたらすことの意味を知っているつもりでいるが、戦勝もまた何を残すのかについては思いを巡らすことが出来なくなっている。つまりは戦争そのものが勝つにせよ、負けるにせよ、その結果として国民に何を残すのか、考えることを忘れさせている。

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