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私を呼ぶ声

初めてのことだった。
知らないことばかりだった。
守らなくてはいけない。
守りたい人。
しっかりしなくてはいけない。
それだけをずっと思っていた。

父の自宅介護、そして自宅での看取りまでの七年間。

父は、とてもしっかりしていたと、母は言う。

そうだね。

父は年寄り扱いされるのを嫌がり、何より難病指定を受けていたから、
七年間の内、一度もデイケアにもショートステイにも、行くことはなかった。

「おーい、おーい」

父は2分と置かずに私を呼んだ。

「今、食事作っているところだから。
・・・何?」
火にかけた鍋を気にかけながらそう言うと、
父はふて腐れ、癇癪を起して物を投げた。

何十種類もの薬。

あれだけの量の薬を飲むことは、苦行でしかなかっただろう。
今でも、そう思う。

当時は必死だった。
この薬が、父を繋ぎとめている。
命を支えている。
そう思って、間違えないように一錠ずつ震える父の指に渡し、
息を詰めるようにして、父が薬を飲み終わるのをベッドの横で待っていた。

実際問題、ドクターからも
「1回でも飲み忘れたら、容体急変の恐れがあります。
くれぐれも、間を抜かないように、時間を守ってください。」
そう告げられていた。

「・・・苦い!」

「子供じゃないんだから。
自分の体のことでしょ。
飲んでよ!」

吐き出された薬を、泣きながら拾い集めて。
情けなくて、悔しくて。
こんなにも張り詰めた思いで貴方の横にいることを
なぜ判ってくれないのかと思った。

「おーい、おーい。」

「・・・何?」

長い長い昼夜逆転生活。

酸素吸入器のシュゴ―シュゴ―という音。

私は、何度も目を瞑った父の寝息を確かめた。

良かった。
大丈夫。
・・・大丈夫。

「死ぬなら、この家で」。

叶えてあげたかった。

人は言う。

「自宅で看る限界を知ることも大事。」

決して仲良し親子だった訳じゃない。
でも、だからこそ
昼間は4人、夜間は看護婦さん1人で40人を看ていますというその施設に
父を入れることはできなかった。

今、思う。
望む形を「選択」できること。

それが一番なんじゃないかと。

「どうして、こんなッ!!
お父さん、判ってるの?
血が止まらなくなるんだから、怪我したら致命傷になるんだよッ!?」
ベッドから落ちた父。
必死でベッドに戻そうとする私に、
「・・・歩けるような気がしたんだ。」

軽くなった父の体が
重かった。


「tonchiki、・・・あの蛍光灯の傘のところ、ほら、あれが見えるか?」

「え?・・・何もないよ。」
「何もない?」
「・・・うん。何もないよ。
・・・何か見えるの?」
「・・・・燕が死んでる。」
「大丈夫。死んでないよ。・・・大丈夫。」
そう言うと、安心したように、目を瞑った父。


父が抱えた旅立ちに向かってのとてつもない不安は、
そのようにして
少しずつ少しずつ消えて行ったのだ・・・・そう、思いたい。

そう思いたい私がいる。


もう、聞こえることのない声。

「おーい、おーい。」
父は、とてもしっかりしていたと、母は言う。
そうだね。

そうだったね。

私は頷く。

そうだったね。


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