【将棋】努力で到達できるのはアマチュア初段まで、という話

はじめに

「将棋は努力でどこまで強くなれるか?」

古今、将棋村の住人はこの手の論議が大好きである。努力と才能、というテーマで議論をさせれば優に数時間を超える激論が交わされるだろう。「史上最強の棋士は誰か?」という問いと並ぶ2大ホットトピックだ。

察するに、この話題が流行る要因は将棋というゲームにおけるプロとアマチュアの実力差の大きさにある。それなりに将棋を嗜む者であれば、プロ棋士が我々アマチュアと比べてどれだけ強く偉大な存在かということを肌で知っている。プロへの道は狭き門であり、並々ならぬ「努力」を積み重ねなければ養成機関の奨励会でふるいにかけられる(筆者もその一人である)。

「努力」とか「才能」という語法の定義は後で簡単に注釈を加えるとして、ざっくり言えば棋士というのは「天才集団」だ。ありがたいことに近年の将棋ブームで将棋というゲーム、将棋界という世界はだいぶ広く知れ渡り、誰でも簡単に棋士の対局姿を見ることができるようになったし、ソフトの評価値という機能を使えば先手が最善手を指したとか悪手を指したという情報まで一目瞭然である。といっても、アマチュア高段者でもプロの読み筋についていくことは容易でなく、無論ソフトの示す手の意味は解説なしでは理解できない。

要するに、棋士というのは特別にものすごく将棋が強いのだ。

では、一握りの天才集団がいる一方で、いったい純粋な人間の限界値とはどの程度なのだろうか。天才の領域に努力だけで到達するのは不可能なのだろうか。そんな漠然とした興味関心が、きっとこの議論の中心なのだろう。

前置きが長くなったが、ようやく本題に移ろうと思う。

1、「努力」「才能」のざっくりした定義とその理由

どんな問いを立たるにせよ、命題の意味を統一しなければ議論はできない。本題に入る前提として、この記事で用いる「努力」「才能」という言葉の定義を示しておく。

努力=一般的平均的な記憶力・集中力・体力・経済力等々を有する人間が棋力向上のために一定のコストを費やすこと

才能=何らかの能力が人並みはずれて優れていること

太字で強調した部分が重要である。

なぜ「一般的平均的な・・・」という注釈を加えなければならないか。それは、現代社会に生きる一般人をモデルとしなければ根本的には限界なんて存在しないからだ。

仮に小学1年生で将棋のルールを覚えたこどもがいるとしよう。彼ないし彼女が棋士になりたい、それも史上最強の大名人になりたいと願って訓練を行うとする。序盤戦術、詰将棋、棋譜並べ、ソフト研究、その他あらゆる最善最適な訓練方法を選択し、寝る間も惜しんで研鑽を詰めば、まあさすがにいつか最強になれる。

もちろん、デビュー戦から29連勝したり高校生でタイトルを獲得したりという時間的制約が絡む意味での「最強」は保証できないが、純粋な棋力の到達点という意味で考えるなら、そのような「努力」を30年、40年と続けていれば、ルールを覚えたての人間もいつかは人類最強クラスの棋力を得られるだろう。

……と言ってしまったら味気ないんじゃないだろうか。いわゆる思考実験的な議論の楽しみは否定しないが、我々が「努力」を考えるときに念頭に置くのは、素人のアマチュアでも頑張って勉強すればどこまで行けるのか、という実用的な興味関心が本位である(と、思う)。

そこで上記の定義づけに戻る。学校や会社に通いながら手頃な趣味・特技として将棋を楽しむ一般的なアマチュアを念頭に置かなければ、「限界なんてない、少なくとも人類最強にはなれる可能性がある」で終わってしまう。

そこで議論を終わらせないために、もう少し実用的かつ現実的なラインを考えてみたい。

2、アマチュア初段はけっこう強い

ネット将棋大手「将棋倶楽部24」のレーティングによれば、将棋倶楽部24の七段以上は「プロ棋士レベル」、初段は「町道場三段」、8級~10級は「職場・クラス・近所で無敵」(要するにルールを知っている程度の人にはまず負けない)らしい。筆者はこれを少し緩めて、「町道場初段~二段」くらいのラインが、『一般人が誰でも必ず努力で到達できる水準』だと考えている。

将棋を趣味とする平均的な大人を想定すると、1日のうちで将棋に触れられる時間はだいたい2~3時間程度だろうか。もちろん、忙しくて1時間しか余裕がないという人もいれば、もっと頑張って5時間は確保できるという人もいるだろうから、あくまで平均値の想定だ。

将棋初心者のAさんがその2~3時間を活用して毎日熱心に将棋の勉強に励むとする。幸い今はネットやフリーソフトでも良質なコンテンツが多く、練習相手や研究方法には事欠かない。AさんはTwitterで繋がった強豪のBさんや、将棋教室で指導対局をしてくれる棋士のC先生にもアドバイスを受けながら上達に勤しむ。

筆者なら、Aさんに対して「確実に到達できる」と約束できる水準は、アマチュア初段程度だろう。初段の相手はそれなりに序盤のセオリーを覚えているもので、少し間違えればすぐに咎められる。終盤の寄せもそう簡単に凡ミスを犯してはくれない。右肩上がりで順調に伸びていたネット将棋のレーティングも上がったり下がったりを繰り返すようになる。よく言われる「初段の壁」というのは、集中力や記憶力によほど優れた特性がなければ簡単には突破できない。

簡単に突破できない壁を目の前にして、Aさんは今まで以上の熱意をもって努力を続けられるだろうか。負けが続けば誰でもモチベーションが下がるし、そもそも趣味で始めた将棋をそこまで究めて上達する必要もない。Aさんに向かってかけるべき言葉は「もっと努力すれば強くなれますよ」ではなく、「趣味ですから思い悩まずほどほどに楽しみましょう」が正解だと思う。

それでも一層の熱意を持って努力すればもっと強くなれるはずだ、努力の限界というのはそんなもんじゃない、という反論があるかもしれない。だが、簡単に突破できない壁に直面して今まで以上の熱量で努力を続けられるのであれば、それは才能と呼ぶべきだろう。

あの羽生先生も、「才能とは継続できる情熱である」という名言を残している。虎の衣を借る狐のようで恐縮だが、筆者も羽生先生の言葉が真理をついていると思う。対局に勝利することで地位や名誉を得られるプロですら、棋力向上への高いモチベーションを継続することは容易でないのだ。それなら一介のアマチュアが、それなりに高いハードルを乗り越えて情熱を向け続けられるというのは、もはや才能と呼んで差し支えないだろう。

そして、「アマチュア初段」というのは、将棋における一定のセオリーを熟知し、高度な訓練を受けなくても到達できるおおむねの水準である。それ以上の棋力を得ようとすれば、得意戦法に特化した戦術書を何回も熟読するとか、難しい詰将棋の問題とにらめっこして思考力を鍛えるとか、ある程度の熱意を要する「+αの努力」が要求されるのだ。

駆け足で書いたが、以上がこの議題に関する筆者の結論である。

おわりに

序論を裏切る形になるが、筆者は将棋村の住人でありながら、この手の「努力・才能」という類の話題があまり好きではない(そう言いながら3000字超のブログ記事を書くとはどういう了見だというツッコミは受け入れざるをえない)。

というのも、趣味で将棋を嗜む人間が努力とか才能とか堅苦しいことを考えなくてもいいよ、というスタンスだからだ。

逆にプロ棋士は、語るまでもなく仕事なんだから努力して当たり前だろうとも思っている。以前にネット放送で某S棋士が「プロが1日ゲームをしているとかベラベラ喋るのはみっともない」という趣旨の発言をされていたが、筆者はS棋士のような人に共感を覚える人間である。

ざっくりした表現は反感を招くのだが、もちろん趣味の道を究めて努力する人は棋力がどうあれ尊敬しているし、自分とスタンスの違う将棋ファンのあり方を否定することは一切ない。

とはいえ、勝敗のあるゲームである以上、勝っても負けてもストイックに熱意を向け続けるというのは並大抵のことではない。

というわけで、堅苦しい議論はやめてほどほどに気楽に楽しもうぜ、というのが筆者の本当の結論だ。

ネット将棋でトン死負けをしたら敗因を細かく振り返ったりせずにヤケ酒を飲んで、「もう将棋は引退します」とか適当にツイートして、一晩寝たら翌日また将棋ウォーズを起動すればいいのである。

今度は画面の向こうの相手が悔しがる顔でも想像しながら。

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