第2回本公演「もやっぽい針の先」当日パンフレット
王様企画第2回本公演
『もやっぽい針の先』
《あらすじ》
自由を求める男ふたり。
世界から時計を消し去ろうと動き出すも、様々な住民から邪魔をされてしまう。
彼らが求める自由とは何か。
我々を縛っているものの正体は何なのか。
王様企画が送る、現代社会を映し出す不条理劇。
《出演》
青年…貂
親友…今泉英朗
市長…菊地仁美
秘書…枩山結実
女将…七月とも
うさぎ…的場架音
息子…テトリス
学者…池田ユリヤ
《スタッフ》
演出/菊地仁美
作/ザビエル・ミサイル・ヒポポタマス
舞台監督/菊地仁美、貂
制作/今泉英朗、マツモトミザリー、テトリス
広報/今泉英朗、池田ユリヤ、的場架音
照明/貂、ジーコ
音響/菊地仁美、七月とも
衣装・メイク/的場架音、マツモトミザリー
大道具・舞台美術/テトリス、池田ユリヤ
小道具/栞那、枩山結実、池田ユリヤ、透華
宣伝美術/ツヅキ、今泉英朗
《代表ごあいさつ》
どうも、王様企画代表の菊地仁美です。
本日は寒い中ご来場いただき誠にありがとうございます。
このコロナ禍で、我々も以前までのような活動ができませんでした。今回の公演準備についても、ずっとマスクを着けて稽古をしたり、緊急事態宣言が発令されれば稽古は取りやめになったり。なかなかに動きを制限されていました。Withコロナとして、普段の生活の多くのルーティーンが変化してきました。休日の行動も、実家への帰省も、そして何より仕事も。テレワークなどの導入、テレビ会議、携帯やiPad、ノートパソコンの支給。仕事の効率が上がるような変化と、それに伴う監視。いいような、悪いような。これを書いている11月頭は幸いコロナ感染者数が減り、落ち着く方向を向いているように思います。油断してはダメだと思いはしますが、それも長くは続かないどころかすでに緩みきっているところも多いでしょう。私も然り。皆様もどうかお気をつけください。
さて、久しぶりに挨拶文を書くので導入がずいぶん長くなってしまいました。この「もやっぽい針の先」という作品は、実はコロナ前からやるつもりだった作品なんです。もう間もなく2年前となる前回公演、旗揚げとして行った「クチナシ シャクヤク クレマチス」はぎりコロナ前の2019年12月の頭でした。年明け早々に次回公演の打ち合わせを行い、20年6月に、このインディペンデントシアター1stにて第2回公演を打とうと決めました。そして最初の緊急事態宣言。その後も二度ほど企画しては潰えた夢でした。キャストも演出も、最初の頃から随分と変わりました。役者にも大変苦労をかけました。それでもこんな私についてきてくれて、潰れても諦めずにやってきて、ついに、ようやく、今日、日の目を浴びることが出来ます。ぜひ楽しんでください。
本作品は不条理劇というジャンルの劇となります。条理にかなっていないことが多く起きます。条理にかなっていない行動も多くあります。できれば、拒絶せずに、一回飲み込んで欲しいです。いわゆるエンタメ作品のように感情移入して観られると、すぐに移入できなくなってしまうと思います。できれば距離をとって、一歩二歩心の距離を置いて、観察するようなつもりで観てください。多分何を喋ってるかわからないこともあると思います。でも、分かることもあると思います。分かっても言葉に出来なかったりすることがあると思います。それなら無理に言語化しないでください。今回の作品の言葉の多くにも意味はありませんが、感情と思いには意味はあります。「そういうもんだ」をキーワードにして、心穏やかに、激しく憤って、悲しみに暮れて、落ち着いて観てください。注文が多くなって申し訳ありません。とりあえず、まもなく始まります。生で見るお芝居を、生きた人間の熱を、感情の揺れを、楽しんで頂ければ幸いです。
《団員コラム》
「時の間」
世の中には、さまざまな境界線がある。例えば、国と国との境、隣の家との境、この世とあの世の堺。目に見える境界線もあれば、目に見えない境界線もある。なにかと、なにかを、分断する。それは人にとってわかりやすく、機能的であり、便利である。その一方で、境界線を引くことは、そのものに枠をもうけることであり、それ以外のなにものにもなりづらいという側面をもつ。このことに対してわたしは、虚しさを感じることがよくある。線を引くよりも、融かしたり、移ろったり、なめらかになったり、そういう白と黒に分けられないような曖昧さを認めたり、うつくしさを感じたり…もっとそれが受け入れられる世の中であればいいのに。いまの社会はあまりにも、境界線が多くて息苦しい。目に見えるものも、見えないものも。時間に、境界線はない。朝・昼・夜という名前はあっても、朝は何時から何時までなのか、夜は何時から始まるのか、明確な境界線はない。ただ日が昇り、日が落ちるまでの一連の流れに、一定の速度でリズムを刻んでいるだけだ。時は刻むものだが、時間は流れるもの。なにかと、なにかのはざまにあるものを、見つめる余白を持ち続けていたいものだ。
西道
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