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過去の選挙で感じたこと(2021.10.29)

 衆議院選挙が迫り(2021.10.29当時)、学会の選挙のための戦いにうんざりしている方も多くいらっしゃることかと思います。ここでは、私が過去の選挙で感じたことについて少しお話ししたいと思います。

 私はこれまで学会の会合や勉強会に参加することはあっても、誰かを祈伏したり選挙活動を行ったりすることはほとんどありませんでした。なぜなら、その意義についてあまり納得していなかったし、友達に距離を置かれるのが嫌だと思っていたからです。それでも、私は去年の市議会議員選挙の際に1回だけ友達に選挙のお願いをしたことがありました。この頃は、私が創価学会のおかしさに薄々気付き始めていた頃でした。元々私は、誰かに選挙を頼むつもりはありませんでしたが、婦人部の人が公明党の候補者を連れて家庭訪問に来たり、女子部の人が県の幹部を連れて投票時期直前に、私の同級生の学生部が選挙をこういう風に頼んでいた、選挙を頼んでも普段の振る舞いが良ければ友達に嫌われることはない、というような話をしに来たりして、なんとなく自分も何か選挙戦のためにやらないといけないのかなという義務感を感じるようになりました。今振り返ると、周囲の学会員は私に選挙活動させようと無意識のうちに圧力をかけていたのだと思います。

 結局私は最後まで迷ったのですが、ギリギリになって親友に選挙のお願いのラインをしてしまいました。そのことを女子部の人に報告したところ、心からの感動の言葉とともに“素晴らしい”と褒めちぎられました。このとき、褒められて嬉しいという気持ちが一瞬湧きましたが、少し時間を置いて冷静に考えてみると、これってなんか洗脳みたいだなと違和感を覚えました。この出来事は私がこれまで薄々感じていた学会への不信感を増幅させる一つのきっかけとなりました。もし私がもう少し承認欲求の強い性格だったら組織の中で認められたくて選挙活動にのめり込んでいたのかもしれないと思うと少しぞっとします。選挙のお願いをしてから、しばらくその親友とは連絡を取らなくなりました。去年はコロナの影響で、大学で直接会える機会もなく、選挙を頼んだせいで嫌われたかもしれないと気がかりでいましたが、最近になって対面授業が増え、その子と同じ授業を取ったとき、以前と同じように仲良くしてくれて安心しました。

 選挙を頼んでも普段の振る舞いが良ければ友人に嫌われることはないというような話はしばしば祈伏同様、選挙活動を渋っている会員に発破をかける際に使われます。こういった話は、本当にそれが原因で嫌われたときに会員が自分を責めてしまうことに繋がりかねないと思います。創価学会は良くも悪くも有名な団体で、様々な理由から創価学会が嫌いという人は一定数おり、いくら本人の普段の振る舞いが良くても残念ながら偏見から距離を置かれてしまう場合もあるでしょう。また会内で、友達の迷惑を考えていないような選挙の頼み方が推奨されているケースも散見されます。例えば、コロナ禍にも関わらず対面でお願いしに行くことが推奨されたり、最近はあまりないのかもしれませんが普段連絡しないような旧友も含めて片っ端から選挙のお願いの連絡をしたり、選挙を頼むためだけに友達を遊びに誘ったりすることがいかにも尊いことのように扱われたりすることがあります。そんな中で友人に距離を置かれてしまうのはある程度仕方がないことなのかもしれません。それにも関わらず、本人の普段の振る舞いが良ければ嫌われることはないと指導することは本人の普段の振る舞いにその責任を転嫁しており、少し酷な気がします。

 会の教えでは、知り合いに選挙を頼むことは世界平和のための師弟の戦いか何かなのかもしれませんが、公明党の過去の政策をよく調べてみると中には世界平和と相容れないような政策があったり、議員の不祥事が度々見つかったりしていて、とてもそのような崇高なものには思えません。私はこんなことのために友人関係について余計な不安を持たなければいけないのは御免です。

この記事はアメブロから転載しました。https://ameblo.jp/ttherm00297200/entry-12706930999.html

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