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日本のバンドKINEMAS、韓国へ。 第2回(全6回)

翌日。昼間は雨の中「明洞」「ソウル駅」「光化門広場」を一人で観光。靴の中がびしょ濡れ。コンビニで新聞を買って宿で靴に突っ込んでおこう、と新聞を探すも売ってない。そういえば雑誌もない。聞くと、所謂「少年ジャンプ」的な雑誌は韓国には無いらしい。そういえば台湾にも無かったな(台湾は雑誌のコーナーはあります)。日本のマンガ文化恐るべし。


この夜は前日とは別のカン君の先輩と3人で。梨泰院(イテウォン)という、韓国の中でも外国人(アジア系というよりはアメリカ・ヨーロッパ系の)がよく遊んでいるというエリアへ。一通り通りを散策した後、結局居酒屋的な店に。この先輩も在日韓国人で、学生時代は日本で過ごし、今は兵役のため韓国で暮らしているのこと。なので日本語はもちろんペラペラ。兵役制度の中にはずっと軍隊ではなく、役場の事務員として兵役期間を過ごす仕組みもあるらしく、それで兵役中とのことでした。彼は日本がとても好きで、日本人として日本で過ごしたかったと言っていました。カン君も似たような境遇ではあるが、カン君は“兵役は行っても行かなくてもいい生まれだが、カン君の意思として行きたいと思っている”に対し、その先輩は“兵役にはできれば行きたくはないが、行かなければいけない生まれなので行っている”という、真逆の境遇なんだそうです。「俺とお前が逆だったらよかったのにな。」というその先輩の言葉がとてもズッシリきました。

この日は終始呑みました。段々と会話もざっくばらんになっていきました。“日本人として日本で暮らしたい”とその先輩は言いました。

「日本人と結婚すればいいじゃんか。君なら簡単だよ。」
「そうっすね、簡単っすね。」

きっと簡単じゃない、でも軽く言わないといけないような・・・そんなことに悩まなくていい未来が来てほしいと願うような。聡明に見える彼だからこそ、僕もそう言えたような。何人かなんて関係ない。でも祖国への気持ちや、血の繋がりや歴史がそこには確かにあって、だからこそ僕らは今同じテーブルで交流できているんだと思うと、これまでの歴史にも、生まれ出会ったのがこの時代であったことにも感謝しないといけないと思いました。大局や政治をすぐに変えるのは難しくても、誰と食卓を囲むかは自分次第でいくらでも選択できるのだから。


帰りの精算時、飲み過ぎてトイレで吐いてしまう(情けない・・・)。せめて汚すまい、と、便器を拭ききってトイレを出たら、そこには店員にモップを渡されたカン君が立っていました(笑)。(店側から「掃除しろよ」ということだったそうです。)その夜の精算は誰がどうしたか覚えてないけど、韓国は割り勘もクレジットカードで対応してくれます(10000Wずつそれぞれカードで支払い、のように)。日本でも○○Payとかで一部あるみたいだけど、全体的にその制度導入してくれないかな。



最終日。ホンデから仁川空港までの電車の中、NakamuraEmiの「新聞」という曲がシャッフルで流れてきました。古き良き日本の風景と今の時代の日本とのギャップを憂うような歌詞。思えば今回は、“韓国で暮らす在日韓国人”との旅でした。彼らには生まれながらに、日本でのギャップと韓国でのギャップと、そして日本と韓国の間のギャップがある。果たして僕は、彼らと同じ景色を見ていたのだろうか。


日本に帰国し、すぐにバンドメンバーに連絡。行けるメンバーを募り、そのまま5月に行くことに決めました。鉄は熱いうちに打て、じゃないけど、早めにライブを観てもらった方がいいと僕の勘がいっていたので。ムッティー(E.Guitar)、あやこさん(Chorus)、半ちゃん(Drums)、そしてベースに僕とカン君が出会うきっかけとなったボランを誘い、BBANGと日程を打ち合わせ5月のライブが決まりました。本来はこれにキーボードを入れた6人編成が僕らのスタンダードなのですが、どうしても都合がつかなかったため、5月は僕が全編アコースティックギターを弾くことにしての5人編成での公演です。

(第3回へ続く)


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