言語化できないものを描く―『ドライブ・マイ・カー』感想

 西島秀俊の背中っ!!!!!!!…失礼。取り乱しました。
 こんにちは。鯨と申します。映研では本年度から部長を務めています。こんな奴で務まるのでしょうか。まぁ部長と言っても様々でしょうし、僕は僕なりにやっていこうと思います。不安ですが、がんばります。

 さて、本題に戻ります。話題作『ドライブ・マイ・カー』を観てきました。冒頭の世迷い言は主人公、家福 雄介(演:西島秀俊)とその妻、家福 音(演:霧島れいか)がセックスをする冒頭のシーンを見ての感想です。
 西島秀俊の背中、良すぎる。本当にびっくりしました。西島秀俊って50歳なんですよね。おじさんですよ?もう。こんな50歳がいるかよ。いるんだな、ここに。凄すぎる。
 家福の専属ドライバーでもう1人の主人公と言える渡利 みさき(演:三浦透子)が煙草を吸うシーンも様になっていてめちゃくちゃ良かったです。

 僕は村上春樹の短編が好きで、原作が収められている『女のいない男たち』も読んでいました。それだけに『ドライブ・マイ・カー』が映画化されると聞いたときは正直不安でした。文庫本にして60ページ程度しかなく、場面はほとんど車の中。これを1時間半程度の尺の映像にするなんて無理があるんじゃないか。更に詳細を見て、目を疑いました。上映時間179分。約3時間。…どゆこと?絶対間が持たないだろ…。
 全くの杞憂でした。3時間、一切間延びせず、飽きもしませんでした。もちろんそれは、映画化にあたって原作に付け足されたたくさんの要素によるものでもありますが、画面が美しかったのも飽きが来なかった要因かなと思います。特にサーブ900の赤い車体が画面に映える映える。音の演出も素晴らしかった。原作が村上春樹作品だけあってレコードが印象的に登場しますが、それだけでなく日常的な動作に付属する音(車庫のシャッターが閉まる音が印象的でした)もクリアで心地よく、台詞では伝えられない意味を伝えていました。
序盤のうちから、「これは凄い映像作品だぞ…」と思わせてくれる力がありました。3時間くらい、全く苦にならず。気づけば劇終。凄すぎる。

(以下、多少のネタバレを含みます。個人的にはある程度内容を知っていても楽しめる作品かと思いますが、気になる方はここから先を読み飛ばしてください。)

 今作の設定で最も目を引くのは、家福が舞台演出家になっていることでしょうか。(原作では舞台俳優であり、演出に関わることはありませんでした)家福が演出を手掛ける舞台、『ワーニャ伯父さん』は役ごとに異なる複数の言語で演じられるというかなり特徴的なコンセプトになっています。ストーリーの進行があまりない原作とは違い、この舞台作品が作られていく過程を縦軸にして物語は進んでいきます。

 ここで印象的に登場するのは翻訳という手法です。ある言語を、別の言語に移し替える。翻訳された台詞は舞台後方のスクリーンとして投影され、観客には文字化されて伝えられます。
 今作において「翻訳」は、ただ言語を置き換える以上の効果を発揮しています。それは、言語化できるものとできないものの間に線を引くことです。翻訳は言語化できるものしか扱えません。演劇には(そして映画にも、もちろん、現実にも)言語として語られる台詞と、それ以外の諸要素があります。言葉で伝えられるのはごく一部にすぎません。今作における(あるいは劇中劇『ワーニャ伯父さん』における)「翻訳」は、語り得るものを文字化することで、翻って言語化できないものの存在を強調する役割を担っています。それは音声や視覚によって伝えられる印象やメッセージ、言語化できない「何か」としか言いようのないものです。
 家福は劇中、演者に稽古をつけるシーンで「何か」という言葉を用いて言語化できないものの重要性を強調しています。「何か」とは、「何かでないもの」(=語り得るもの)の余剰物であり、それを描くには語り得るものを語り尽くすしかない。そういった戦略が、「翻訳」という手法によって行われていたように、僕には思えます。

 「翻訳」に加え、本作で印象的に使われる仕掛けとして「代役」が挙げられるでしょう。終盤、傷害致死の容疑で逮捕された高槻(演:岡田将生)に代わり家福がワーニャ役になりますが、代役である家福は"高槻として"ワーニャを演じることは(原理的に)できません。家福は家福としてワーニャを演じるしかなく、高槻にはなれない。代役にはなれても、完全に代わることはできません。
 それは、作品の中心的なモチーフである「運転」にも言えます。誰でも、運転席に座ることはできます。(もちろん、運転免許さえあれば。)しかし、みさきの運転が極めて優れているように、車の運転にはそれぞれの癖や特色が出るものです。単なる移動であれば誰にだって可能ですが、同じ運転をすることは誰にもできません。
 このような意味において、完全な意味での「代役」は不可能なものとなっています。決して誰にも代わりえない「何か」、余剰物があるからです。「翻訳」と同様に「代役」も、代われない「何か」を描く戦略として用いられているのではないでしょうか。

 ところで、みさきは家福にとって妻の代償であり娘の代償として登場します。また、同様に家福はみさきにとって父の代償であり、死なせてしまった母やその別人格サチの代償として現れます。それは意図した能動的なものではなく、いわば自然に「重ねてしまう」ものです。
 「代償」は喪失の傷を癒し、それと同時に傷を不可避的に認識させるものとして、喪失のあとの現実を生きるためにタフであることを求めてきます。妻の生前から彼女の不倫を知りながらその事実と正面から向き合ってこなかった家福はみさきを通じて妻と向き合うことになり、母親を「殺した」事実から西へ西へと逃げ続けたみさきは家福を通じて母親(とサチ)と向き合うことになります。
 しかし、誰かを喪った傷痕と、その代償となる人は絶対にぴったりと一致しません。その余剰は、喪った誰かに付随する「何か」でもあり、代償となる人に付随する「何か」でもあります。「代償」は、「翻訳」や「代役」と同様に、代えられない「何か」を浮き彫りにする契機になっているように思います。「何か」は「何か」としか言えない曖昧模糊としたものであり、誰かを代償とすることで、あるいは、誰かの代償となることで、見えてくるものなのでしょう。
 だからこそ、2人はそれぞれの喪失に向き合うことができたのではないでしょうか。みさきは家福とともに故郷の北海道・上十二滝村へ行き、実家の跡地で喪失と向き合います。また、その後家福は高槻の代役としてワーニャを演じることを決意し、妻の死後立てなくなっていた舞台に再び立ち、見事に演じきります。2人喪った傷を乗り越えたのは「代わり」を見つけたからではありません。むしろ、「代わり」を見つけられないことによって、傷と向き合うことができたからです。

 最終盤、みさきが韓国のスーパーマーケットでの買い物を終え、赤色のサーブ900に戻るシーンがあります。こうなるまでの経緯は観客に委ねられていますが、少なくともみさきが韓国に移住したのは確実でしょうし、家福がサーブ900をみさきに譲ったと考えるのが妥当だと思います。
 みさきは喪失を経験した北海道から逃げるように西へ西へと向かい、広島にたどり着きましたが、韓国は広島から見ると北、つまり広島から韓国への移住は北海道に近づくことを意味します。これはみさきが喪失を乗り越え、喪失から逃げるわけでも喪ったものを取り返すわけでもない人生を選べるようになったことを示しているのではないでしょうか。同じことは、妻との思い出がつまった場所である愛車を手放した家福にも言えます。もちろんそれは、喪ったものを蔑ろにすることを意味しません。譲った相手がみさきだったのは、彼女が車を大切に扱う、信頼のできるドライバーだからではないでしょうか。


 こうして振り返ってみると、今作『ドライブ・マイ・カー』は原作の作品性を基本的には踏襲しつつも、多様な表現技巧を用いてより一層多様な意味を付与した類まれな作品だったように思います。

 単に小説を映像に移し替えるだけでなく、映画というメディアで表せないものを追加する。映像で描くことに必然性のある作品を見ると嬉しくなっちゃいますね。
 言葉では語り得ないものを伝えることができる。やっぱり映画っていいな、そう思える作品でした。

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