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どこまでも『サマーフィルムにのって』/『お耳に合いましたら。』ー「好き」をもっとー

(ネタバレあり)


2021年8月、監督松本壮史・主演伊藤万理華の映画『サマーフィルムにのって』(以降『サマーフィルム』と表記)が公開された。あらすじは以下の通り。

勝新を敬愛する高校3年生のハダシ。
キラキラ恋愛映画ばかりの映画部では、撮りたい時代劇を作れずにくすぶっていた。
そんなある日、彼女の前に現れたのは武士役にぴったりな凛太郎。
すぐさま個性豊かな仲間を集め出したハダシは、「打倒ラブコメ!」を掲げ文化祭でのゲリラ上映を目指すことに。
青春全てをかけた映画作りの中で、ハダシは凛太郎へほのかな恋心を抱き始めるが、彼には未来からやってきたタイムトラベラーだという秘密があった――。

出典:『サマーフィルムにのって』公式サイト

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フライヤーにもあるように、本作は「恋×友情×時代劇×SF×青春映画」。あらすじを読んだだけでもお腹いっぱいになりそう。平たく言うと、現代を生きる武士の友情物語『武士の青春』をハダシ監督が撮るおはなしだ。
あまりにも要素が多すぎるので、たった97分間の映像にまとまるのか?と思っていたが、その全ては「映画(を観ること、作ること)」によって丸ごと束ねられており、見事だった。

ただ、脚本・三浦直之氏との対談で監督が語っていた[注1]ようにかなり展開が早く、97分にぎゅぎゅっと詰め込んだストーリーとなっている。ハダシたちの駆け抜けた青春そのものである疾走感が心地よくもあった一方、その心地よさに身を委ねすぎるあまりに感じ取りたい「なにか」を取りこぼしているかもしれない。
今回のレビューは、『サマーフィルム』によって生まれたビックウェーブ-感情のうねり-を言語化した記録、のようなものになる。


[注1]:本作の初稿は2時間半程度だったが、90分台の映画にしたいという監督の意向で脚本がずいぶん変わったそう。映画『ウォーターボーイズ』が91分の尺で、そのスピード感を参考にしたという。
(出典:公式パンフレット)



<世代を限定しない「青春映画」>

私はこの映画を観たときに「(ハダシたちと同じ)高校生に戻りたい=青春をやり直したい」と感じなかった。ハダシたちにいい意味で「高校生らしさ」を見出せなかったからだ。

それは、ハダシたち高校生の周囲にいるはずの教師や部活の顧問、親といった「大人」がほとんど出てこないことが理由にある。高校でのシーンに先生が数回登場するくらいだ。ダディボーイの高校生らしからぬ風貌と渋い声を弄る先生や、照明を大量に付けた自作の改造チャリで校庭を走る小栗を注意する先生というように、のちに「ハダシ組」へ加わることになる2人の特徴を印象付けるための出演に限られる。

この徹底的な「大人の不在」を受けた観客は、彼女らの創作活動が、思春期にありがちな「自由を束縛してくる大人」からの逃避による結果ではなく、ただ「映画を作りたい/映画が好き」という積極的な情動によるものだと自然に解釈することができる。

また、「大人の不在」はハダシたちの自立を直接的な言葉にせずとも印象付ける。『武士の青春』の撮影資金を引越しのバイトで稼いでいることは、彼女らの経済的な自立を示すだろう。自分たちで物語をつくっていくというハダシたちの気概が感じられる。

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本作は「青春映画」と銘打ってはいるものの、青春と言えばだれもが思い浮かべるような学生時代という限定的な期間を回顧させ、憧憬を煽るものではない。
ハダシたちに「大人に依存している」という高校生らしさ(=学生らしさ)が抜け落ちていることで、世代を問わず「好き」という情熱を持っている人すべてに刺さる映画だ。


<「斬り合わない」から「斬り合う」への転換>

ただひたすらに「好き」という言葉を浴びせ合う花鈴監督作『大好きってしか言えねーじゃん』(以降『大好きってしか』と表記)を観たハダシは、「好きな気持ちを「好き」という言葉を使わずにどう伝えるかが、映画にとって重要だ」とこぼす。
しかし『武士の青春』のラストにおいてハダシは凛太郎に、体育館を舞台に演技するなかで「好きだ」と伝える。これは、凛太郎に出演を何度拒否されてもオファーし続けるほど映画へのこだわりが強いハダシにとって、重要な変化である。

好きな気持ちを「好き」という言葉で伝えることに抵抗を示すハダシの態度は、『武士の青春』の制作でも一貫していた。「好きだからこそ」斬り合わないでいるべきだと考え、『武士の青春』のラストにおいて心の通じ合っている主演の武士2人(凛太郎とダディーボーイ)は斬り合わない、という演出を選択する。
だが、部室で花鈴とハダシが一緒に名作恋愛映画を観たある夜。花鈴の「やっぱり主人公には勝負してほしいんだよね」という言葉を聞いたハダシは、撮ったラストを急遽変更する。

ここで言う「主人公」とは誰のことか。
ハダシや花鈴から見れば、彼女らにとってのフィクション世界を生きる人物、つまり劇中劇である『大好きってしか』や『武士の青春』の主人公である。
しかし、『サマーフィルム』という映画作品を観ている私たち観客からすれば、主人公は伊藤万理華演じるハダシである。待ってください。私は、「ハダシがメタ的な視点を獲得し、自分が『サマーフィルムにのって』という作品に主人公として出演していることを悟った」、というようなことを言うつもりは毛頭ありません。

これは、フィクション世界『武士の青春』を生きる人の物語をひたすらに撮ってきたハダシが、自分自身の物語(=人生)に目を向けた結果としての変化ではないだろうか。

『武士の青春』上映途中、急遽ラストを変更し、その場で主演2人が斬り合うことになるが、凛太郎と共に主演をつとめたダディボーイはハダシに即席の剣を渡す。「ここは、おまえだろ」という言葉とともに。
そして実演するハダシは凛太郎に「好きだ」と告白する。「好きだからこそ斬り合わない」から「好きだからこそ斬り合う=勝負する」への転換。
ここで『武士の青春』は、『大好きってしか』と同じく「好き」を直接的に表現し伝える映画へと変化する。ハダシが冒頭で「あんなの映画じゃない」と腐していた映画になったのだ。

この転換には、ハダシと対立しているかのようにみえた花鈴の価値観が影響している。そして、自分の人生の「主人公」は紛れもない自分であることに気付いたハダシの意識によるものである。他者の物語を撮る側から、人生という物語を生きる当事者へ。
以上の点から、この映画は、ハダシが他者の物語を受容し、映画というフィクションを作る行為を通じて、自分自身の人生を知覚するようになる物語とも言えるだろう。

サマフィル撮影


<時間と虚実を飛び越えて>

浜辺で円を描きながら「好き」を伝えあい続ける『大好きってしか』。その演出は、花鈴監督の「もう1回!」という言葉によってテイクが重ねられる。円環のモチーフと、セリフ・演出の幾度とない反復。冒頭に流れる『大好きってしか』には『(仮)』の文字が加えられている。
一方で『武士の青春』のラストを何度も書き換えるハダシ。その姿は未来を何度も書き直す姿のように映る。そして、ハダシと凛太郎が斬り合うシーンの結末を映すことなくエンドロールを迎える『サマーフィルム』。

円を描き同じ行為を繰り返す『大好きってしか』と、ある1つの確定した結末が示されない『武士の青春』は、「終わらないもの」として表現されているのだ。

前述したように、『武士の青春』と『大好きってしか』は劇中劇である。2つの劇中劇は『サマーフィルム』という枠の中でしか再生されない。『サマーフィルム』が閉じられることで、結末を留保したままそこに内包される両作品は永遠の命を有する。

――――――

登場人物たちが好んでやまない映画だが、未来では「映画・映画館が無くなっている」こと、更に「動画は長くて5秒になっている」ことが凛太郎によって明かされる。凛太郎の生きる「未来」に映画は存在しない。
フィクションであるはずの『サマーフィルム』の世界で示される「未来」は、どこでも映画鑑賞が可能で、tiktokやYouTubeのショート動画といった短尺動画が大量消費されている現在とも重なる。また、最近話題の「ファスト映画」問題をも想起させる。
私たちが生きる現在からそう遠くない未来に、凛太郎は生きているかもしれない。

物語世界と現実世界の交錯は、『武士の青春』ラストシーンにおいても見られる。
演じるハダシは凛太郎を見つめるが、それはカメラをじっと見据える行為として表される。『サマーフィルム』という物語世界を生き、かつ『武士の青春』という劇中劇世界を演じるハダシの眼差しは、2層の物語を越えて私たち観客へ届けられる。ハダシに言葉を返す凛太郎もまた、カメラ目線だ。
スマートフォンで映画を撮れる世界を生きながらも、映画が存在しない状態が想像に難くない世界を生きる私たち観客は、過去と未来という両者の眼差しを受け、どちらの時制にも属さぬ目撃者として存在している。

ハダシたちが過去の映画(時代劇)に感銘を受けたように、観客は『サマーフィルム』という完結した過去の物語に胸を打つ。スクリーンを飛び越えて起こる感動の連鎖は、「映画を撮る映画」という本作のもつ特徴を十二分に活かした結果だと言えよう。


<最後に>

本作は、ハダシが映画という他者の物語を作るなかで対立を経験し、自分自身の人生を動かしていくようになる物語である、と私は思う。
しかしながらこれはハダシに注目したときの1つの見方に過ぎない。ビート板、ブルーハワイなど別の人物に目を向けると全く違った物語が見えてくるのは、一人一人が異なる物語(=人生)を歩んでいるからだ。
時代劇で示される過去、『武士の青春』『大好きってしか』の舞台である現在、そして切ないながらも容易に想像できる「映画が存在しない」未来。それぞれの時相を掬い上げる優れた脚本は、どの世代も取りこぼさない「青春映画」を作り上げている。

ちなみに。
本編では描かれないが、未来に帰った凛太郎はハダシ監督と同じ場所で映画を撮っている(パンフレットより)。この繋がりもまた、現在から未来へと時を越えて繰り返される物語の1要素として考えられるかもしれない。



<最後に②おまけ:伊藤万理華さんの魅力について>

主演の伊藤万理華さんは元乃木坂46のメンバー。2017年に卒業してからは俳優としてドラマ・映画・舞台に出演、さらに展覧会『伊藤万理華EXHIBITION “HOMESICK”』(2020)を開催するなどクリエイターとしても活躍している。2021年夏放送のテレ東ドラマ『お耳に合いましたら。』(以降『お耳』と表記)では主演をつとめる。

『お耳』で伊藤万理華さんが演じる高村美園は、チェーン店のご飯(=チェンメシ)への愛をポッドキャストで配信する会社員。突然このドラマを取り上げたのは、『サマーフィルム』『お耳』がともに松本壮史監督×伊藤万理華主演というタッグを組んでいるからだ。

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前者では映画を、後者ではチェンメシを愛する役を演じる伊藤万理華さんは、その愛を言葉で表現する。自室で1人マイクに向かい、熱情的な語りでポッドキャストを収録する美園の姿は、『サマーフィルム』終盤でマイクに向かって思いをぶつけるハダシの姿と重なる。これは単なる演出の偶然ではなく、松本壮史監督がもつ「伊藤万理華観」による意図的な一致としか考えられない(私の深読みだったらごめんなさい)。
「好きなものをちゃんと好きって言わないと心が死んでしまうから」と語る美園は、「好き」を躊躇なく言葉にできるようになったハダシの精神を受け継いでいるように思える。

『サマーフィルム』の魅力は「おはなし」にあるのはもちろん、青が鮮やかに映る爽やかな映像、数多のキマッている構図、音楽(Cody・Lee(李)による主題歌『異星人と熱帯夜』、とても良い。ジャケット写真とMVを伊藤万理華さんが担当しているので是非見聞きしてほしい。)など枚挙にいとまがない。そんな中で私が最も印象的なのは、「〇〇(人、モノ、景色)を見つめるハダシ」だ。

そもそも、「ハダシ監督が役者・スタッフをキャスティングしていく」というストーリーであるから、ハダシが魅力的な人物を見るカットは非常に多い。伊藤万理華さんが仲間たちを見るキラキラした瞳と、ニヤけた口元が愛らしい。伊藤万理華さん、あなたが1番魅力的です……。
目線の先のモノさえ魅力的に感じさせる伊藤万理華さんの眼差しは、画面に映るものすべてをキラキラさせる力があった。

「好きなことを好きってことばにすること」がどれだけ大切か。
作品を通じて、画面を通して、伊藤万理華さんに何度も教えられた2021年夏だった。


筆:山下(ラタタ)

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