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レビュー『スパイの妻』

監督:黒沢清,出演:蒼井優、高橋一生、東出昌大など

ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(監督賞)受賞作品

感想はネタバレを含みます。

一九四〇年。少しずつ、戦争の足音が日本に近づいてきた頃。
聡子(蒼井優)は貿易会社を営む福原優作(高橋一生)とともに、神戸で瀟洒な洋館で暮らしていた。
身の回りの世話をするのは駒子(恒松祐里)と執事の金村(みのすけ)。
愛する夫とともに生きる、何不自由ない満ち足りた生活。
ある日、優作は物資を求めて満州へ渡航する。
満州では野崎医師(笹野高史)から依頼された薬品も入手する予定だった。
そのために赴いた先で偶然、衝撃的な国家機密を目にしてしまった優作と福原物産で働く優作の甥・竹下文雄(坂東龍汰)。
二人は現地で得た証拠と共にその事実を世界に知らしめる準備を秘密裏に進めていた。
一方で、何も知らない聡子は、幼馴染でもある神戸憲兵分隊本部の分隊長・津森泰治(東出昌大)に呼び出される。
「優作さんが満州から連れ帰ってきた草壁弘子(玄理)という女性が先日亡くなりました。ご存知ですか?」                    今まで通りの穏やかで幸福な生活が崩れていく不安。
存在すら知らない女をめぐって渦巻く嫉妬。
優作が隠していることとは――?
聡子はある決意を胸に、行動に出る……。(公式サイトより引用)

本作はどんなジャンルに分類されるのだろうか。『スパイの妻』というタイトル通り、スパイものだろうか。派手なアクションは無いし、演出は地味。けれど周到な策略を張り巡らせ、「お見事」な手口で機密文書を持ち出した優作(演:高橋一生)はたしかに一流のスパイだ。そんなミッションの成功を素直に喜べない登場人物が1人いる。優作の妻、聡子(演:蒼井優)は夫の「大義」のためにたった一人、日本に取り残される。精神病院で一人過ごす彼女にとっては、彼との脱出劇はロマンスで、この結末は悲劇だろう。

僕はこの映画の鑑賞後、感覚がマヒしたような、どこかとらえがたい違和感が残った。物語はひとつだけれど、解釈が多様というか、登場人物の認識が入り乱れて、そのずれのせいでどこかホラーじみた印象を受けた。鑑賞直後は蒼井優の演技のインパクトが強く、「お見事」のシーンと精神病院での面会のシーンが印象に残っていた。しかし、映画を観た後に振り返ると印象がガラリと変わるシーンがあったので、そこについて書きたいと思う。

満州から帰国した優作が連れ帰った女性の死をきっかけに、聡子は関東軍の非人道的行為と、それを国際政治の場で告発したいという夫の「大義」を知る。聡子は彼の告発が売国行為であることに葛藤するが、「スパイの妻」としてともに作戦を実行する決意を固める。

彼女は国外へ亡命するのにあたっての資金工作に協力する。

貿易商の夫婦は裕福で経済的は困難はないが、日本円は海外では使えないので一旦日本で貴金属を買い込み、現地で換金する必要がある。偽装工作として記念日のプレゼントを装って二人は時計や宝石を買いまわる。車に乗って、街へ。瀟洒な格好で高価なアクセサリーを見て回る。亡命のための準備なんかには思えないような、きらびやかな時間を二人は過ごす。しかし質屋へ向かう途中、憲兵が1人尾行していることに気づく。優作の提案で二手に別れ、彼は質屋へ向かい聡子は尾行している者がいないか逆監視する。

しばし経ったあと、一人で帰ろうとする優作に作戦を終えた聡子が飛びつく。

「やっとあなたのことがわかった気がする。」「嬉しいのです。あなたの目になれたことが。」と語る彼女は、夫の秘密を知っていること、妻として協力できることの歓喜に打ちひしがれるようだ。

このシーン、ワクワク感があって見ていて気持ちがいいのだが、聡子が過剰に喜んでいるようにも見える。優作の方も「お、おう......」みたいなリアクションになってるし。

このシーンから二人の認識の違いを感じとることができる。優作にとってはこんな作戦はこれから実行する「大義」の前段階に過ぎないが、このデートが聡子にとっては大ごとなのだ。彼女の目的は告発や亡命ではなく、優作と一緒にいることであって、だから彼と秘密を共有し協力することが許される関係にあるのを実感し、はしゃいでいたのではないか。

優作がコスモポリタンとして、ワールドワイドな社会の一員としての使命を果たそうとしているのに対して、聡子の認識する社会はもっと私的だ。

彼女は泰治(東出昌大演じる憲兵の分隊長。聡子の幼馴染)に象徴される日本という中間項の社会と、夫婦という極めて私的で小規模な社会の間で葛藤する。そして日本を売ること、夫婦の社会を優先して「スパイの妻」として生きることを決断する。

【公的←】世界(アメリカ)>日本(憲兵の泰治)>夫婦(優作と聡子)【→私的】

という社会領域の内包関係から考えると、彼女は日本という社会からより私的な領域へ"引きこもる"ことで、優作との関係を重視することで彼に接近できたのだと、「あなたのことがやっとわかった」つもりになっていたが、本当は認識する社会スケールとしては彼から遠ざかっていたのだ。

質屋でのちっぽけな冒険で満足してしまう彼女の姿からそんな矮小さが感じられる。だからこそ、日本で一人取り残され、託されたと思ったフィルムもすり替えられて共に罪を背負うことすらできなくなった彼女は、夫のことを恨むこともできないで「お見事」と叫んだのだろう。あのとき彼女は優作のスケールの大きさを実感し、自分のちっぽけさに気づいたのだ。

「私はここでいいんです」と言った精神病院で、彼女はときどき質屋での体験を思い返したのだろうか。あのとき優作と買った宝石も、時計も日本にはないけれど、あのときの幸せな体験は小さな宝石箱のようで、時折思い返して見つめてはそっと胸にしまう。そんな姿を想像してならない。

筆:葉入くらむ



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