『レリック 遺物』いつか枯れる肢体を抱いて(葉入)

本作のあらすじ

森に囲まれた家でひとり暮らしをする老女エドナが突然姿を消した。娘のケイと孫のサムが急いで向かうと、誰もいない家には、彼女が認知症に苦しんでいた痕跡がたくさん見受けられた。そして2人の心配が頂点に達した頃、突然エドナが帰宅する。だが、その様子はどこかおかしく、まるで知らない別の何かに変貌してしまったかのようだった。サムは母とともに、愛する祖母の本当の姿を取り戻そうと動き出すが、変わり果てたエドナと彼女の家に隠された暗い秘密が、2人を恐怖の渦へと飲み込んでゆく…。     (公式サイトより)

「老い」の内在性

娘、母、祖母の三世代の女性たちが、「老い」という怪物と対峙するサスペンススリラー。ジャンルで言えばホラーなのですが、じっくりと主人公たちを追い詰めるような不穏さがずっと続くタイプで、クリーチャーがどーんと出てきて逃げろー!って感じのテンションではないです(そういうシーンもあったけど)。

 登場人物の娘(ケイ)、母(サム)、祖母(エドナ)の3人は明るいショートヘアー→黒髪のミディアム→白髪のロングといったふうに年齢が上がるごとに髪が伸びていき、まるでひとつの女性のそれぞれの時代を象徴するようです。この通時性はまさに本作のテーマである「老い」を端的に表しています。

レリック

 この映画を観るうえで注意したいのは、テーマとなる「老い」というものの内在性です。生物の身体は生命活動を営むうちに少しずつテロメアが短くなり、呼吸による酸化ストレスなどによって細胞レベルで朽ちていくわけですが、これは交通事故や感染症のような「外傷」とは違い、自分の身体の内部から発生する抗いがたい(抗う外的対象すら存在しない)宿命だということです。

ホラー作品の多くでは基本的に日常の外に潜むような怪物との接触が描かれます。『13日の金曜日』では、平穏な日常を過ごす若者たちが湖畔のキャンプ場のような曰くつきの地(異界=外部)に入ってしまったがために、ジェイソンというこの世の理から外れた怪異に襲われたのでした。

 それに対して『レリック』の舞台は三人が住んでいた「我が家」であり、テーマの「老い」の内在性からこの映画に独特の--うちから忍び寄る--恐怖が成立するのです。だからこの作品にとって内と外のモチーフは極めて重要で、このトポロジーについて注意しながら読み解く必要があります。

家の壁の中には屍体が埋まっている

 本作における内在性の表現として印象的なのは、怪物が潜む場所が実は家の中にあった というギミックでしょうか。

祖母(エドナ)の様子を見るために実家で寝食をすごすうちに母(サム)は気味の悪い夢を見るようになります。森にある小屋のような建物の内部に腐乱した死体のような姿をした人物がたたずんでいて、エドナもその中にいるという予知夢のような内容です。

これはエドナが屋外の庭に出かけていこうとするシーンも相まって、怪物が潜むのは夢の中という異界(=現実の外にある別世界)だというミスリードとして働きます。

しかし、その異界は実際には彼女たちが暮らす家の内部とつながっていたのです。失踪した祖母(エドナ)は徘徊老人よろしく外をふらついていたのではなく、家の内部にとらわれていたことが判明します。

最終的に家の壁を突き破ることで異界から脱出するシーンで明らかになるように、怪物が潜む空間は家という心理的・物理的に内面にある場所の、さらに内側--壁の中にあったのです。

 家の内側の空間は物理法則が通じず、本来の家よりも空間的に広がっていたり、振り返るとさっき歩いてきた道が消えているような奇妙なつくりになっています。とくに、娘(ケイ)が逃げ惑うシーンでは壁が四方から少しずつ迫ってくることによって、老化の切迫感が表現されます。

核=「コア」としての老い

 家の内部の異界にとらわれた娘(ケイ)と母(サム)は変わり果てた姿となった祖母(エドナ)から逃げることになります。彼女は皮膚の表面がどす黒く変色し、ところどころひび割れたビジュアルの異形として描かれます。エドナの皮膚は冒頭から黒い痣のような変色が少しずつ進行していきますが、これは皮膚が身体の最も外層に位置することをふまえると、表層的な変化に過ぎず、内部の侵食が目に見えるレベルで顕在化したのではないでしょうか。

 脱出劇のあと、ラストシーンではエドナ(怪物)は息絶え、母(サム)は彼女の亡骸をベットに寝かせて彼女の表皮を丁寧に剝いでいきます。「喪主」として自身の母親の皮膚を剥がしてきれいにしていくシーンは葬儀にほかなりません。(このシーンのビジュアルの美しさは、大きな転換であり、実に不思議な鑑賞体験でした)。葬儀の役割は死の喪失を受け入れることであり、そうしてグロテスクな外皮を除くとあらわになるコアの部分こそ、この死の本質、身体の内部に潜む「老い」なわけです。黒く鈍く光る「コア」は即身仏のような外見をしていて、神々しさすら感じさせるのでした。

そして、これが内部にある「老い」の本質ならば、ぐずぐずに腐った皮膚などは外的な表れ=副次的な産物に過ぎないのだという静かな悟りが流れる。結局のところ「老い」というものがなんなのか、この映画で明らかになることはありません。娘(ケイ)の視点からは母(サム)が「コア」=「老い」と接触し、なぜそれを受け入れるように抱擁したのか釈然としません。ただ、祖母内部のコア→母→自分が順となって横たわるシーンによって、彼女はその連鎖をひっそりと受け入れて物語は幕を閉じます。けれども、この釈然としない、理性を超えた悟性こそが「老い」というものの理解のひとつなのだとも思うのです。


 以上のように『レリック 遺物』は、「老い」の内在性の恐怖と抗えない連鎖を内部/外部のモチーフを使って巧みに表現した映画として、単純なホラー以上の文学性を感じさせる、名作と呼ばれるべき一本だと思います。

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