かもめの水平さん

 電車に揺られるうちに、三宮で隣の席の乗客が入れ替わった。車窓側の景色が開けて、そのうちに海が見えた。
 父の七回忌、私は電車で、母の待つ実家へ帰ろうとしていた。今回は受験生の娘と週末も仕事が続く夫に留守番を頼み、一人での帰省となった。こうして一人、電車で帰るのは何年ぶりだろう。
 あいにくの曇り空、低気圧が近付き、海の上は風があるようだけど、それでも瀬戸内の海は穏やかだ。
 「かもめの水平さん」を思い出すんよ。
 母がそう打ち明けた時のことがよみがえる。

 私の母は大阪で生まれ、3歳まで生みの母と離れて育った。華やかな商売人の家で暮らしに困ることはなかったけれど、「底にひんやり冷たいものがある」と感じさせられた家だった。
 それを話す母はやけにありありと覚えている様子なので、物心つく前のことなのにそんなに覚えているものかと思ったけれど、「なんとも言えん、あの冷たい感じは残っとる」と言った。
 そう感じさせられていたのは、たまに訪ねてくる「岡山のおばさん」がたまらなく慕わしかったからこそなのだろう。
 年に1度ほど岡山から訪ねてくるその人が、実は、生みの母だった。そうと知らず、幼い母は「岡山のおばさん」の来訪を待ち侘びていたと言う。
 数年後、私にとって祖父に当たる人が亡くなった。そのまま大阪にいたら、どんな人生を送ることになるかわからない。祖母はわが子である母を案じて、手元に引き取ることにした。
 母は慕わしい「岡山のおばさん」と一緒に「汽車」に乗り、遠出をすることがうれしくてはしゃいでいたようだった。そしてこれからは、あの冷たいおうちに帰ることなく「岡山のおばさん」のおうちで暮らす、と知り、飛び上がるような気持ちになったと言う。
 車窓の瀬戸内の海を見ながら、幼い母は童謡の「かもめの水平さん」を歌った。
 それを見守る祖母は、どんな気持ちだったろう。事情があったとはいえ、生まれてすぐに手放した娘と暮らせる喜びと、決して裕福ではない暮らしへの不安。その後、母は成長するにつれて、無邪気に「かもめの水平さん」を歌った時には知らなかった事情を知った。
 自分の人生は祖母に救われたものであり、大きく転換したことを、母は涙をこぼしながら話していた。

 母が社会で働くようになった頃、敬愛する師匠が、追善回向のために亡くした親の名前をしたためてくださったことがあった。
 当時の一般的な家族観から母は申し訳ないと思ったそうだが、姓を付けずに父親の名前だけをお伝えしたという。すると、その下だけの名前を和紙にしたため、さらに仏前に供えて回向のご祈念をしてくださったそうだ。
 流麗な筆跡でしたためられた美しい和紙を受け取って、母の心の奥底にずっとあった、引け目のような気持ちがすうっと消えた。
 自分を、そのまま認めてもらったみたいで、ほっとしたんよ。
 ありがたかった、と母はまた涙をこぼしながら話した。

 電車に揺られ、海を眺めながら祖母の、そして私に打ち明けた時の母のことを思う。あの時の母の年齢に私も近付いてきた。
 「かもめの水兵さん」の幼い歌声が、どこからから聞こえるような気がする。瀬戸内の海は、変わらず穏やかだ。


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