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「戦隊ヒーロー」とは?(一考察)

 学校での悲惨ないじめ問題が報道され度に、心が痛む。
 「いじめ」とは、文部科学省によると、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理 的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とされています。
 これに変更されて以来、児童生徒(または保護者)が、「自分はいじめられている」と一言訴えることで、いじめなります。

いじめの定義の変遷(文部科学省資料より)
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/06/26/1400030_003.pdf


最近のいじめの中には、「揶揄い」「仲間外し」の域を大きく越えた犯罪に該当する事案も生じている。

 なぜ、このように、深刻ないじめが発生するようになったのでしょうか?

 以前も確かに「いじめっ子」はいた。しかし、彼ら、彼女らはあくまで少数派であり、「いじめっ子」の行動がクラス全体に波及することは稀であったと感じています。
 意地の悪い子はいても、一方で助けてくれる子はいた。以前の学校には、多様な子どもたちを包摂する余地(弱いものを包摂する)学校文化が確かに存在していたと思う。

 いじめ問題の深刻化が新聞紙上を賑わし、社会問題としてとらえられるようになったのは、1986年2月1日に東京都中野区立中野富士見中学校2年の男子生徒が【「このままじゃ、『生きジゴク』になっちゃうよ」】との遺書を残して自死した事案が発生したころからではないでしょうか?
 自死に至った過程で、クラス担任も「葬式ごっご」に加担し、色紙に追悼メッセージを書き込んだ行為がマスコミの注目を集めた。「教員がいじめに加担するなんて!」という論調であった。
 この件は、国会でも大きく取り扱われ、文部科学省は本格的ないじめ対策に乗り出す契機となった。
 出展:「生きジゴク」になっちゃうよ……教員も参加した“葬式ごっこ”が奪った中学2年生の命 | 文春オンライン (bunshun.jp)

 なぜ、先生がいじめに加担するとなぜ、いじめが深刻化するのか?
私論ではあるが、担任の先生は生徒を評価する立場であり、クラス内での個々の生徒の行動に対し、善悪も含めた「評価」を意識的、無意識的に行っている。担任教師がそのいじめに加担することは、ある意味「該当生徒に対するいじめ行為が正当である」と評価(メッセージ)として、クラス内の生徒に認識されてしまう可能性があるということである。
 おそらく担任は、自分のクラスは「ノリが良い良いクラス」であると普段から見なしており、また、その場の雰囲気で、あまり考えることもなく、色紙に書き込んでしまったのでしょう。しかしながら、その結果、クラスの一部の生徒が行ういじめが正当なものであるいう評価がなされたとクラス内の生徒たちに解されたのであろう。
 その軽率な行動はその後あまりにも重大な結果を生じることになる。「教員によって正当化されたいじめ」は、それまで傍観者であったクラスの他の生徒の参加を促す結果になったのではないだろうか?
 すなわち、「該当生徒はいじめられるような理由があり、その子に対するいじめは認められもので、非難されない」ことを、この担任がクラスで宣言するのと同じ効果を生じたのではないでしょうか?
 当然、いじめられていた男子生徒にとって、「学校は生き地獄」になってしまった。

 この担任の行動やあまりにも不注意であるが、その前提として、「いじめられる側に、それ相当な理由があれば、クラス全員の子どもが、一人の子どもをターゲットとして攻撃しても止もおえないのでは、・・・。」という考え方が子どもたちに広がっているのではないだろうか?

 
戦隊ヒーロー以前の子供向けの番組で描かれていた主人公は孤独であった。時として誰も助けてくれないこともある。必ずしも、勝ち目がある戦いでない。また、正義の戦いであっても、その戦いの中で、自分自身が傷つき、倒れてしまうかもしれない。そんなリスクを冒しながら、それでも、戦い続ける孤高のヒーローの姿を見て、子どもたちは、応援したくなる。そして、「正義とは何なのか?」ということを学んでいたのではないだろうか?

 ウルトラヒーローは、遠い地球で立った一人で戦う。その素性を知られないように。時には、怪獣が本当に悪だとは言い切れないケースもある。疑問や矛盾を抱え、一人で苦悩しながら、孤高の戦いを続けている。
 一方の立場から考える「正義」は、いつも正しいとは限らない。そんな命題がウルトラヒーローには含まれている。

https://ultra1967.blog.fc2.com/blog-entry-18.html


 一方、「秘密戦隊ゴレンジャー」のヒーローたちは、それ以前の孤独なヒーローたちとは違っている。ゴレンジャーの正体は一般には秘匿とされ、普段は一般の人として社会生活を送りながら、黒十字軍の怪人が登場した際に集まり、ヒーローに変身し、5人で力を合わせて戦う。 
敵の軍団は強力で、国連が設置した「イーグル(国際的平和組織の秘密防衛機構)」日本支部は総攻撃を受け、壊滅的な打撃を受ける。その戦いで、生き残った5人が集まり、特別部隊として編成されたのが「ゴレンジャー」という設定である。
 悪の軍団は強く、それぞれの怪人は強く、ヒーロー単独(一人)では非力で戦えない。そこで5人が力を合わせて戦う。個性ある5人のキャラクターが、自己の特性を生かしながら、集団として戦うことで、数段強力なパワーを手に入れ、悪の軍団を打倒できるという構図である。
 一人では、相手を圧倒するような特別な力を持てなくても、仲間で協力すれば、総合力で相手を上回り、倒す力を手に入れられる。
 私も、「秘密戦隊ゴレンジャー」を最初に見たとき、確かに面白く、それまでにない、良い構想の作品だと思った。しかも、黄レンジャーがカレーが好きだなど、コミカルな設定もヒーロ作品ぽくなく新鮮であった。
 ただし、いつも5人で戦うことに少なからず、疑問をもった。それぞれの隊員が、別の場所に現れた怪人とそれぞれ戦ってはだめなのか?また、戦いの終盤、怪人が弱ってきたら、最終兵器を取り出し、5人でゲームのようなルーティーンワークを見せて、必殺技で決めてしまう。悪人の怪人は断末魔を上げて、爆発してこの世界から消滅してしまう。
 そもそも、ヒーローの必殺技は、不利な状況に追い詰められて諦めず、相手の一瞬のスキを狙って「必殺技を繰り出す」べきではないだろうか?相手に十分なダメージを与えて、動きが鈍くなった時に、追い打ちをかけるように必殺技を繰り出すべきだろうか?

 子供向けの勧善懲悪作品なので、怪人が常に倒されるという設定はおかしなものではない。でも、「正義は常に正義で、悪も常に悪なのだろうか?」
善悪が入れ替わることはないのだろうか?そして、一旦、相手が「悪」だと断定されると、全員で嬲り殺しにしても、その行為は正義として絶賛される。その映像によって毎回見せられる戦闘風景には、戦うことに対する躊躇や苦悩は一切ない。正義とは、全員で、全力で悪を打ち倒すこと!!!!

 「この作品での善悪の描かれ方が学齢期の子どもたちの心に悪影響を与えていないのだろうか?」「最近の学校でのいじめの原型になってはいないだろうか?」と疑問を抱くようになった。このシリーズ作品を見るたびに、また、新年度ごとに、ほとんど似た構図で、善悪が描かれ続けているのを見るたびに、「このシリーズの構図が、私には、現在のいじめの構造と同じに見えてきました。」
 ※私の単なる杞憂であれば、いいのですが、・・・。

 今学校で、子どもたちは、一軍、二軍、三軍とポジションが規定され、自分がクラス内で「悪(いじめの対象)」とはならないように教室内でうまく立ち回ることが最重要事項となっている。なぜなら、いったん「悪」と認定されるとクラス全員によるいじめ(正義のための善良な攻撃)の対象となってしまうから、・・。

 このようなある意味「いじめの教科書」のような番組が、多くの子どもたちに視聴され続けていることに、不安な気持ちを抱いている。
 良識あるみなさん。子供向けのテレビ番組の影響力について、一度立ち止まって考えてみませんか? 

参考文献:スーパー戦隊シリーズ - Wikipedia

  スーパー戦隊シリーズ - Wikipediaには、以下のような記載が見られる。

『本シリーズの開始以前、1971年に開始されて大人気を誇った「昭和仮面ライダーシリーズ」の新番組の案として、「最初から5人の仮面ライダーを一度に登場させる」というものがあったが、当時の昭和仮面ライダーシリーズ制作局であった在阪準キー局・毎日放送の映画部部長・庄野至が「ヒーローは一人のもの」として強く反対したため、実現しなかった[4]。「スターの競演はそのときこそ盛り上がるものの、終わってしまえば消沈してしまい、それを防ごうとしてオールスター作品を乱発したことが東映時代劇作品の衰退を早めた」とも言われていたからである[4]。』

 出典[4] ライダー大全 2004, pp. 196–197, 平山亨×内田有作 対談

複数のメンバーがチームとして力を合わせて敵と戦う。
 
『ゴレンジャー』はそれまでのヒーローの基本となっていた『仮面ライダー』や『キカイダー』と差別化するために、刑事ドラマで活用されていた「グループ」という要素を取り入れ、個性的なメンバーの連携と友情を作品の基本とした。『ゴレンジャー』第1話クランクインの前日に、吉川進はスタッフに向かって「ライダーは1人でも怪人を倒せるが、ゴレンジャーは5人が連携してようやく勝てるヒーローである」と語った[22]
 この演出に関して、「1体の怪人相手に5人がかりで戦うのは卑怯ではないか」と語られることがある[23]。『カーレンジャー』第25話などにおけるセルフパロディのように単なる冗談で済む場合もあるが、当の『カーレンジャー』のプロデューサーであった髙寺成紀は友人から「子供たちの間のいじめは、相手を寄ってたかって痛めつける東映特撮番組の悪影響だ」と言われてショックを受けたという[24]

出典
[22] 大全集 1993, p. 145, 新たな世紀に向けて…… 企画者インタビュー 吉川進.
[23] 常識 2012, pp. 20–21, 1対5で怪人と戦うのは卑怯じゃないか?.
  [24] 井上伸一郎「初期平成ライダー考」『ユリイカ 9月臨時増刊号』通巻615号、青土社、2012年8月、p.73


【追記】
 ※「ゴレンジャー」と「いじめ」の2つの Key Word で検索すると次のようなページが見つかりました。私と同じような疑問を、この特撮シリーズに何らかの違和感を感じている人たちを見つけることができましたので、その一部を紹介いたします。

「ゴレンジャーに見る人間社会の考察」
https://ncode.syosetu.com/n4925bh/

「ウルトラマンという事なかれ主義者と、ゴレンジャーというリンチ主犯格。」
https://ameblo.jp/bassist-bun/entry-12038128156.html

戦隊モノのヒーローってイジメ構造とまったく同じですよね? - ど... - Yahoo!知恵袋

戦隊ヒーローもプリキュアも結局は暴力いじめ集団 | 92のブログ (ameblo.jp)


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