(1/2)危機の構造(小室直樹著)を読んで

前前々回に「終わりなき日常を生きろ」(宮台真司著)を扱いました。その本は1995年起きたオウム真理教によるテロ行為、地下鉄サリン事件の起きる社会的文脈を考察した本でした。テロ後すぐに上梓されたその本にはオウムに引き寄せられる動機を、社会の共同体空洞化という近代化の大きな流れによる必然的結果と等身大の輝かしさという当時30代の人間が生きざるを得なかった科学の未来(と革命の輝かしさ)の残滓に求めたのでした。

この度扱うのは、そこから約20年前の1976年に書かれた本で、戦後から1976年に至るまでの日本社会について考察し、そこから日本の危機の構造を導き出しています。著者は社会学者の小室直樹氏で上述の宮台真司先生の師匠にあたる方です。
前前々回には共同体空洞化の弊害について記したため、もしかすると共同体が機能していた時代に憧憬の念を抱いたかもしれません。高度経済成長も、ニクソンショックと石油危機はあれど、経済成長率は下がっただけで、当時は経済が右肩上がりであることには違いありません。しかし、事はそう単純ではないのです。
ロッキード事件、連合赤軍のあさま山荘事件、テルアビブ空港乱射事件、一連の企業爆破事件、日航機ハイジャック、学園紛争、公害問題と社会を揺るがす事件が戦後多発しています。
高度経済成長にしてもどうでしょうか?私は偶然過去の映像をテレビで見たことがあるのですが、当時会社の屋上で朝礼をして大声でその日のノルマを一人一人叫んでいました。今の我々の感覚からするとどうも相容れず、どこか過剰なものを感じます。
当時の状況(サラリーマンや官僚、一般人)を鑑みて、小室直樹氏は社会がアノミー状態に陥っている警鐘を鳴らしています。
アノミーとは社会学者のデュルケムが用いた概念で、無規範、無連帯と訳されます。
急激な生活水準の変化により、それまでの生活における規範と新しい生活における規範の間で葛藤が生じ心理的緊張状態に陥ります(単純アノミー)。
また他には、信頼しきっていた存在に裏切られることで生じる心理的パニックが社会全体に広がる(急性アノミー)があります。社会秩序とは、権威ある権力による実力的威嚇とそのことによる社会の心理的安定が条件です。それは謂わば服従者と被服従者との双務契約(被服従者は服従を、服従者は秩序を与える)であり、どちらか一方が違反すると規範の全面的解体が行われます。
翻って日本を見たときに、戦後の天皇による人間宣言によって日本社会の秩序は崩壊しました。
て、天皇ですか?と戸惑うかもしれませんが、戦前日本における天皇は一神教的神と機能的に等価な存在であり、政治的にも主権という立場でした(この本では詳述していませんが、『奇蹟の今上天皇』等他の著作にこれでもかと詳述されています)。
天皇の人間宣言により急性アノミーに陥った日本社会の国家意識は元々の村落共同体に還流しますが、村落共同体は自民党55年体制のもと、都市に労働者を集めるため人口が流出し、戦後いち早く空洞化します。するとどうなったか?学校や企業や官庁といった機能集団が共同体の性格を帯びます。ここがポイントです。
機能集団が生活共同体であり運命共同体になる。
どういうことかと言いますと、各成員はあたかも「新しく生まれたかのごとく」この共同体に加入し、ひとたび加入した以上他の共同体を離れては生活の質が得られないだけでなく、社会的生活を営むことすら困難になります。

機能集団が共同体になる、このことはどんなことを帰結するでしょうか?
この本が書かれた1970年代はテロ事件が相次いだ時代でした。連合赤軍のあさま山荘事件、テルアビブ空港乱射事件、一連の企業爆破事件、日航機ハイジャック事件・・。
彼らは社会の落伍者だったか?実際の犯人は共通して、中流家庭の出自であり、真面目で、精神病も患っていない大人でした。それに対してナチスにすらあった中立者の権利尊重と戦前の軍国主義者にすらあった最低限の規範が欠如していました。彼らは完全アノミー状態でした。
彼らの行動原理を盲目的予定調和説と銘打ち、それは
「自分たちこそ国民から選ばれたエリートであり、日本の運命は自分たちにかかっている。この努力は、所与の特定した技術の発揮において成される。したがって所与・特定の技術の発揮のみ全身全霊で打ち込めば、そのほかの事情は自動的に上手くいき、日本は安泰となる」
というものです。
この盲目的予定調和説はビジネスエリートや特権官僚の行動原理と同型といいます。
盲目的予定調和説では、各機能集団間の機能的対立は看過され、特定の技術のみが信仰されます。というのも、共同体の内外が峻別され、共同体の内部からの視座があるのみで、外部に対する視座がないからです(二重規範)。成員からしてみれば化外の地となります。
そのため①個別の事態に対処できても全体を見通すことができず、新しい事態に対応することができなくなります。②加えて、各成員は運命共同体であり生活共同体であるため、共同体内の機能的要請が絶対視され、決断の主体が成員の中にいません。よって無責任体制となります。
例えば公害問題がまさにそうでしょう。
官僚組織内で日本の経済成長が目標となった途端、それ以外は無視され負の外部性にイマジネーションが働かなくなります。また、企業では自社の経営発展が目標となった途端、その機能的要請の遵守は成員の社会的生活や全人格に関わるため、外部にいる生命よりも自社の利益が優先されます(労働力と労働者、資本家と資本の所有が未分化であり責任が曖昧になることも関係します)。
③また、共同体の各成員は「新しく生まれたかのごとく」共同体に加入するため、元々組織集団は人工的であるはずなのに、それが所与のもの、自然現象のようなものとして認識されます。そうなると近代政治社会が要求する、社会秩序を歴史の偶然としてみる(故に人間の作為によって制御可能であるという)規範がありません。

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