閑話休題 村上春樹とサリンジャー

閑話休題と題するのは、エッセイと題すのもなんだかなぁと思うからです。でも本来noteとかブログだと日々の日記的なのを書くのが普通なんじゃないですかね。初回からゴリゴリに書評的なの(と呼ばせてください)を書く方がマイノリティかもしれない。

エッセイで言うと、私の一番好きなエッセイの書き手は村上春樹さんです。村上春樹さんというと誰もが知る世界的な小説家ですが、『村上ラヂオ』とか『村上朝日堂』とかのエッセイ読んでみてください。とても面白いです。
面白いというのは興味深いというより、笑える方の面白さです。いいユーモアのセンスを持っているという意味です。関西人だからでしょうか?具体的にどんなところかと聞かれると困りますが・・・。

funnyと言う意味で面白くはないのですが、それでもひどく感心させられた彼のエッセイは『意味がなければスイングはない』というエッセイです。音楽の話なのですが、文章がとても素晴らしいのです。あれを読んで、やっぱ書き手のプロだな、と感じたのを覚えています。各章で曲を取り上げるのですが、その曲について一度も聴いたことがなくても、文章が素晴らしいのでなぜか楽しめます。
同じく文章に感心したのが、大学時代に読んだ『ノルウェイの森』です。感心というよりは驚愕しました。ストーリーとかその本のメッセージ性とかは正直ピンと来ないのですが、ただただ情景描写(アミ寮や直子の部屋、病院、大学)が素晴らしく且つ文章が音楽的な響きがします(だから本を読むと言うより音楽を聴くという感覚に近いです)。彼自身音楽愛好家(特にジャズ)で、一時期ジャズ喫茶を経営してたほどなのでそういう身体が身についていたんでしょうね。私は結構単純なので、すぐに影響を受けて一時期ジャズのレコードを集めてたほどです。

『ノルウェイの森』はたしか1969年とかそこら辺りが時代背景で、当時の学園紛争やレコード文化、ジャズ喫茶といったような我々からすればレトロな世界がそこにあって、映画版『ノルウェイの森』はその空気を上手く表現していました。
その『ノルウェイの森』に永沢さんという主人公の先輩がいて、彼は大変な読書家なのですが、彼曰く作家が死後20年経ってない小説は受け付けないそうなんです。時代の洗礼を受けてない小説を読んで、貴重な人生の時間を無駄にしてはダメだとのことです。
以降私はそれで海外の古典と呼ばれる小説を読むようになるんですが(単純ですね)、そこで上述した意味での”面白い”小説が『ライ麦畑でつかまえて』です。

さっき”いいユーモアのセンスをもっている”と書きましたが、それでピンと来た方もいるかもしれません。その表現は『ライ麦』の主人公の男の子(ホールデン・コールフィールド)が使った表現で、結構気に入ってるので使わせてもらいました。
他にも「危うく首をおっぺしょるところだった」とか出てきます。1ページ目からヤンキー語満載で、はじめ読んだとき数行読んで本を閉じたのを覚えています。アメリカの一部の地域で一時期禁書扱いされてたぐらいですから(内容は全然過激ではないです)。
村上春樹さんも訳されていますが(キャッチャーインザライ)、そちらはもう少しマイルドな書き方になっています。おそらく村上訳の方が正確な訳なのでしょうが、私は野崎訳の方が好きです。
たしか最後妹が雨の中メリーゴーランドを回る描写があって、そこがいいんですね。ただ、『ライ麦』は4回目読んだときにはもう面白みが無くなっていました。おそらく私が大人になったからでしょう。
そのときには「おいおいホールデン、ちょっと落ち着けよ。世の中はクソだけど、そんなこと言ったってしょうがねえじゃん」と読みながらツッコミ入れる冷めた自分がいるんですね。あれは若者の小説です。

もう一回『ノルウェイの森』の話を戻しますが、やはり1960年代というのは特別なんですね。ロックとドラッグカルチャー、反戦運動、日本だと安保闘争の時代です。今ほんとに久しぶりにビートルズのアルバム『Abbey Road』を聴いています。なんとはなしにウォークマンで流しただけなのですが、「You Never Give Me Your Money」とかこんなに素晴らしいんですね。単体の曲だとそうでもないんですが、アルバムとして聴くと意味を持つ、そういう曲です。一番好きなのはホワイトアルバムの「Blackbird」。
ただ1960年代といった、そんな熱い時代はもうやってこない。総じて過剰であることが避けられる世の中で、コミュニケーションも、関係性が流動的である故に深くコミットするのが無意識的に忌避され、相手と一枚薄い膜が入ってる感じです(僕自身そうです)。仕方の無いことです。『ノルウェイの森』は大学入って初めの方に読んだのですが、何となくその失われたモノを意識していたのですが、それを言語化したのが宮台真司先生なんですね。
『14歳からの社会学』という彼の有名な本があるのですが、その本の冒頭に二枚の写真が並べられています。同じ時刻、同じ場所で撮った写真なのですが、時代が違う。その写真を見て私は胸が締め付けられました。やはり失われた何かが確固としてあるんだと。
理系の学部を専攻していたからかもしれませんが、人々が社会的文脈の中で生きているということに意識があまりないんですね。だって直接的且つ数的なデータで主張が基礎づけられないじゃないですか。もちろんアンケート調査などの社会指標をとったり、経済指標を得て分析したりはできますが、データが主張を直示はしていないはずです。日本人が社会科学的な態度が欠如していると『危機の構造』の7章でも述べられているので、日本人一般の感覚もそうかもしれません。
とにかく、なんとか失われた何かが何なのか知りたくて、宮台先生の本を読むようになりました。彼はビデオニュースというネットのニュース番組の司会もやってますが、つい先週、公開収録(現在youtubeで無料公開されています)があったので見に行きました。ジャーナリストであり代表の神保さんとの対談という形ですが、1990年代には”仲間以外は皆風景”状態で、現代は“自分以外は皆風景”状態であると仰ってました。それが昨今世間を賑わした広域犯罪が成り立つ前提にもなっている。

社会はクソ(法の奴隷、損得マシーン、コミュニケーションの戯れ、言葉の自動機械・・)だと言いました。これは何となく言っているのではなく、我々はゲノム的に狩猟採集民族であり、その社会から見た定住社会である現代が矛盾に満ちているという人類学的視点があります。また、人々の集団が組織化されていった時代の、古代ギリシャにまで遡るソクラテスの哲学があります。そして、社会がそのようになっていく流れが加速していく近代化(ウェーバー)の学問的知見があります。
ギリシャ哲学ではそこから主意主義、主知主義に連なる思考の系譜があり、ニーチェ以降の現代哲学は主意主義に軍配を上げます。それは、”社会はクソだが、でもそれがどうした。そもそも社会はデタラメである(根源的未規定性)。デタラメを引き受けて内発的な力(坂口恭平)によってそれでも前に進むんだ”ということを賞揚します。

次回は千葉雅也先生の『現代思想入門』を取り上げたいと思います。

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