終わりなき日常を生きろ (宮台真司著) を読んで(2/2)

話を続けます。核戦争後の共同性というイメージが共有されただけではあのようなテロ行為にはつながりません。サリンは良心故にばら撒かれました。サリンをばらまくことに正当性を与えるポアの論理と言う考えがあります。曰く現代社会に生きる人間は誰でもそうとは知れず罪を負っている。これ以上罪を犯さないようにするには殺さなければいけない。それも罪を軽くするために苦しんで死んでいくことがその人のためだ。つまりサリンのばら撒く人は良心故に行動したのです。
なぜこのような考えが是正されずに行為に至ったのか。それは我々の生きる社会は高度化すればするほど何が良いことなのかが不透明になるという問題があります。
一神教的な神がいる社会では何が良いことかは神が決めます。神が見ているからと言う理由で内的確かさが得られ、それが正しさを担保します(=倫理)。一神教的神のいない我々はそれを共同体が担います。共同体の視座による外的確かさによって自己の行動を規定します(=道徳)。

ただし何が良いことかを規定する我々の共同体は既に空洞化しています。
共同体(コミュニティ)とは一緒に長く時空を共有するという事実をベースにする人の集まりと言えます。その対概念として目的を持って自発的に集まる機能集団(アソシエーション)があります。アメリカなんかそうですよね。イギリス国教会から逃れメイフラワー号に乗ってやってきたピューリタンが互いに生きて行くという目的意識を持って建国した国です。それに反し欧州や日本は共同体社会です。そこでは関係の履歴による入れ替え不能な存在として互いを扱います。
しかし近代化とともに共同体が空洞化します。戦後自民党の五十五年体制以降、農村の人口を都市部に移転することで近代化を図ります。都心部への人口流出により農村共同体が空洞化します。都心部は都心部で、郊外化により団地ができ旧住民のコミュニティに新住民が入ることで地域共同体が空洞化し、核家族となった一つの家族で生活が営まれます(家族内閉化)。それとともに井戸端会議もなくなり、ジャスコのように大型ショッピングセンター
やコンビニの台頭によりシャッター商店街になるなんてこともありました。8 時だよ全員集合といったお茶の間テレビもなくなり、携帯が普及することによって子供が部屋にいることが多くなり一つ屋根の下の赤の他人状態になり家族共同体も空洞化します。
高度経済成長期には我々は貧乏だけどみんなで豊かになっていくんだという国民的目標が共有され、事実豊かになっていました。それは洗濯機が買うことができて、テレビが買うことができてというように家電が増えて行くことで目に見えて分かりますし、他の家庭も同じような境遇でした。その家電にしてもフォード主義の下、同じような大きさや柄や機能でした。会社も終身雇用、年功序列の下、“会社は家族”“24 時間働けますか”などのスローガンが象徴するように帰属意識があり、共同体として機能していたのですが(社員の葬式に社員一同が手伝いに来たりもしてました)雇用の流動化や不景気によって共同体が空洞化します。

そして共同体の空洞化は近代化と結びついているため、不可逆の流れです。ウェーバー曰く、近代化とは合理化です。合理化は手続きを重視するので、マニュアルが導入されます。マニュアル化されると誰が行っても同じ出力がされるので属人化します。システムを利用とする人間が、いつの間にかシステムに利用されることになります。
それと反対に共同体は入れ替え不能な人間として扱われるため、人々の尊厳のリソースになりえます。共同体に埋め込まれるからこそ自由に試行錯誤できます。共同体が空洞化することによって我々は確かに以前より自由になりました。古い因習やしきたり、伝統から逃れられるようになりました。ただしそれは選択や価値観から自由になるほど、何が正しいのか何が良いのかが不透明化し、尚且つそこから帰結する結果や責任を個人が引き受けることになります(以前は因習やしきたりのフレームワークを参照できたの
で、失敗しても外部帰属化できた)。人間は弱い存在なのでそのような孤立化した状況に耐えられません。

神なき社会において共同体の空洞化により、何が良いのかが不透明化する中で、上述の全体性に惹かれる社会状況があり、そこに神秘体験をきっかけとしてあたかも「これが善行、これが悪行」と断言する教祖に引き寄せられます。


私は今自分が生きている社会状況がどういう前提で成り立っているのかに興味があります。
去年(2022 年)の暮れからその思いは強くなり今に至っています。
理由は分かりません。社会指標、経済指標ともにグダグダになっている日本の社会状況に対する危機感なのか、今自分がいる状況に対する不安かもしれません。
ただエポックメイキングな出来事として、明治維新、第二次世界大戦、高度経済成長とバブル崩壊、オウム真理教と地下鉄サリン事件、東日本大震災と原発、アベノミクス、新型コロナについて調べ、自分なりに納得できたらと思っています。

その中でオウム真理教による地下鉄サリン事件とは、共同体が空洞化した社会において分断し孤立化した個人が、不安を埋め合わせるべく全体性に希求するという普遍的な現象です。
尊厳のリソースとなる共同体が空洞化しているため、不安を埋め合わせるべく我々は自己啓発に取り組んだりします。内発的な動機や力を忘れ、不安故の損得勘定で動きます。マニュアル化の帰結として、文脈自由である言語に束縛されます。流動社会であるため、組織や人間関係に過剰なコミットを忌避します。
そのような前提を思い出させる契機として地下鉄サリン事件を扱いました。

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