継続するコツ (坂口恭平著)を読んで

「継続するコツ」を読んで、と題されていますが、まだ読み終わっていません(すいません・・)。最近出版されたのですが、実はここの note でも無料で読むことができます。私はnote の第5回まで読んで、今書いています。note では全部で6回あるので、最後まで読んでからでもいいのですが、書きたくなったので今書いています。

坂口恭平さんは一昔前に流行った「独立国家の作り方」という本を書いたことで有名です。結構売れた本なので、本のタイトルをご存知の方もいるかもしれません。
さて、ここで坂口さんとはどういう方か提示したいと思っているのですが、それがやっぱり書けないんですね(というか何となく嫌です)。坂口さんという規定不能な存在を、言語を用いて規定することに対して私は抵抗があります。それが寧ろ坂口さんと言う存在を図らずとも雄弁に語っているのかもしれません。もちろん存在は全て規定不能ですが、坂口さんはそれを強く意識させます。

継続するコツでは、自分の好きなことを継続できている状態こそが幸福であると言います。
ここで重要なのは好きなことをしている“こと”ではなく、好きなことをしている状態即ち幸福である、ということです。私はすごく共感しますし、(恐縮ですが)自分の元々持っていた考えと似ているなあと思います。

例えば物語を作るという行為を考えます。ある人が物語を作ることが好きで、物語を作っていても、どうしても上手く書こうとか、自分は変なことを書いているのではないかとか、書店に並ぶ小説と比べたら私のなんて・・・といったように広い意味で他者が介在します。そうして面白くなくなって継続できなくなるというパターンが多いそうです。
そうではなく、書くために書く。実は好きだから書く、という事ですらないのです(おそらく)。好きというのはきっかけであって、端的に書く。目的が手段に内包されているんです。そして書くために書いている私は“結果的に”自由である(幸福である)。そういうことなのだと思います。

書くために書く、ということをもう少し考察します。例えば“○○のために書く”や“△△だから書く”と言う方がいるとして、では○○や△△がなかったらあなたは書かないんですかとツッコミが入る余地があります。いや他にも□□と言う理由があって・・とどれだけ理由を積み重ねようとも同様です。そのような条件プログラムは弱い動機と言えるでしょう。書くために書くというのは端的な意思がそこにあります。初期ギリシャ哲学やニーチェから連なる現代思想は端的な意思にこそ力が宿ると考えるそうです。

書くために書くというのは独りよがりではないか、と考える方もいるかと思います。でも独りよがりでもいいんです。その人が書いた文章はちゃんとその人の価値になっています。そもそも一人につき一つの宇宙があって、互いの宇宙は物理空間という共有スペースがあるので一人一人同じ宇宙にいるように錯覚しますが、本質的には他者とは分かりえないのです。
補足します。一人につき一つの宇宙とはこういうことです。
例えばカップルが通りを歩いていたとします。横をスポーツカーが通り過ぎたとします。車好きの彼は認識するがそうでもない彼女は認識すら上がらない、よくある状況ですね。同じ物理空間を共有していたにもかかわらず世界は違って見えるのです。五感プラス言語のチャンネルから脳に情報を入力さ
れ、それを加工して世界を認識します。その加工には多分に自我(車好きとか)や主義信条、記憶が関わっています。より具体的には自分にとって重要なものほど認識に上がります(すべてを情報処理すると脳はパンクするので)。
またコミュニケーションを考えてみてもいいでしょう。例えば私が「犬ってワンと鳴くよね」と言ったとしても、私と皆さんとでは犬の定義
が違いますし、鳴くとは何なのかも合意を得ていません(世界認識が違うからです)。それにもかかわらず信頼してコミュニケーションをとることができます。

語ると長くなるのでここで話を戻します。独りよがりでいい、自己満足でいいって話をしていました。かく言う私は坂口さんほど吹っ切れてはいません。note で書いているとき、伝わっているかなあと少しは気にします。でも端的な意思というのを大切に考えるようになりました。そして書こうとする前や書いている最中に、怠くなったり、嫌になったらそこで止める。そして書いている“今ココ”はすごく充実しています。今まさに充実しています。
その充実する感覚が実感として分かるので、坂口さんにとても共感します。

実は今日元々は別の本について書こうと思っていました。前回オウム真理教の地下鉄サリン事件が起きた社会状況を記したのですが、そこに関連して当時行われた洗脳のメカニズムについて書かれた本、洗脳原論(苫米地英人著)について書こうとしていました。この本は思い入れが強い分、書くために軽くもう一度読み返そうとしていたところ、変な緊張を感じたので諦めました。
以前の僕では考えられません。完璧主義だったので、例えば学生時代は、これから大人になるんだから基礎教養つけなければと思って教科書から紐解くようなことをしていたのですが、やっぱり怠くなってしまうんですね。“基礎教養をつけなければ”という言葉やカテゴリーに閉ざされて、自身を内省的に見ることができませんでした。怠くなったらやめる、不完全でも構わない、そして好きであること。
このような note を始めたのも心境の変化がありました。それまではどのような場であれ公的に情報を出す場合は、その情報についての博士課程レベルの知識がないと社会的に無責任だと考えていたので、ツイッターにしても見る専用に留めていましたし、社会に対して何か発言することもありませんでした。今はそもそも部分情報で生きている人は間違うものだし、人のためと言うより自分が端的な意思を持って行為することが自由で、それを尊重しようと、ポジディブにある種開き直っています。

思えば坂口さんは自分が善く生きるとは何かを素直に考えられる方です。躁鬱病を持っているゆえの処世術かもしれませんが、私たちは彼の発する言葉と言葉を超えた佇まいや振る舞いにミメーシスを感じ、そこに連なることで自由の感覚を得ます。

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