Ein dunkler markgraf~悲喜劇(TRAGICOMEDY)

 月影が細くなり、無数の星が氷のように蒼く秘めやかに瞬く。こんな夜は、地に降りて市井と触れ合うことにしている。住処で共に暮らす闇の生き物を従え、旧市街の、更に町外れにあるギリシア風の円形劇場を足懸りとして、フリークス等の蠢く様を見世物にしている。
 彼らが呼吸をする様、唸り声にしか聞こえない歌、躰中でもがくように踊る様。彼らの喜びの姿に只人が嫌悪の表情を浮かべる。フリークス等の動きに呼応するかの如く蠢き呻き声を発てる、その様に舞台の袖でほくそ笑む。その活き活きとした感情が私の糧となる。
 只人は眼前のものしかその目に映さない。フリークス等の歌声が小さくなり、「如何にも」な風采で私が舞台に姿を現わすと、客席からはまるで彼らなど端から存在しなかったかのように感嘆の溜息が溢れだす(この時ばかりは自分の容貌に感謝する)。私の動き一つ一つに視線が注がれる。その視線には、私を魔性として恐れている意思は見つけられない。純粋な好奇の目だ。
 私は出鱈目に舞台を歩き回り観客を煙に巻く。幻術にかかったかのように客席全体が揺らめき始め丸ごとこちらの世界に移ってくる。こちらの世界(仮に彼岸としよう)では、只人それぞれがいちばん幸せだった頃に戻り、至福の笑みを浮かべている。
ーだが、そのような中でも「幸せだった頃」がない者もいる。それを目敏く見つけ、その者をワインのグラス越しに見定める。やがて相手はこちらの視線に気づき、私から目を離せられなくなる。一歩一歩にじり寄る私に狼狽しながらも、恋の悦びの予感に身体を動かせられない。深紅の酒を相手にも勧め、一夜の思い出を提案する。断る相手なぞいない。酒の力も相まって陶酔したまま私の腕の中へ落ちる。
ーそれは幾度となく繰り返されたソープオペラではあるが、私が魔性であることを隠すための一連の儀式だと思うようにしている。相手に享楽を与え、自分は精を得るその為の。

 現では夜が必ず明けるように、夢にも覚める時が来る。だがそれを決めるのは私ではない。夜通しの乱痴気騒ぎは薄明と明告鳥の声で終わりを迎える。
 只人が夢から覚め此岸へ還るためには、我ら夜の生き物は姿を隠さなければならない。
「さあ皆様お立合い!今宵の見世物はここまでとさせていただきます。最後に、この舞台から劇場の際まで綱渡りにて登って見せましょう!巧く渡り切れたら、拍手御喝采!」
いつの間にやら舞台から遥かに張り渡された、この美しく繊細な蜘蛛の糸のロープで我らは住処の古城まで帰るのだ。蜘蛛の糸のロープは、彼岸と此岸を渡すものだ。彼岸と此岸の間には、ロープを境に希望と絶望が横たわっている。ロープの根元に足が触れると、左右の景色が一変する。片やどこまでも拡がる雲海、片や底の知れない深い崖。そして前方は果てしなく伸びる細綱。左右のどちらが希望か絶望か、見た目で安易に判断してはならない。私が思うに、世間の認識と真実は異なっている。絶望は身近にあり、希望はパンドラの筺の逸話のように見出そうとしなければ見つけられないものだ。綱渡りの最初の一歩はいつでも緊張する。その緊張が観客を煽り立てる。観客の残酷な期待を一身に受け止めて歩を進める。果てしなく続くように感じられるロープの上、揺れる範囲のわずかな隙間から見える只人達を見下ろす。視えてくるのは、日々の営みの憂さからほんの一瞬だけ解放された明け透けの表情。そしてまた明日からの倦んだ日々への絶望。私は只人達今宵希望という慰みを提供したということだろうか。
 只人はその悲喜交々の営みの果て、死という形で幕が降りる。その一刹那、彼らはこのワルプルギスの夜を思い出してくれるだろうか。

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