Ein dunkler markgraf~La Dance Macabre(fert.泡沫の舞踏会)~

 馳走と白粉と香水の混ざった馥郁たる香りと、穏やかなざわめきで男は重い瞼を上げた。そこには、御伽噺の中でしか知らない煌びやかな光景があった。
目覚めた場所はいつもの薄暗い屋根裏部屋の垢じみたシーツの中ではなく、柔らかくフカフカな別珍と思しいソファの上で、抱えていたはずの酒瓶も可愛らしい色合いのクッションに変わっていた。そしてそのクッションを抱えた袖は、動かすたびに模様が変化する毛織物で、手首からは爪のささくれで破れてしまいそうな薄いレースのカフスが覗いていた。
 はて、俺はとうとうあの世とやらに行ってしまったのかと痛みの残る頭を小さく振る。こんな酔っぱらいの身でも極楽に行けるなんざあ近頃の神様は気前が良いもんだな、と独り言ちていると、給仕が背の高い、脚の細いグラスを男に勧めてきた。くれるものは有難くいただこうとグラスを鷲掴み一気に呷ろうと口元へ持ってくると、泡のはじける微かな音と、それと共に口周りに伝わる感触と、何より芳香に気恥ずかしくなり、一口だけ含んで鼻から抜ける芳香と味わいを愉しんだ。そしてはるか昔、このような光景を確かに体験していたことを思い出した。
「夢のように素晴らしいパーティーでしょう?」
ソファの背越しに、落ち着きのある男の声がした。いきなり声をかけられて驚いた彼は反射的に振り向こうとしたが「そのまま」と相手に制された。
「いや失礼。私はこの屋敷の主ですが、貴方に来ていただけて大変光栄に思っております」
耳の後ろから聴こえてくる主人の声は妙に官能的で、ソドミィの覚えがない男でさえも思わず身震いをする程であった。
俺みたいな奴がこんな場違いな処に居て大丈夫なものかと主人に問う。
「何を仰います。貴方のような方こそこの場に相応しい」主人の言葉が文字通り男の耳を擽る。堪らなくなり、酔い覚ましをしたいから暫く一人にしてくれないかと主人に告げると「ようございます。それでは後ほど」と一瞬男の前に廻ってパーティーの雑踏へと紛れていった。その一瞬垣間見た主人の容貌はその声に相応しい艶雅なものだった。
 そうしてようやっと一人に戻って、ホール全体を、パーティーの喧騒を眺める。無数の蝋燭の灯りがモザイク様の鏡面に反射して周りを眩しく照らしている。屋敷お抱えであろう楽士達が、知らずステップを踏み出す軽快な音楽を奏でている。紛うことない上流階級の者が、数人集まっては他愛もない談笑に興じている。そちこちで男女が音楽に乗ってダンスを繰り広げている。男達の集いが近くの女達の集いをからかいながら値踏みし、されている女達は古い扇子言葉で男達を躱している。そうこうしているうちに踊りの輪が広がっていった。
 つと、黒衣の女が男の前に立ち、躊躇いもなく手を差し伸べた。ダンスは不得手だと断ろうとしたが、女はお構いもなく掌を振る男の指先に冷たい指先を触れる。その冷たさに反射的に手を握り込んだ。
「踊ってくださいますよね?」我が意を得た、とばかりに女は男を見上げたが、その瞳が一瞬血の色に染まったことに男は気付かなかった。
良人が貴方を殊に気に入りまして、と女が話す。自分は何もない人間だと有りのままを言うが、その貴方をです、と取り付く島もない。
男は踊りながら、はるか昔の光景を再び思い出した。ーそれは自分がまだ幼い時分のこと。このようなパーティーが自分の家で開かれていた。恰幅のいい鷹揚な父と、微笑んでいる美しい母、そして大勢の招待客。沢山の御馳走とにこやかな大人達。あの時の自分は確かに幸福だった。
 そして現は。僅かばかりの年給も安酒に費やし、あの頃の面影は微塵もない。今この舞踏会に自分が身を置いていること自体、幻に違いないと何度も首を振る。ところが何度首を振っても目を瞬いてもこの光景は消え去ることはない。
 例えこれが幻であっても、構わない。幻であれば燐寸の火が消えないうちに次の燐寸に火を着ける。そうすれば幻は尽きないだろう。幻が尽きなければ、真実になるのではないだろうか。
「これが本当だったら!」祈るように男が叫ぶ。叫びは時を止め、本来の現世に戻す手段だ。だがそうはならなかった。
「貴方の望みですもの」背後から主人が男の手を取る。「ー結局はあなたが持っていくのね」拗ねる女に、私の客人だからね、と男の後ろから主人が返す。「全く、貴方が一人にして欲しいと言ってたのにあれは」と主人は男が元居たソファに誘い、繊細に泡立つ酒を取り寄せ勧める。
「どうせ生きるなら愉快に過ごすべきでしょう」刹那主義な上流階級らしい主人の言葉。
「飲めや歌えや、そして踊れや。それで良いじゃないですか」私と一緒に、と主人が眼を合わせる。男はもうすっかり彼に参っていて、主人の勧めるまま浴びるように呑み、笑い、今までになく愉快な気分で酔いつぶれていった。

 明くる朝、すっかりと冷たくなった男が路地裏に転がっていた。男はこの上もなく幸せそうに笑み、その腕には骸骨で組まれた酒杯が、抱えられていた。
「…ね?貴方の望み、真実(ほんとう)になったでしょう?」鉄塔の上に立った例の主人が男の死骸に語りかけた。

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