村上春樹『沈黙』の感想、本当にそれでいいの?
村上春樹の短編集『レキシントンの幽霊』に収録されている『沈黙』を読んだ。
読んだ後の、とりあえずとしての感想は「ずいぶんと説教臭いな〜」というものだ。
というのも、それまでの『レキシントンの幽霊』に収録されている短編(や、他の村上春樹作品)はどちらかといえば難解な部類で、一度読んだだけで作品のテーマが掴めるといったことは多くないからだ。
(それでもスラスラと読めるのが村上春樹のすごいところだなと思うが、それは今更言うまでもない。)
実際にネットで感想を見ても「青木のような人間はたくさんいるし、我々は青木に負けてはならない」「インフルエンサーや周囲の意見に流されてはいけない」のような感想が大半を占めているように思う。
本作は国語の教科書にも収録されているし、一旦の感想としては、それで十分なのかもしれない。
しかし、僕はそれらの感想に、一種の違和感のような胸の引っ掛かりを感じた。ので、感想がてら書いてみようと思う。
まず、この胸の引っ掛かりだが、それは冒頭でも述べた「村上春樹がこのような百人読めば百人が同じ感想となる物語を書くだろうか」という思いが強いだろう。
村上春樹の作品は好きで何冊か読んだが、僕は彼の性格を悪くはないにしても良くはない、と思っている。そんな彼が、説教くさい安直に共感できる話を書くだろうか?(しかも、そこそこ難解な短編集の中に)
もう少し掘り下げると、何か別のことが見えてくるのではないだろうか。
この『沈黙』の構成は、空港のカフェで主人公が大沢さんの話を聞いている、というもので物語の大半は大沢さんの過去の回想になっている。
主人公視点での文は、前半の大沢さんの人となりの説明(主人公は大沢さんに好意的)、回想中の何度かの情景描写くらいである。
小説にもかかわらず、主人公は話を聞いてるだけで、最後まで、特に行動もしなければ、相槌を打つでもない。これは主人公(聞き手)=読者という構図を暗に示しているのではないだろうか?(その証拠に回想中に、読者の感想を誘導するような主人公の心情描写がない)
とすると、我々読者は、大沢さんの話の聞き手であり、青木に扇動された、かつての高校時代のクラスメイトと本質的に同じ立ち位置になるわけである。
既に言いたいことが分かった方もいるかもしれないが、僕の言いたいことは「クラスメイトを傍観者だと非難していた読者の皆さん、それと同じことしてませんか?」
ということだ。
この物語、前半の主人公視点での大沢さんの印象が好意的なせいで、何の捻りもなく読めば、青木や、傍観者であるクラスメイト、教師が悪というイメージがついてしまう。物語という客観の世界を覗くだけの、言わば神の視点である僕たち読者は、つい「こういう自分の意見を持たない、無意識に人を傷つけていても、責任を感じない人間っているよね〜」という感想を抱きがちな構図なのだ。
もし、その通りの感想を読者に抱かせたいのであれば、過去の回想などせずに、大沢さんを主人公として、当時のことをそのまま物語にすればいいはずである。
なのに、そうしなかったのはそこに作者の意図があり、その意図とは上で述べたようなものではないかと、僕は考察する。
もちろん、大沢さんの話は嘘っぱちで、裏では松本君を殴っていただとか、青木が大沢さんに関するデマを広めたのは事実に反する、など言うつもりはない。
だが、例えば、青木が教師に、かつて大沢さんに殴られたことを脚色を加えて伝えた。というのも、大沢さんの勝手な思い込みに過ぎない。それを間に受けて、「青木=悪者」の印象を持ってしまえば、それはかつてのクラスメイトが「大沢=悪者」と決めつけたのと何が違うだろうか?
最後に
現実で、もし自分が大沢さんの話を聞く主人公の立場だったら「まぁ、大沢さんいい人っぽいし、疑う理由もないし」といって、話を聞くだろう。
しかし、これはフィクションであり、別に存在しない大沢さんに気を遣って、無理に話を信じてあげる必要はないのだ。とはいえ、大沢さんの話は、作者の主張であるというのも事実であると思う。ただ、その受け取り方を間違えると、自分自身も他人に無責任な傍観者に陥ってしまう。そういう怖さも含めて、村上春樹はこの物語を書いたのだと、僕は思う。
※既にこの解釈は出回っており(というか僕なんかが思いつくことは当然みなさんも思いつくだろうが)、ハルキストの中では「何を当たり前のこと言ってるんだ」となるかもしれませんが、何かをパクって書いたわけではなく、ただ感想を書いただけと注釈させてください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?