カワイイがいっぱい!今城塚古墳
今回は大阪府高槻市の今城塚古墳を紹介します。
今城塚古墳はJR摂津富田駅からバスで10分ほどの場所にあります。
バスを降りて公園内に入ると、たくさんの埴輪が並んでいました。
古墳の手前には、家、動物、人物など190点の埴輪がずらりと並び、壮観です。
発掘された位置に復元、配置され、埴輪のお祭りが再現されています。
ここ今城塚古墳の埴輪は、とてもかわいいんですよ。
みんないい表情。
お墓につきものの、しめっぽい雰囲気は感じられません。
見ているこちらも自然に笑顔になりました。
復元されたこれらの埴輪は直接触れることもできますよ。
この立派な古墳は6世紀前半に築かれました。
学術的には第26代継体天皇の真の陵墓といわれています。
通常、天皇陵は発掘調査ができません。
しかし宮内庁は、近くにある別の陵墓を継体天皇陵として指定していました。
そのため1997年から発掘調査が行われ、今城塚古墳が真の天皇陵だとわかったのです。
隣接している博物館にも行ってみました。
展示室では、さらに間近で埴輪を見ることができます。
2本マストの船が描かれた円筒埴輪はこの博物館のシンボルです。
当時の船がマストを2本持つ大型帆船だったことがわかる貴重な資料です
さらに、こちらの博物館には近隣の古墳の出土品も展示されています。展示物が豊富で見応えがあります。
私の好きな犬、猪、犬の埴輪もありました。
近隣の昼神車塚古墳で発掘されたこの動物の埴輪は狩猟の様子を再現しています。発掘時は縦一列に並んで配置されていました。
犬は首輪をした猟犬です。猪は犬に追い立てられ興奮し、たてがみを逆立てているのだそう。
さて、日本書紀によれば最初に埴輪を採用したのは第11代 垂仁天皇(4世紀前半頃か)です。
今城塚古墳の時代から約200年をさかのぼります。垂仁天皇は政治的な業績がほとんどなく、書紀の中ではあまり注目されない人物です。
埴輪の起源について、書記には次のように書かれています。
かつて殉死の風習があり、陵墓の周囲には近習者が生きたまま埋められました。
彼らは日がたっても昼夜泣き、死んだあとは犬や鳥が集まってきて食べました。
垂仁天皇は鳴き声に心を痛め「これからは殉死をやめるように」と家臣に命じました。
家臣の野見宿禰󠄀は人や馬をかたどった土人形を垂仁天皇に献上し、人の代わりに陵墓に立てるよう勧めました。
天皇は大いに喜び、これを採用しました。
生き埋めの描写がリアルで背筋がゾッとします。
しかし現在ではこの話は後世のフィクションだとされています。
書記の記述内容に矛盾があるためです。
最初に作られた埴輪は円筒形埴輪です。人型や馬型の埴輪が現れるのはその150年後の5~6世紀。垂仁天皇の時代には、まだ人や馬をかたどった埴輪は作られていなかったのです。
それにしても、これほど大量の埴輪を作成するのは多くの労力が必要だったはず。一体どのように作られたのでしょう。
その製造現場が近くにあるので行ってみることにしました。
次回は「古代の工場を見学 新池ハニワ工場公園」です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?