寺山修司とミスターシービー~『日曜の朝の酒場で』に見る寺山のシービー評~

 ハイセイコーやテンポイントの様な競馬史に名を残す名馬から、今ではほとんど忘れられた競走馬までを数多く愛し、その物語を紡いできた寺山修司だが、ミスターシービーとの繋がりには、どこか特異なものを感じさせる。

 それはやはり、最も応援していた吉本正人騎手のダービー制覇を夢見、ミスターシービーの三冠達成を予言しながら、その二つを見ることなく寺山がこの世を去った事、そしてその後、吉永騎手はダービーを制し、シービーは菊花賞を制すことで三冠馬となりその予言を的中させた事が、そんな感慨を抱かせるのだろう。ここには、ただ書くものと書かれるものとの関係以上のものが存在するように思えてならない。

 ミスターシービーや吉永騎手に関連した書物やサイトを見れば、少なくない確率で寺山の名前が出てくる。競馬評論家としての寺山が取り上げられれば、どこかでシービーとぶつかる。

ミスターシービーの日本ダービー制覇後、競馬雑誌『優駿』にて吉永騎手の特集が組まれた際、真っ先に登場したのが寺山だった。寺山修司記念館の寺山修司の年表が、ミスターシービーの三冠達成で締められている。

 『ターフの偉大なる演出家よ』なる名フレーズで有名なミスターシービーの『ヒーロー列伝』に連なる、「その偉大なる競馬叙事詩は、春の中山で始まった」で始まる、正に徐々ジを思わせる文章、その構成、文中に出てくる「競馬叙情詩」「英雄叙情詩」なる言葉を読むと、寺山が常々競馬を指して、「文学で言えば叙情詩」と評したことを思い出す。

 今年初め、アプリゲーム『ウマ娘』にて、ミスターシービーが育成キャラとして、ツインターボと共に実装された。それ以前からゲームに出る度、飄々としながらどこか詩人然としたキャラクターに、どこか寺山を思わせるものがあるといわれたウマ娘のシービーには、実際実装後、あらゆる方面で寺山のネタが使われた。

 ストーリーの名称「お前は一体何者なのか」「うしろには夢がない」「目をつぶると何もかもが見える」は、全て寺山の文章の引用であるし、固有スキル(いわゆる必殺技みたいなもの)の名前『叙情、旅路の果てに』は、寺山の『旅路の果て』が元ネタと言われている。実際、この『旅路の果て』が初めて単行本として刊行される際、帯にウマ娘のシービーが採用されている。

 寺山修司没後四十年であると共に、ミスターシービー三冠達成から四十年、実に様々な形で、寺山とシービーと吉永騎手は語り継がれていく。
 しかし恐らく、彼らは今後とも、その時代に見合った形でその関係を発見され、それぞれ語り継がれていくのではないかと思われる。それだけ、彼らの関係には胸を打つドラマがあるのだ。
 
 ところで、ここまで深い寺山とシービーの関係だが、実は寺山がシービーについて直接言及している場面はかなり少ない。

 シービーの活躍時期は寺山の生涯のほぼ晩期に当たる。病気がちで舞台演出を含め仕事をセーブし、皐月賞直後に亡くなったことを思えば、それは仕方がないことなのかもしれない。

 少なくとも、寺山の競馬エッセイには、シービーは出てきていないはずである。寺山の死後出版された『競馬ノンフィクションシリーズ』のラストを飾る『さらば、競馬よ』に、シービーについて触れた個所は無かった。

 シービーの皐月賞のレースに際しテレビ出演しているのだが、残念なことに私は観たことがない。私としては、やはり寺山がシービーをどう思い、そしてどう書いたか、寺山自身の言葉に触れて知りたい欲求が出てきた。

 シービーに触れた寺山の言葉はどこにあるか。前述のように数こそ少ないが、存在はする。それは報知新聞の競馬欄に掲載された寺山修司の『風の吹くまゝ』である。『風の吹くまゝ』は、昭和四十五年から寺山の亡くなる昭和五十八年まで連載され、のちに『競馬場で逢おう』シリーズとして、全六巻刊行された。

 シービーの登場するのはその最終巻『日曜の朝の酒場で』である。

 このコラムに初めてシービーが出てくるのは、『共同通信杯四歳ステークス』のコラムである。この時点で寺山はシービーを「実績のある」と書き、親がトウショウボーイとシービークインであることを紹介している。

一方、コラム終盤にて「今年もスター不在の四歳馬」と書いているあたり、この時点で決して、ミスターシービーという馬を、特別評価しているという感じではない。

 次に出てくるのが、『弥生賞』のコラム。ここでは、シービーを心配するような記述が出てくる。

「前回の共同通信の勝ちっぷりはいささか危なかった。上がりタイムの比較ではウメノシンオーの方に迫力があったのである」

 という指摘だ。

 ちなみにこのウメノシンオーは、『ひいらぎ賞』にて初めてシービーを破った競走馬である。

 一方、目を引くのがシービーの騎手吉永正人氏への言及である。

 『共同通信杯四歳ステークス』においても『弥生賞』においても、寺山は吉永騎手の連帯率を取り上げ、その安定感を評価している。『弥生賞』では、「今年の吉永は連帯率でずば抜けている」と評し、『弥生賞』でシービーを選ぶのを、「勝つのは吉永正人への信頼以外なにもない」と書いている。

 とはいえ、まるでシービーを評価していないというわけでは無い。

「今日の「弥生賞」、シービーファミリーのミスターシービーで楽勝といきたいが……(略)」

 と書いている様に、シービーの実力そのものはこの時点で評価し出しているのである。競馬評論家の寺山にとって、この時点でのシービーは、実力こそあるが、どこか危なげな所があるという感じだったのかもしれない。

 この後一気に飛んで……と書く前に、試合に絡む事こそないが、シービーの名が登場する箇所がある。

 『スプリングステークス』のコラムにて、コレジンスキーという競走馬を紹介する際、

「ミスターシービーとともに、松山厩舎のエースとして、今年のクラシック戦線をにぎわしてくれるコレジンスキ―だが……(略)」

 と書いている。シービーがどういう存在だったか、小さなものではあるものの、それが分かる記載である。

ちなみに、コレジンスキーの父親はマルゼンスキーである。

 そして、『皐月賞』である。副題には『シービー時代へ』。

 こうした副題にも拘らず、初めに出てくるのは、吉永騎手と同じく寺山が応援していた、寺山と同郷の柴田政人騎手の事である。アローエクスプレスの息子、ブルーダーバンに騎乗することになった事を書いている。

 少し脱線するが、柴田騎手はその新人時代、このアローエクスプレスに乗り勝利を重ねていた。にもかかわらず、まさに当時の皐月賞において、騎手を加賀武見氏に交代させられるという出来事があった。この件は柴田騎手にとってかなり悔しい思い出として残ることになる。

 寺山はこの柴田騎手の騎手交代の件に関するエッセイを記し、『競馬への望郷』に掲載した。

 このエッセイはのちに、寺山修司の競馬関連の詩を、競馬関連の有名人が朗読するCD『涙を馬のたてがみに~寺山修司・競走馬の詩』において、柴田政人騎手ご本人により朗読されている。丁度、ウイニングチケットでダービー制覇をした直後の事である。

 閑話休題。この『皐月賞』のコラムにおいて、ミスターシービーは丁度後半に当たる所で登場する。あるいは知っている人も多いかもしれない、「勝つのはミスターシービー」で始まる文章である。そして、「これといって強い馬がいないので、ここで勝つようだと、今年はミスターシービー時代ということになるかもしれない」とも書いている。

 『皐月賞』のコラムには、『弥生賞』のコラムにあったシービーへの心配も懸念も一切ない。迷うことなく、シービーの勝利を予想し、何なら今後のシービーの活躍さえ予見している。

 このコラムにおいてもう一つ注目してしまうところがある。柴田騎手の事を触れながら、シービーの騎手、吉永正人氏の名が出てこないのだ。これはかなり重大事ではないだろうか。

 寺山は言わずと知れた吉永正人騎手の大ファンである。『競馬への望郷』における『吉永正人』を初め、寺山の競馬関連の文章には、至る所で吉永騎手の名が現れ、その功績をたたえ、あるいは彼の栄光に浴すところを夢見ている。

 今年のジャパンカップの開催される時期に合わせて、寺山修司の『風の吹くまゝ』の昭和五十六年のジャパンカップのコラムが、復刻コラムとして掲載された。(ちなみに『日曜の朝の酒場で』にも掲載されている)そのコラムの中で寺山は、当時吉永騎手の騎乗していたモンテプリンスの勝利を願うと共に、

「吉永正人の手を振る晴れ姿を見たいのだ」

 と書いている。

 また、昭和五十七年の『東京新聞杯』でも、

「どれにしても今年あたりはモンテプリンスの鞍上でニッコリ手を振る吉永正人の写真で新聞を飾ってやりたいものだが、さて…」

 とも書いている。

 皐月賞でのミスターシービーの勝利は、三冠へ向けた偉大なる一歩に止まらない。それは同時に、吉永騎手の初のクラシック制覇の瞬間を意味している。寺山がそれを知らぬはずがない。そんな寺山が吉永騎手の名を一度も出さないのである。

 その具体的な理由は、最早確かめることは出来ない。寺山の競馬本をもっと読み解けば、あるいはもっと様々な見解を出すことが出来るかもしれない。

 しかし私はここで、吉永騎手の名をコラムの中に出てこなかったのは、寺山が皐月賞の時点で、ミスターシービーを完成された競走馬になった事を認めたからではないか、そして、シービーを語ることが、そのまま吉永騎手を語ることと同義になったからではないかと考えたい。

 即ち、「シービー時代へ」というのは「吉永時代へ」ということであり、「勝つのはミスターシービー」というのは、「勝つのは吉永正人」ということであり、「ミスターシービー時代」というのは、「吉永正人時代」という事である。

 シービーの勝利を確信している寺山にとって、わざわざ吉永騎手のクラシック制覇を書く必要は無いのである。

 寺山は中山競馬場にて、その病身を押して、ミスターシービーの皐月賞制覇を、即ち吉永騎手の初クラシック制覇の瞬間を目撃している。

「強いねぇ、いや、強いねぇ」

と評した寺山は同時に、

「ミスターシービーが三冠馬になるかもしれない」

 と予想している。それは丁度、『風の吹くまゝ』でのシービー評と呼応する。

 このコラムをもって、『風の吹くまゝ』の連載、及び、『日曜の朝の酒場で』は終わる。『皐月賞』のコラムが、競馬界における寺山修司の絶筆となる。

「私の墓は、私のことばであれば、充分」

 最後に刊行した『墓場まで何マイル?』というエッセイの中でそう記した寺山が競馬界に残した最後の『ことば』は、柴田騎手の事であり、ミスターシービーの事であった。

 数多くの名馬──寺山曰く、「過去の馬は全て名馬である」──を見、愛し、そこの多くの希望と絶望を見てきた寺山にとって、ミスターシービーは、生涯最後の、最も愛した「走る希望」だったといえるであろう。

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