書くことも描くことも無意識の方がいい。
最近挿絵は子どもたちの絵を使わせてもらっている(今回はべちくんです)
フォローさせてもらっているnoterさんの中には、挿絵も自分で描いている方が何人かいてすごいなあといつも思う。
絵も文も創作できるなんて両刀使いとはこのことだ。
ワタシは昔から模写は得意だったけれど、オリジナルを描けと言われるとどうにもダメな人だった。
なまじ技術があるせいで思ったものをそのまま描くことができない。
どういうことかと言うと
かわいい女の子の絵を描くとして
目と鼻と口の配置をこうしたら大体かわいくなるということを知ってしまっているため、そのことに注力した結果、オリジナリティというものが失くなってしまう。
そして心の中には
かわいい絵が描けるって思ってほしい
ほめられたい
という気持ちがあって
そのせいで作為が見える絵になってしまう。
このことをワタシは小学生の低学年のころに気がついたのだけれど
一年生の時になんの気負いもなく描いた学校の花壇の絵で金賞をもらった。
みんなの前で表彰されておうちでもほめられて。
ほめられるのに飢えていたワタシはその後、コンクールで入賞できるような絵を描こうと気負って挑んだ結果、何度も失敗した。
自然に対する感動とか一切なく、ただほめられたいという気持ちでうまく描こうとすると、技術以前に本当にびっくりするくらい絵がうすっぺらくなる。
悲しいかな、ほめられたい症候群だったワタシにとっては致命的だった。
これはワタシの文章にも同じことが言えて
伝えたいことを書いていたはずなのにその中の何パーセントかに
こんな風に思われたいとか
うけたいとか
こう思ってほしいとか
虚飾が入ってしまうことがある。
それで今回今まで描いた記事を20個ほど削除して
あとの50記事は全部手直しして公開しなおしました。
ちょっとは簡潔になったかも。
しかし絵の方は自作しようとするとどうにも昔のクセが抜けず、
子どもの絵のほうがずっと味わいがあるので、絵の方は子どもたちに頼むことにした。
頼むというか、彼らがお絵描きした紙を雑多につっこんでいる押し入れから
ワタシがこれだ思うものを選んで
これママの記事の挿絵にしていい?と聞いているだけなのだけど。
別にいいよ
と気前のいいににくんとべちくんは、まだうまく描いてやろうとか、こんな風に思われたいとかそんな気持ちがなく
ただ好きなものを描いているのだろう。
そんな彼らなのにワタシがつい
なんかかわいい絵描いて、と注文をつけたら
とたんに描けなくなってしまったことがあって
ごめんなさい。
いいよ好きに描いてと弁解し
ワタシは今日もまた押し入れにしまわれている膨大な量のウラガミから
挿絵に使えそうな絵を探している。
無意識と技術と自分の思いに
みなさんはどう向き合って創作しているのだろう?
よかったらコメント欄で教えてください。
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