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りょうよう生活の一日

中学1 年生のときにぜんそくが悪化し、にゅういんをすすめられました。


 朝は看護婦(現在の看護師)さんの「起床!検温!」という一斉放送で起こされ、病室の机椅子(学校で使われる物と同じ)で待機でした。6時30分頃だったでしょうか? 体温計は水銀を使ったもの。脈拍数は看護婦さんの腕時計で5秒間か10秒間測った脈拍数を12倍か6倍させて1分あたりの脈拍数を求めたものでした。

 水銀式体温計には裏ワザがありました。検温部分を上に向けて反対側を指で弾くと温度が上がり、振れば温度が下がります。これを使いサボる子がいたので知った無駄知識です。看護婦詰所には複数の体温計を回転させて遠心力で温度を下げる機械がありました。トイレでは3学年下の子とよく鉢合わせしました。


 「乾布!乾布!」の一斉放送で上半身裸でたわしを持って集合しておりました。

 そして朝食。食堂には白か黄のテープに名前を書かれた席に座ります。白は通常食、黄は禁止食または、アレルギー食。黄テープには名前の他に禁止食材が書いてありました。白黄共通でご飯の大または小の記載が付く子もいました。

 たくさん食べるのを認められた子が大、食が細い或いは肥満傾向で小です。

 当時のアレルゲンテストは「皮膚テスト」という、ツベルクリン検査みたいなお注射を下腕内側に2列で10か所、左右で計20か所で20種類の検査をすることが出来ました。2列に並んだそれは仔犬のおっぱいみたいでしたよ。膨らみと赤くなった部分をそれぞれ長辺、短辺を測定でした。入院中に60数種類したでしょうか。

 注射が怖い子は大変です。医師は、暴れないように腕を固定して検査をやり遂げました。現在の、採った血液を検査機関へ送り、複数のアレルゲンの結果が病院へ帰って来る方法とは異なりますね。私には鶏肉(ささみを週に1回可)、豚肉、卵黄卵白のどちらか、イースト、ソバ粉、ブタクサ花粉、ハウスダスト、カンジダ等(後は覚えていません)のアレルギーがあることとされました。禁止食です。例えば焼きそばだと豚肉ではなく、牛肉で別に調理されたものが出て来ます。朝はパン食からごはん食に変わりました。土曜朝だけは全員ごはん食でした。

 大豆、小麦等にアレルギーがあるとアレルギー食となり、おかずが一変します。隔週土曜日の昼食がカレーライスでしたが、その色が通常食、禁止食と異なるのです。米、麦にアレルギーがある子も居て、やむを得なく主食が米でしたが、悪化した時の為に粟や稗も用意されていたそうです。

 着色料黄色4号が禁止の子もいました。他のアレルゲンのせいかもしれませんが、食塩で歯磨きしていました。

 母からはカンジダはおちんちんを不潔にしていると出来るのよと聞かされました。


 朝食、洗面が済んだら登校です。中学部は各地元校の制服、小学部は上下白の体操服(長ズボンに上は半袖か長袖)。共通して白の体操帽を着用でした。

 そして養護学校に到着。当時は身体、知的、病弱の3区分で病弱療養学校とされ、学校では体位カラーが上部にあり、下にクラス、氏名の書かれた名札を着用しておりました。体操服の時は胸の部分に縫い付けた「体位バッジ」と呼ばれた布でした。体位は、喘息A とB、腎・ネフローゼ、肥満、不登校。喘息と腎・ネフローゼは療養所、肥満と不登校は学校の寄宿舎から通っておりました。1クラスが10名程度なのですが、私の学年だけ2年次にA~C の3クラス、他は各学年2クラスで、木造校舎とプレハブ棟とがありました。

 他には北海道紋別郡西興部村に昭和60年まで存在した旧上興部中学校の校舎も知っております。上興部中は教室が2つと職員室。体育館へ向かう廊下の右にお便所。左に宿直室がありました。跡地が「ひなた母校」というだった時に2回宿泊し、現在はオーナーさんが代わりリノベーションされ、GA.KOPPER というゲストハウスになっているようです。


 1限が40分で午前に4限。それぞれ療養所と寄宿舎に帰宅します。小学部と同じ格好に着替えます。冬場の外出時のみ上にジャージを羽織ることが許されました。それ以外は上が体操服1枚です。冬にはしもやけになり、ユベラという薬を塗りました。上級生と「地元ではこんなの出来ないのに」と話しておりました。

 そして昼食。昼食後には全員ビタミンの粉薬を服用しておりました。ここで初めて正しい薬の飲み方を習います。まず白湯を含み、舌下に薬を入れて、残りの白湯を飲みます。なんて簡単に飲めるんだ。流石は看護婦さんです。私は他に朝夕食後に漢方と点鼻薬がありました。常にどちらか或いは、両方の鼻が詰まっていた私にとってこのインタールという液体点鼻薬は嫌で嫌で堪らなかったです。垂れること垂れること。

「やめてぇや」とか言われてましたね。彼が退院した時の嬉しかったこと。2年生に敵対して、3年生と仲が良かった。鼻は後に受けた「鼻中隔矯正術」「広汎性乳頭腫除去術」にて普通のものに近づいております。鼻の通りが良くなると世界が変わりました。

 食後に休み時間があり、週に1回はプール、その他の日は喘息体操、縄跳び、ランニングがありました。中学部男子体位Bと女子体位A は青襷で縄跳び300回、ランニング400メートル。喘息体操はラジオ体操第一の約4倍の運動量があり、屋内プール横のアスファルトが敷かれたテニスコート(普段はネットなし)に各自のござを敷いて行われました。寝位で行う体操(腹筋運動と背筋運動だったかな?)もありました。音楽にはヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルクミュラー作曲「貴婦人の乗馬」も含まれておりました。中学部男子体位A だと緑襷で400回、500メートル。中学部女子体位B と小学部体位A が黄襷で200回、300メートル。小学部体位B が桃襷で100回、200メートルだったと存じます。これは昼食前のピークフロー検査(最大瞬間の吐ける息の量)で結果が悪い日は下の襷への格下げまたは、運動禁止(略して、運禁)がありました。

 当時の私は2ステップで一回ししか跳べず滅茶苦茶でした。それが普通に跳べるようになり、二重跳び、後ろ跳び、X跳び、綾跳び、それらの内2つを組み合わせたものが出来るようになっていました。神山兄ちゃんは三重跳びや後ろ二重綾跳びが出来たんですよ。療養所では上級生に兄ちゃん、姉ちゃん付け、寄宿舎は上級生にくんさん付けだったそうです。

 これらの日課運動はまとめて「喘息体操(略して喘体)」と呼ばれておりました。一斉放送で「喘体です。コートに集合!」でした。一度だけ「乾布!乾布!」と間違えた看護婦さんがおられました。「おおおおお、女子と合同か!?」とにこやかに胸前を斜めに擦るジェスチャーをしていたおバカ(褒め言葉です)もおりました。


 5限目は体操服で登校します。水曜日が中学部と高学年で必修クラブ。特別活動が週2回。あとの2日は覚えていません。

 囲碁将棋部に入り、そこで初めて囲碁を教わりました。「20級やな」と言われておりました。後に新聞認定で関西棋院4級、ゲームソフト認定でアマチュア3段を取りましたが3段の囲碁会で全然敵いませんでした。級レベルですねと対局相手の参加者さんから仰られました。次に挑む機会があれば無級から始めるしかありませんね。「囲碁きっず」で打たずにチャットにて鉄道駅名でしりとりをしていたこともあります。

 特別活動では24式太極拳を習いました。古い子は48式も習っていました。後に空手道を始めますが、捌きの動きが太極拳と同じだなと思いました。寄宿舎生は竹馬や一輪車でした。

 6限が無くて放課後には特別運動という任意で参加するものがありました。ゲートボールに1度だけ参加したことがあります。


 当時、療養所の夕食は16時でした。調理員さんが勤務終了する時間の都合でしょう。それまではサッカー漬け。たまにソフトボールをしておりました。学校には体育館があったので寄宿舎生はバスケットボール漬けだったそうです。

 夕食が終われば検温時間。この時に体調申告がありました。例言は「1量、ほっさなし、お風呂に入ります。異状ありません」でした。最初の数字が排便回数無ければ0 です。「量」は食事を残さずに食べたという意味。喘息発作が、大ほっさ、中ほっさ、小ほっさ、ぜいぜい、なしのいずれか。入浴出来るかどうか、その他体調の申告です。申告後に自習に向かっているときに医師とすれ違い、「顔色が悪いので直ちに安静」と指示され、引き返しベッドに入ったこともありました。

 自習時間。喘息女子と腎・ネフローゼの寮・(病棟がそう呼ばれていました)は各病室で、喘息男子寮はプレイルームに折り畳み机を出して勉強しました。同級生、1学年下の子がよく問題を教わりに来ました。2学年上からも来たことがあります。"|-1|+|-1|=" え? これ、中学で習う問題じゃないじゃん。絶対値(数値から"-"の符号を除いたもの)ですから、Excel だと"=ABS(-1)+ABS(-1)"ですね。掛け算を九九で問わないと答えられない中学1年生もいました。喘息で通学出来ていなかったのでしょう。


 そして、入浴。冷水シャワーを浴びながら10数えて浴槽に戻るのが3セットあり、看護婦さんの監視付きでした。当時は男性看護師の存在なんて知りませんでした。寮の定員が36人でしたから上級生、下級生に分けて最多で18人での入浴でしたね。股部白癬(いんきんたむし)や水虫を持ってる子は最後に回され、薬剤入りの湯に浸かっていました。

 「女子はインキンになるんやろか? 陰部が赤くなるんやろか?」と思春期男子はおバカな話題で盛り上がっておりましたが、カビの感染だからなるんじゃないの? 知らんけど、と答えておきました。もちろん感染します。

 寮の2階から風呂場を覗こうとしたことも。もちろん見えません。

 ですが、一つ下の子から告白されました。

「月尊兄ちゃん、風呂場の女子の髪の毛が見えてしもうた」

 正直で可愛い。当時寮内で不敗を誇っていたリヴァーシで1度だけ彼に負けました。


 木曜日には10円硬貨を渡され赤電話を使うことが出来ました。私は2つ隣の市宛てでしたが、遠方からの子は折り返しで電話を受けていました。この10円は預けられている「お小遣い」から引かれていました。火曜日か祝祭日にも電話を掛けることがあったかもしれませんが、週に1回との決まりだったようです。


 月曜、木曜は果物、他の曜日はおやつが夜食時間に出されました。これもアレルギー食、腎・ネフローゼ食では異なる物が出され、禁止食の私は鶏卵、イースト、豚肉エキスに気をつければ良かったでしょうか。

 腎・ネフローゼ食だとコメッコ、プリッツのような塩分を取り過ぎるものが禁止でした。我々からは魔のコメッコ、魔のプリッツと恐れられ、飲み物なしで食べるのは至難でした。後にお世話になりました江崎グリコさま、申し訳ございません。ビールのお供に持って来いでございます。

 他に看護婦さんが握ったおにぎりが出されました。しかし、ある一人の看護婦さんが夜勤の時はみんな控えていました。手に付いていたごはん粒を食べているところを目撃されたとか。


 テレビ視聴は20時まででした。寮に1台、プレイルームに1台とビデオデッキがありました。

 雨の日はプレイルームで遊ぶことが出来、本棚には水島新司作「ドカベン」、小林まこと作「1・2の三四郎」、亜月裕作「伊賀野カバ丸」等がありました。映画は「風の谷のナウシカ」(1982年、トップクラフト)、「クリープショー」(1982年、米国)、「ビー・バップ・ハイスクール」(1985年、セントラル・アーツ)等を視ました。夏休みに食堂で「象のいない動物園」(1982年、グループ・タック)を観ました。


 夜の歯磨き、乾布摩擦、あとは腹式呼吸があり、人数分の回数が課されていました。乾布摩擦で背中を擦る時は後ろの子に自身のたわしを持たせる要領でした。

 その年度で院長先生が退職だっだのかな? 夜の乾布摩擦の時にそれぞれの寮を見てらっしゃいました。時々でしたが。

 女子寮から聴こえて来たのは編曲された演奏を録音したテープに合わせて歌い、後ろで伸ばされたものに合わせて息を吐き切るというものでした。

 後に演劇で発声用の腹式呼吸を身に付けますが、以来、私はしゃっくりをしたことがありません。

 21時消灯、その後はラジカセを使うことが出来ました。イヤホン、ヘッドホンは禁止でした。首に巻きつくと危ないからとの理由で。

 22時就寝、看護婦詰所からの操作で病室コンセントへの通電が止まるようにされておりました。廊下のコンセントは通電されたままで、外泊日(第2、第4土曜日曜)特に希望者が多かった第2土曜日で新米の看護婦さんが夜勤の時に皆の延長コードを繋ぎ合わせて病室まで敷いて、22時以降にラジオを聴いていたこともございます。悪い連中ですね。私を含めここにいる子が良い子である筈がなかろう。

 第2土曜日曜に希望者が多かったのは、第4土曜日曜までに退院となったら勿体ないからで朝三暮四で喜ぶお猿さんではありません。もっと悪いことをするお猿さんでした。



「ビー・バップ・ハイスクール」がテレビで初放映されたのは退院後の昭和61年12月30日だったようです。ビデオソフト発売日がわかりませんが、ずっとプレイルームにあったので正規品だったようです。

f、v 音については自身で下唇に上歯が触れさせているかどうかでカタカナ表記を揺らしております。

リヴァーシはツクダさん(現、メガハウス)のマグネットオセロでした。リバではありませんよ。優と1学年下の子の受け攻めが逆転するものではありません。

医師は24時間体制を3名で。今から考えると長時間労働ですね。

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