音楽を聴かせる自由について。日記。

 YouTubeが広告を解禁してどれほどになるのか記憶では判然としない。あの鮮烈な嫌悪感は未だに尾を引いていて名残は今日一層塗り重ねられる一方な気がしている。

 ある時音楽を聴こうと思えば脳内にはその出だしが既に流れていたのだが、それが健康に響くほどの大音量の広告のノイズによってかき乱されてこれから高まるはずの気分はその振る舞いではなく存在自体から崩壊してしまう。

 ところで、この広告が既存の商品主体広告のみであれば製作者の都合も踏まえて苦渋も甘んじる姿勢だが、これが興味も無いような音楽が主体の広告だった日には収まりがつかない。

 昨今では誰の音楽を聴くにも無料という訳にはいかなくなっている。その善悪は別にして、空気の振動に値段をつけて特権を主張する上、扱いによっては法律に託けて懲罰も視野に入れている状況で、その大事な作品を無差別に聴かせるというのは何の法的根拠と作品へのリスペクトがあるのか少なくとも私は分からない。

 広告を入れるタイミングはほぼランダムであり、仮に動画の初っ端に気を付けていても途中で察知できる条件はほぼ皆無と言って良い状況で、自己責任と一蹴されるようなら私がそうであるように良かれ悪しかれ作者自身に注目が向かうのは無理もないと愚考する。

 もしも聴く自由と聴かせる自由に均衡と秩序が無いなら勝手な思想ではあるがテレビのような広告を流すのはやめた方が良い。作者がどんなに魂を込めても万人が共感する事は無いし、人間は常に音楽を聴きたいという欲求に駆られているわけではない。

 最近は広告が動画の作者の意図とは無関係な形で付与される事もあると曖昧に知ったが、自分が作者ならせめて内容は社会的な課題を解決に導くものであって欲しいと思った。

 ともかくここまで頻繁に流れるのであれば広告全体の弊害について学術的に公平な目線から研究などあっても良さそうだが、それも私の狭い生活空間ではそれほど大々的なものを見た覚えが無いので相当な探求の余地はあるように思える。



 全くの余談ではあるが現代に於いて広告を飛ばす事で推しの生活を案じる人々も珍しくはない。だが問題視され得るLGBTsの生産性よりもエンタメ業界の生産性について調べた方が後々功を奏する気がする。果たしてそれらが生活の中で癒しとなっているのか巷マルクス理論で言われるような労働力の増加に伴う擬似的給料の役割なだけなのか、興味が無いと言えば嘘になるが、結果的にとはいえ答えは見え透いている気もする。
 本来ならもっとポジティブな面も見るべきなのだろうが、それは金銭に対して神経質でいるべきかという問いでもあるように思えて、ある意味で一つ覚えの原点回帰主義か脱経済の運動の潮流かの分水嶺といった妄想につまづいてしまって視点の転換が捗らない。多分全て何もかも忘れる事だけが至高なんだろうと思う。

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