社会が解れたはずなのに。日記。

 生兵法は大怪我の元と言うものの私の知能にも床があるようで、目を背ける事しかできないのは今に始まったことでもない。

 最近ききかじっただけの話に拠ればノーベル物理学賞で隠れた変数が改めて存在を否定されたらしい。ベルの不等式が破られたという情報で私が真っ先に、勝手に解釈・妄想したのは社会が崩壊し得る条件が揃ったはずという事だった。

 明日の生活のために齷齪働く必要どころか今この瞬間も全存在の基準が怪しくなったのだから、馬鹿真面目に予定を立てることさえじっくり検討されて然るべきだと夢想した。実際は数百年前の賢者の言う通り、俗世そのままだったが。

 一応量子関係を扱うに際して気に入らない事を残しておくと、「ミクロ世界の話だから現実には関係ない」などという荒唐無稽な視点が主軸の解説などが雑多にあったが、ミクロの世界に割り込んで行ったのは他でもない科学者だと思っている。錬金術では飽き足らず、信仰を捨て、哲学を捨て、習俗を捨てた果てに所業を全て忘じて自己否定とはあまりに過ぎた刹那的快楽偏重ではなかろうか。

 話を戻す。

 世界の実在が揺らいでもなお未完成な死生観への注目さえ惹起されずに明日の為に早く寝て寿命を削る日々が、数億人単位で老衰するまで行われる彼方にあるはずの目的を、現状誰が明示できる状態なのか不安にさえならなかったのだろうか。

 この集団が持つ心理はありきたりに信仰心だと揶揄されても仕方がないと思える。現に体制は崩壊しなかったし、店で買い物もできた。資本主義だろうが社会主義だろうが共産主義だろうがアナーキズムだろうが自由になったのではなかったのか。

 まあ全て私の妄想だったという話かもしれない。量子テレポーテーションだろうがコンピュータだろうが信仰のために用いるとだけ宣言されて平気なのだから、人間かどうかさえ疑わしい。そう考えれば1日3回食事に手を合わせる仕草の趣も一入な気がする。

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