軽度の発達障害と経済観と先入観の諸々日記



 本文を書くにあたって正確な諸形式と正確な専門知識を用いて書くのではない事を留意いただければ幸甚。要はただの日記のつもり。

 初めに発達障害者が取り巻かれる環境に幾つかの共通点があると思った。斯く言う私も作文ができる程度の能力がありながら発達障害者(ASD)である。私の場合どの場面でも同じ問題ながらも関わってくれる周囲の人々や支援者と度々摩擦を起こしたので、そのうちから恐らくそうであろうと思われる予測と杜撰な形式理解を自らの体験が充分だと考えられるもののみに絞って類推したい。

 発達障害の大概は年齢に関わらず症状を診断と共に医者から告げられた後に大量の書類とスケジューリングに忙殺される。比較的若年のうちから診断があればペースは幾分か緩やからしいが、私の場合は成人間近になっての発覚だったので今も時折四苦八苦するし何よりコミュニケーションが壊滅的に出来ないので、揃えても提出の段階で頓挫したりしなかったりする。ここに関して書類整理や届出が必要になりはするものの、お医者さん本人が支援できる団体や企業の扱いが割といい加減な為にそこへ繋げようとしなかったり出来なかったりする事がある。これの有無で難易度が違って来る。

 次に症状が軽度と診られれば生活費と就職・就労で大きくハードルが設けられているように愚考している。ここで悩まない当事者はほぼ見かけない。だから少し小難しく記す。
 完全に予測にはなるが軽度の発達障害であろうとも通常の雇用枠にはまず入らずに障害者雇用であったり、或いはケースを分類して作業所等での工賃や労賃を稼ぐ事になる。これらでは減収が伴うのだが社会福祉で補助金や年金を貰うんだから良いだろうと考えて多くがここで止まってしまう。そこに私の独学した分野からの視点で一つ疑義を呈したい。

生きていけるだけの収入が施されるので現状を甘んじて受けよ、という視点は分別を明らかに欠いているのではないか?

 そもそも障害者に限らず補助金や年金の額が何を基準に定められているかと言えば基本は国内の物価と景気に大きく左右されて定まったりはしない。そしてその物価や景気は政策と企業との働きに依存する。この時点で矢張りお荷物じゃないかと思うかもしれないが、お荷物も何もその判断基準が雇用主が出した雇用条件である事自体が少々良くない。雇用主はあくまで社会でこれこれの仕事をするという自己判断を基に求人募集をかける個人なのであって、当然定型発達だろうが五体満足であろうがその条件に合致しない人間は存在する。その合致しなかった人間に幾ら訓練を積ませようが、仕事場の人間関係や上司の指示に使われる用語、更には現場に不可欠な設備の扱い方などはその全てを到底作業所等で賄える経験値及び物量ではない。

 また、どうせ一般雇用は無理なのだから構わないと思うかもしれないが加えて新しく捉えたい事実がある。それは営利目的が行き過ぎてしまったが故に修正を要する仕事が溢れているという点だ。
 身近なところでは外来種の駆除・活用や生態系保護を目的とした各地の現状把握がある。日本の森林面積や生物多様性の潤沢さは言うまでもなく極まっているのだが、そこへ人間が分け入って捨てたゴミの回収や、一見環境を有効活用している農業で使用される薬の影響緩和などは民間人が掲げてもその収益の悪さが手を焼かせている。これは研究者や専門の人間でも同じく収益を理由に先送りする事が屡々らしい。
 であれば現地に住んでいる人間と専門家の両方を国家が雇い入れ、ネットで繋げば見たい場所や生物の映像が楽に手に入るかもしれない上に雇用に繋がる。外来種の駆除・活用でも要領は変わらない。
 他にも多様な需要がある。都会や山道にゴミ箱を設置してその中のゴミ袋の回収と再設置業務で雇用を作るなら、態々ポイ捨てを取り締まる回数だって減るだろうし徹底すれば通常の商売も幾分かしやすくなるかもしれない。相互の同意を取り付けて林業主体の植樹ではなくその地元の生態系に配慮した雑木林を目指した植樹なら人里に降りて来る動物が減るかもしれないし、花粉症も軽減するかも。治安が悪くて夜中に利用が困難な道に訓練を積んだ人々を置いておけば社会的弱者だって活動の幅が広がったりするかもしれない。
 全て国家ありきの空論じゃないか、と言われればそうなのだが、同じ仕事でもどちらが社会貢献の度合いが高いかは火を見るより明らかだと思う。無論これらの職に就くのは障害者だけじゃない。純粋に仕事を楽しみたい人や就職に不利な条件を負った人や依存症に苦しむ人や家庭環境が芳しくない人や思わぬ破産を被った人等々、この人達が既存の就職をしたいならそれでも構わないがそれだけでは必ず余る。(仮令労働者であっても回復に何かしらのトレーニングや専門医療を要するなら当然その過程で与えるべきである)。何故なら健常・障害に関わらず現在も職業安定所の求人は絶えない程人手不足の状態であるのに自発的であれ非自発的であれ失業者が見られるからだ。もしも失業が原因で生活基盤を失ってしまった人が衣食住を整えるだけに一生を捧げるともなればその社会的損失は計り知る事ができない。
(余談になるが国家が職を欲する国民を永久的に雇いこむ以上、国家が支払う給料の額が一般企業が一般労働者に対して支払う給料の底値になり得るのでどういった社会にしたいのかという目標が定まっていなければ混乱を招く。)

 ここからいよいよ小難しい話の核に相当する部分を書いてみる。

 私個人の推測と体験からこの失業という状態には特定の角度をつけた視点が求められる。というのも本を正せばこの失業者は自ら生産活動をしてはいけないという縛りを殆どの場合受けていないはずだ。
 こんにちの社会では生業の多くを雇用に依存しているので資産多き雇用主の要望が人々の能力を測る基準となってしまっている。その故に一般企業への就職に誘導されるにつれて先天的特徴の如何に関わらず無力感や無価値感や劣等感や自分は無知無能であるという幻想(摩擦)をみる。(症状によるが特段にこの自己否定的感覚を発達障害者が強固に持ちやすい場合がある。)

 言わずもがな自分が雇用主の需要に必ず応える供給源である必要は無い。だから自分が好きな事をそのまま職業にする事は最低限の社会規範を守る限りに於いて問題にはならない。この条件は繰り返しになるが健常者や障害者や社会的弱者などの区別を持たない。だが実際に出来ていない原因を辿ると生計が成り立つかという一点がこれを阻害している。例えば1週間に1回ヴァイオリンを弾く事が好きな人はそれを趣味と呼ばれるし、落ち葉を集めるのが好きな子供は同じく市場価値という概念の鋳型で行動そのものを矯正される。
 この一点の解決は個人に求めるのは当然間違っているし、かと言って全体に押し付けては健全な社会とは呼べない風潮を生む。

 時に、先んじて問題のプラスの側面を見るなら殆どの人間は生活が保障され続けるなら生産活動を自発的に行う可能性の面である。これの意味するところは生活を保障する事で豊かな人間的多様性を社会に芽吹かせられるという点と、生産活動、延いては労働とは何かという根本的な問いだと思う。
 そんなものは実在しないが言葉の通りの良さの都合上、市場原理なるものが有ったとして、その原理に従うなら通常、市場価値が生まれるのは多くの人間の目に供給される物やサービスが触れた瞬間である。

 つまり広告してみないと分からないのが市場価値なので、マニュアルに沿って医者や教師がとある人間1人の行動を「過剰に」抑制したり何かを強要したりするのは市場原理ではない。(企業が業績を上げると言う時、自然と顧客を増やそうとするというだけの話。)しかし異口同音に将来の生活を語る。無論正しい行いなのでこれからもそうすべきだと思う。


 この前提から導かれる主観的推察は市場価値の説明と誕生順序を混同した場合、経済においても社会においても壊滅的に多様性が損なわれるというものだ。
 私見では経済の多様性とは例えば団栗が欲しいと思った時に穴が空いている物や虫食いがある物や殻斗がとれてしまっている物や欠点の無い物が常に多様な選択肢として提示されるような状態だと考えている。これは健康食品や家具にだって波及する話だ。
 また、私見では社会の多様性とは人間の自然な行動の一部が労働なのだと正しく説明されている状態だと思っている。

 だからこそどんな人間であれ生活を保障する何らかのアプローチをかけなければ希少な開拓分野から順に滅ぼしていくだけだ。(アプローチに言及すればお金か生活必需品かという二者択一ではなく両方とも供与すべき。真偽は知らないが日本では米が余っていると言われるのだから余程保存技術が向上させて永久に備蓄に回すのでない限り再配分が非現実とも思えない)

 それでも国策として限られた分野でだけの大量生産大量消費を望むなら国民の先天的自発型才能トレーニングを廃絶する事とイコールなので、現在のように発達障害者も定型発達の人も衰えていくのは避け難い気がする。この状況で一般市民が頑張れる事は無い。何故なら序盤に書いたように現在の補助金や年金は疎か、労賃のほぼ全てが政策的資産多き雇用主優遇と資産多き雇用主らの政治・政策優遇からなる相互関係でほぼ決まって行くと言って差し支えが無いから。

ただこういう妄想から導き出された誰にでも好きな事という才能があるという事実は私くらいの日記に相応しく思える。

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