自然の摂理というお題目について。日記。

 最近は季節柄、鳥類の巣立ちの為に雛が巣の外へ出て地面でも散見される事があるらしい。そのことで「雛が落ちていても捕獲や保護をしてはならない。触れてはならない法律が」云々という話がSNSで流れていた。この具体的な事例に関しては私も同じく触れないほうが良いように思う。けれども法律がどうのこうのという話を抜きにして考えると、都市設計がそもそも間違っていたんじゃなかろうかと愚考する。


 更には仮令「保護をせずにカラスやネコの餌食になろうともそれは自然の摂理である」と。しかしカラスもネコもヒトもその他動物も都市空間に合わせて生活様式を変化させているはずで、随分と独善的な摂理もあったものだと感じる。


 この手の言説は広く動物の専門家でさえ使用する言葉だろうと思うが、こういう短くて覚えやすいキャッチーなフレーズは、コマーシャルと同じで内容を犠牲にした周知方法になってしまっていて、結局最後は仲間内で一般人の理解の質に関して愚痴を吐き捨てる事になる。


 ヒトの思う人類史においてはヒトは自然発生としてあるのだから、知能指数の区分に関わらず人間が衣食住を最大限利活用できるように義体化すると言い切った方がまだ現実味を帯びる。要は「自然さんに優しくしようね」ではなくて「我々はより崇高であらねばならぬ」の方が責務という面では妥当性が高そうだと感じる。そして崇高たらんとするなら不特定多数へのCMではなく少数の権力者へ向かう責務を果たせば良い。義体化するか都市設計を変革させるか、と。


 そしてそれら責務の実効性というお馴染みの議題に差し掛かった辺りで、ヒトは自然の一部を担っていたのだと思い出せば丸く収まる。自然の摂理などという全容の大きすぎる概念を、インスタントに引っ張り出してもヒトの認知能力では捉えきれない。そうではなくて、自然との共生という道は常に選択肢にあるのだという現状確認をすれば済んだ話だったはずだ。


 その上で尚も特定の生物を贔屓して天敵を追い払ったり餌を供給していたりしても、それは最早自然の摂理なので本来はヒトが禁止できるものではない。けれども愛する対象の苦しみを見れば少なくとも手は止まるだろう。それでも世代交代に際して知識伝達を怠った場合に始めて技術的前進が見込めると仮定すれば、今と大差は無いように思う。


 仮に淘汰という自然の摂理を信じるなら、日本に限ってヒト1人が必ず一日一回何かしらの生物に保護の意図を持って、餌の確保や天敵からの防御などの行動を起こすとした場合、その一回が淘汰という摂理を瓦解させるほど影響を与えるとするのか、それとも対象がランダムで、飼育を伴わず、殺傷厳禁なら影響は今迄通りと考えるのかというような大枠の疑問に対する立場がはっきりしないまま、その先の影響だけを論じても建設的ではない。


 兎も角、生物を保護したいという欲求をコマーシャルで冷笑するような地獄を作るよりも、ヒトの認知能力を認めて牛歩になるかもしれないが着実に知見を蓄えたほうが効果的だと私は考える。興味がない人間を巻き込みにかかる事が、ヒト社会的には逆効果を生むという経験値くらいはもう流石に持っていたほうがいい。幾ら圧倒的効力を持った法律などが存在していても、それらを全部把握する人間が少ないのを見ても明らかに「興味」と「棲み分け」はその力関係を無視して働く。把握しないのは怠惰などではない。これもまた自然の摂理であるからだ。


 

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