白紙投票に関する様相

 最近益々ご健勝云々よろしく選挙に対する熱意がSNSで高まっているように思う。そんな中で白紙投票の肯定に対して知的に思考の質を問うような言葉や自、己統御の不完全性を誇示するような誹りを投げかけるのも見かけた。

 白紙投票による実務的な効果が無いのは承知しているが、では反対にその白紙投票者の意見をその崇高な多数決理念で選ばれた人間はいつ拾うのか。まさか絢爛な民主主義的選挙に迎合しておいて拾わないという選択肢はあるまい。しかし戦後からの流れを超大雑把に見ても(※広義では現代も戦後なのだろうが)政治家が党の枠を超えてふるい落とされた意見を改めて収集した歴史は無いように思う。多数派の理想的な振る舞いが未だに未確定なのに少数派を選挙前から排他して、しかもそれが罷り通るのでは今後何かが好転するとは思えない。

 次いで「反対しないのは肯定である」という意見だが、己の肉体を制御出来ないほど情動的なビーストが増えたもんだと邪推させられる。例えば魚釣りをやっていて釣り糸を垂らすポイントを画一的に決められないが、無造作に投げ込むのも肯定し難い時、釣り糸を垂らさないよりは垂らしたほうが良いと言う場合、これを理想的な魚釣りと呼べるか疑問が残る。理想的な魚釣りがしたい人間に、形式上だけの釣りでもやらなければ無意味だと騒ぐのはコミュニケーション的に御法度ではなかったのか。
 「無言を肯定と見做すかどうか」は当人の決断に依存するので、見做した奴を問題視する事はあっても見做された人を問題視するべきではない。安易な断言は言外の前提を即席で用意できるものの、少なくとも私はSNS上で善意的に用いられた痕跡はここ数年見ていない。

 それでもこのまま政治が暴走を続ければ起こらない悲劇は無いと私も思うが、今少し念頭に置きたいのは危機回避運動と統治を分けたほうが良いという点に尽きる。
 危機を回避するべく国家全体が大きく、しかも単一のものとして動く必要があると思うなら統治機構外の選択肢も用意出来なければ目的は果たせない。その危機回避運動の権限が絶対的に国民の手に有る時、国民は初めて主導的に政治家を利用する民主主義的生活が営めるのであって、その時統治機構の使用法が拙い事の何が問題になるだろうか。むしろここまで悪化した社会構造を安全・安定的に統治機構を駆使すれば改善して行けると考えるのは白紙投票とどう違うのかと悩ましくもある。

 それから余談として多数派の振る舞いがより洗練されないのなら、人口が増えた場合は矢張りこれまでと同様に多くの若者は政治を真面目に考えなくなるのじゃないかと愚考する。恐らく人口が増えれば景気もプラスが多く出るだろうけど、他方政治的意見は常に加工される。完全な主観的妄想になるがこの状況で再び独裁の悪夢が来ると言う者は、もはや預言者的扱いを受けるのがオチかもしれない。多数派の振る舞いは国会じゃなくても工夫はできると思うので今からでも並行できないものかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?