貨幣の空想定義。雑記



 最近は貨幣とは何かという問いへの模範解答も定まってきたやに思う。「貸借の記録」と答えられると恐らく及第点なんだろうと私的に思わないでもないが、本当は違うかも知れないと考えてしまった。それが元凶の雑記。

 貨幣=貸借の記録≒貸借の存在≠全ての貸借の表記

 この式は現実に忠実な人間なら誰でも理解出来る。例えば買ったケーキに乗った苺は製造元が違えば個数が変わる。これを分けて食べる場合は仲が良ければ融通で解決してそこで終わる。
 貨幣は必ずしも社会全体の貸借を完全に記録する訳ではない。

 ここから以下は完全な私の予想。

 原始的な交流(コミュニケーション)の中にも矢張り現代と同じく本音と建前を持っていたはずで、恩を感じればそれを律儀に返す事で信頼を回復するなり得るなりといった行為は然程珍しいものとは思えない。こう考えると貨幣は交流の一形式とも言える。

 その貨幣が現代の活動に不可欠なほど栄華を極めた理由は少なからず征服の歴史に触れる事で理解が進むかもしれない。
 1国家に1貨幣は今や珍しくは無いが、発行主体が政府や中央銀行なのは自然な形とは言い難い。貸借は常時人同士で起こるものであるので、必要に応じてどうしても民間人であろうと発行せざるを得ないものであるはず。にも関わらず一部の手形などを除いて1貨幣で統一されている裏には歴史的に洋の東西を問わず支配的権力者がそうさせている。ここで矛盾と言えば矛盾なのだが民主主義国家では政治家の存在を「民の代表」とする場合と「民の推薦」とする場合が有る。これを明確に区別しないままのし上がった政治家は数多くいて、それらが主体性を持って貨幣の発行にも当然携わっている。だがこれを多くの国の憲法に最高権力者と記載される民間人でさえ正す実行力を持たされていない。


 些細な問題から大きな問題へ目を向けるなら権力者の存在を許可し続ける限り通貨は統一され、国内の通貨の流通量の都合で民は税金を納めるべく労働へ駆り出される。
 私は無政府主義者ではないが、いつまでも形骸化した社会を存在させる意味を見出せているわけでもない。たしか少し前に贖罪のつもりでMMT全体に於けるJGPの必要性を自分なりに書いたつもりだけど、これだって結局いかに生産活動をするか、という支配下でのゲームの話に過ぎない。
 もし本当にコミュニケーションツールの一形式が貨幣の原型だった場合、現代人はただの猿未満だったと落胆する他無い。その貨幣のおかげで発展した文明の恩恵を受けていると言われても、その恩恵で支配的な暴力を制御できていないなら何の意味も無い。朝三暮四。萎えてきた。酷い気分。サルミアッキ。ピーチミートパイ。

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