人間の情報の摂取過程と巷の量子力学の共通点日記



 私も含めた人間は通常心身に異常をきたしていない限り情報を獲得して生活に反映させるまで一定の道程を経る。
 初めに情報が充満している場所、私達が「景色」と呼ぶ場から五感に無意識で情報が流れ込んでくる。
 次にこれは知識が増えるにつれて希薄になって行くが、手が加えられない状態の情報が脳へ入る。この時点を勝手に以下「素の場」と呼ぶ。
 次にこれを分別する脳の働きが幾つかの情報を特別に記憶と結びつけて加工して行く。この時点を以下勝手に「思考の場」と呼ぶ。
 最後にこれが真実だと思う情報を疑う事をやめる。この時点を以下独断で「信念の場」と呼ぶ。

 私達が知識と呼ぶものは大体上記の信念の場から形成されていて、信念は常に他人の同意という行為に依存して再生産されて行く。その利点は法律やモラルや社会の流行などを支えている。しかしこの信念は情報の精度とは無関係なものが多い。仮令出典や発言者の名前と年代を正確に言えてもそれらを照合・証明する為には客体を求めるに至るから。

 だからと言って信念が悪いものだと言いたいのではなく、人間は上記の一連の情報摂取の働きで主体と客体を認識しているが、現実的には体感で5%程度しか他人と干渉出来ていないかも、という面を今回ピックアップしたい。

 よくネットサーフィンで量子力学について語っている動画を観るのだが、その中で量子が観測されると性質が変化するというのが人気を集めているような印象を受けた。これは私の表現する思考・信念の場から景色に対してアプローチをかけられるという事になるので結構ドキドキワクワクした。
 その情報を得て暫く夢想していて疑問が浮かんだ。他人も変化してしまうのかな?と。だから更に調べてみると次元が11個有るとか過去、現在、未来の時間の概念を根底から覆すような理論や実験や、果ては視えている景色はホログラフィーなのだという理論(仮説?)まで有った。
 ここで浮かんだのは現在自分を構成している量子がどういう性質でどの状態にあるのか本当は分かっていないのでは?という疑念。機械で調べようにも機械だって小ちゃい粒々な訳で。人間の観測で変わるなら正確な情報なんて取れないじゃないか、と。

 私も時々難しいと感じるけど自分で自分を信じながら誰の同意も得られない宇宙のようなだだっ広い空間を彷徨うなんて、想像もつかない。でも逆に「世界は不確定です。可能性に満ちてます」とその分野の専門家が積極的に言ってくれたら現状認識されてる資源やエネルギーの量、人間関係に煩わされる回数が減りそうな気もする。付け加えればそうやって他人の証明(同意)を求め続ける限り自分オリジナルの人生を生きられないような気もする。けれど証明を求めない事は現在の社会の砕破を意味する。個人的には最高な未来かも。粒々イイね最高。

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