現代経済が自然環境を削る事について。雑記。

昨今の自称環境保護団体の行き過ぎて非論理的な言動によって本来の自然環境保護の骨子がぼやけている感があるが、現代の資本主義下に生きる以上確実に破壊を齎しているのは確かだろうと思う。

全体、どういう訳で資本主義と環境破壊が結び付くかと言えば明快な一例は貨幣の駆動によるものがある。「貨幣の駆動」とは、貨幣が現在のように機能を果たしている状態を指し、駆動させる条件の中でも「徴税」が大きな役割を担っている。(十分条件か必要条件かというような議論はここでは省略する。)

貨幣とは元来ヒトのコミュニティで生じた貸借関係を記録した媒体全般を指し、現代ではその一種である通貨が国家単位で流通しているのだが、この通貨を通貨たらしめているのも矢張り徴税である。

この徴税という行為は非常にコスパが良く、暴力を行使するだけで通貨を駆動させられる。当然、国民は暴力を逃れたいと願い、国家元首は暴力を逃れられる条件に通貨の支払いを命じる。しかし初めは国家元首が創造した通貨を国民は持ち合わせないので、国家元首は単に通貨を配布するか、何かの対価として通貨での支払いを約束する。

大抵の場合、国家運営の方針上必要な労働を国民に課して、その労賃として通貨を支払うのだが、ここで漸く主題である自然環境の話に入る。

いくら重要な労働を課すとはいえ、国家が一度に大量の国民を雇いこむにしても限度が出てくるし、過酷な肉体労働に向かない人々も出てくる。けれども肉体労働を単に避けるのみでは徴税に応じられないので別の手段で通貨を獲得する必要性がある。

そこで手っ取り早いのは第一次産業と呼ばれるような自然環境のリソース(原資)を利用する事で、通貨を獲得する方法である。漁労や畜産や農耕や狩猟採集etcで食材を用意し、法律が有る場合にはそれに則って通貨での売買を約束する事で同様に通貨が手に入る。

さて、ヒトの生存には衣食住が不可欠であり、一日たりとて融通が利く営みではない。然るにこの一次産業はヒトが動物的であって、国家が徴税を行い続けるのなら比例して永らえる仕事であるが、その一側面には自然環境のリソースを削る事が含まれている。

海外の輸入に頼っていようが地産地消をしようが養殖をしようが無関係にリソースは消費されていて、これは金を出しても購入できない資源にあたる。にも関わらず資本主義下では、自然保護が商売として成立しないので殆どやりたがらないのが現状だ。

つまり少なくともヒトの生存に有利に働く部分に関しての環境の再生産は不可避の営みであるが、それが十分かというような検討は一向に為されていない。国家元首は自滅を避けたいと願う場合、この役目をどうか全うせねばならないはずだが、社会を見渡す限り暴力に頼り切った頭脳ではどうにも荷が重いらしい。

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