アセクトリカル・アロマティカ 第2話

ミーとオリカと出会った翌日、美月は学校を休んだ。宿題は何とかやったけれど、友人から投げつけられた言葉や視線を思い出すと気分が悪くなり、どうしても登校する気になれなかった。幸い金曜日だったので、明日と明後日も休みだ。心配しながら出勤していった母に申し訳ない気持ちになりつつ、月曜まで学校に行かなくて済むと思うと、正直ほっとしている自分もいた。
ベッドに横たわり、白い天井を見つめながらぼんやり思う。初めてインフルエンザとか、冠婚葬祭とか、そういうの以外で学校を休んでしまった。とりあえず宿題はさっき学校に送信したし、中間試験はまだ先だから大丈夫だと思うのだけど。

「……休んじゃった」

誰もいない自室で、一人呟く。何だか一線を超えてしまったような気がして、罪悪感が暗い気持ちに無数の針を刺してくる。せめて今日の授業でやる範囲だけでも勉強しようかと思ったが、ベッドから起きあがろうとした瞬間に気持ち悪さがぶり返してきて、小さく呻くことしか出来なかった。結局布団の中に逆戻りし、苦いため息をつく。
もういっそのこと眠ってしまえればよかったのだが、こういう時に限ってなかなか眠れない。時計の秒針が時を刻む音がやけに大きく聞こえ、不安の影が色濃く自分の輪郭に落ちてくる。今日はもう休んじゃったけど、もし月曜も気持ち悪くなったらどうしよう。火曜も、水曜も、木曜も、その先も。ずっと学校に行けなかったらどうしよう。
不安の影が恐怖の渦に変わり、布団の縁を握る手に力が籠る。その一方で、最悪の考えばかりを巡らせている自分に気付く。
まるで回転する力を徐々に失い、地面に倒れる駒みたいだ。そう思いながら頭を軽く振り、寝返りを一つ打つ。
別のことを考えよう、そうだ、例えば。

(トークルーム、かあ)

夕陽の中で煌めく、白いカードキーを思い出す。プレイヤー達が集まって、色々なことを話す場所。恋愛や性的なものに対して、ひょっとしたら自分と同じように感じている人がいるかもしれない場所。
本当にそんな人達と話すことができたら、どんなにいいだろうか。出口のない海を彷徨う中で、誰かと否定的でない言葉を交わしあえたなら。
波間に漂う流氷が、雲間から射す光によって溶けていく、そんな温かさを夢想する。だがそんな夢想を再び凍らせるように、不安の影が耳元で囁いてくる。

(本当に他の人と、恋愛や性的なことについて話すなんてできるのかな。そもそも人と話すのあんまり得意じゃないし……もし上手く話せなかったり、話したとしても結局「そんなのAセクとかAロマって言えないよ、あなたがおかしいだけ」とか言われたりしたら……)

本当に自分は孤独なのだと突きつけられたら、その時こそどうしたらいいのかわからない。そうやって一気に深海の底に突き落とされたら、二度と浮かび上がることができない気がする。淡い夢を見ることさえなく、奈落の底で冷たくなった手足を縮めるだけの自分を想像し、肩が震えた。
やはりこのまま淡い夢を見ていた方がまだ幸せだろうか。少なくともアセクトリカル・アロマティカをオフラインでプレイしていれば、その間は誰かの言葉で傷つくようなリスクは絶対に無いし。でも。
不安と希望の天秤は揺らぐばかりで、どちらにも傾かない。頭の中で何度も「でも」を繰り返しながら寝返りを打っていたが、やがてそれさえもどうしようもなくなってくる。結局また天井を見上げてため息をついた時、美月はふとあることを思い出した。

(そういえば、こういうのって確かルールとかも決まってることが多いって聞いたことがある……ルールがどんな感じなのか、一回調べてみてもいいのかも)

その上でどうするか判断しても、きっと遅くはないはずだ。そう思うと、冷えていた体に小さな灯りがともったような気がした。
ゆっくりとベッドから体を起こし、時計を見る。時刻は11時を少し過ぎたくらいだった。いつもなら学校で授業を受けている時間帯だ。念のために携帯を起動し、今日の授業の課題が来ていないかを確認すると、受信フォルダは真っ白なままだった。安堵と少しの罪悪感が混ざり合った気分で、美月は携帯の電源をオフにして、ヘッドギアとコントローラーに手を伸ばす。

(……ごめんなさい)

誰にともなく心中で呟き、コントローラーを手にはめる。起動したヘッドギアの画面には、いつも通りアセクトリカル・アロマティカのタイトルが表示された。今日は設定を絶対にミスしないよう、オンラインの設定を注視する。ミドルモードと書かれたチェック欄を選択すると、画面が暗転し、昨日と同様にアティウ・フィラに到着した。NPCのラパスの民たちが行き交うエメラルドグリーンの道を、海月は足早に歩き始める。
ミドルモードは、オンラインではあるが他のプレイヤーとは遭遇しない。例えば、今日は他のプレイヤーと話す気分ではないがダイレクトメールの返信だけしたい時、とりあえず曲だけ作成してサウンドショップにアップロードしたい時など、完璧にオフライン、もしくはオンラインだと微妙に達成できないことをしたい時に選択できる。まさに今の海月にはうってつけの機能だった。
画面の右下に表示した地図を頼りに、海月はいくつか角を曲がり、閑静な通りに出る。丸みのある陶器のように白い建物が連なる中、一軒だけ桜色の真珠めいた建物があった。近づいてみると、予想通り自動開閉式ドアの表面に、白く印字がされている。
ここがアティウ・フィラのトークルームだ。より正確にいうなら、オンラインモードでルームキーを使用すると、プレイヤー達が集まっているトークルームに転送される場所だ。最も今はミドルモードなので、ルームキーを使用してもどこにも転送されないのだが。
昨日ミーに言われた通り、海月はルームキーに印字されたトークルームの文字を押す。すると文字が輝き出し、ルームキーがふわりと海月の手から浮かび上がった。そのまま宙に青い光を投射したかと思うと、瞬く間にホログラム式のディスプレイが作り出される。

「うわ!」

突然のことに驚き、つい後ろによろめきそうになる。だがどうにか踏みとどまってディスプレイを眺めていると、青く澄んだ画面に白抜きの文字が浮かび上がり始めた。

『ようこそ、トークルームへ!初めてご利用される方は、必ず禁止事項の説明をお読み下さい。禁止事項を読んでいただいた後に、各種機能が開放されます』

そこまで表示されると、画面下にデフォルメされたアセクトリカル・アロマティカの住民たちがひょっこり姿を現した。さまざまな姿をしている彼らが賑やかに机につく様が描かれた後、禁止事項についての説明が流れる。ちょうど映画館で作品を上映する前に、鑑賞のマナーについて説明するアニメのようなそれを、海月はドキドキしながら目で追った。

一つ。相手に対する攻撃的な言動は禁止。特に「アセクシャルorアロマンティックなんだから、そう考えるのはおかしい」等、自認している指向ごと相手を否定するようなことは言わないこと。
二つ。トークルームで知り得た情報を相手の了承なしにSNSに書き込んだり、現実で誰かに話したりしないこと。人のセクシャリティを許可なく第三者に話すことをアウティングと言い、アウティングされた側は精神的に非常に苦痛を伴うことが多く、場合によっては自殺に至ることさえあるため厳禁。
三つ。セクハラやモラハラは厳禁。特に相手のプライベートを詮索する行為、例えば相手から、現実での写真、SNSのアカウント、メール、電話番号、他通話アプリ等の連絡先、性体験や恋愛の経験を相手から無理やり聞き出そうとすることは厳禁。無理に話す、または送りつけることも同様に厳禁。上記のことがあった場合は運営にすぐ連絡すること、とある。
これはゲームから知り得た情報をもとに、SNS上や現実でのアウティングを防ぐ役割がひとつ。もうひとつは、プレイヤーを犯罪から守るための措置でもあるらしい。

『残念なことですが、現代には様々なネット上の犯罪があります。特にリベンジポルノやグルーミングなど、ネット上の性犯罪は未だ後を絶たない状態です。そしてこのような犯罪は、自分の性的欲求を満たすためではなく、金銭を得るために行われる場合もあります。
アセクトリカル・アロマティカは、プレイヤーの皆様に心から安心できる環境を作っていきたいと考えています。
このため、プレイヤー間のダイレクトメールでのやりとり同様、トークルームでは写真・動画、外部サイトのURLが掲示されないよう、掲示防止プログラムが組み込まれています。ですが、誰でも真に安心して話せる空間を作るには、皆様のモラルも必要不可欠です。どうかルールを守っての運用をお願いいたします』

そこまで読み、海月は肩から力が抜けるのを感じた。トークルームを使用するにしても、どうやら恐れていたことを言われる可能性は低そうだ。他の禁止事項にも目を通し、禁止事項を理解したの欄にチェックを入れると、和やかにケーキを食べる住民たちのアニメが流れる。それから少しすると、また新たな説明画面に切り替わった。

『ご理解いただき、ありがとうございます!ではここから、各種機能を開放させて頂きます』

空気が唸る重低音と共に、ディスプレイが二つに増える。新たに現れたディスプレイには、プロフィールという機能名がつけられていた。内容を見ると、ちょうど一枚の白い画像が表示されている。写真と名前と性的指向、そしていくつかの質問欄が表示されていた。だが記載したくないものや、答えたくないものについては、無理に記入しなくてもいいらしい。

『自分の中ではっきり決まっていないことや、話したくないことを無理に記入する必要はありません。プロフィール機能は他のプレイヤーとの交流を行う際に役立ちますが、まず第一に、自分の振り返りを行うために記載するものだからです』

海月は目を瞬かせた。何も回答していない画面を見つめながら、自らの胸にそっと手を置く。

(自分の、振り返り……)

現実で違和感を感じることは、今回に限らず何度かあった。けれど、その違和感を具体的な言葉にしたことはない。ひょっとしたら自分のこの感覚は気のせいかもしれないと、目を逸らし、耳を塞ぎ、出来る限り重い蓋をしてやり過ごしてきたから。けれどその蓋ももう壊れてしまった。押さえつけていたものが濁流になって溢れ出したからこそ、海月は今ここにいる。
意を決して、プロフィール画面に手を伸ばす。まず名前とアバターの写真を登録し、性的指向の欄と向き合う。アセクシャル、アロマンティックの他に、「かもしれない」という項目があった。悩んだ末に、アセクシャルとアロマンティック両方にチェックを入れ、「かもしれない」にもチェックをいれる。すぐ下にある備考欄の存在に一瞬ためらいが生じたが、今回はそこも記載することにした。

『かもしれないと思うのは、人と付き合った経験が一度しかないので、あまり自信が持てずにいるからです』

続けて、質問欄にも目を通す。
恋愛や性的な話に対してどう思うか、というのはすでにグラディアライトの色で表示されている。このため、質問は「スキンシップについてどう感じるか」や「どんな人と話してみたいか」から始まり、「人と話すのは緊張する方か」や「性的指向やグラディアライトで表示していること以外にも、人と話す上で予め知っておいてほしいことはあるか」等、コミュニケーションに関連したものが多かった。
瞬時に答えられるものもあれば、首を傾げながら「わからない」を選択したものもあった。それでもどうにか回答を終えていくと、最後にこんな質問が表示される。

『今、できるなら誰かに打ち明けたり、相談してみたいことはありますか?』

海月は目を見開いた。喉に詰まった息が、束の間全身の時を止める。頭に反響する友人の声を振り払おうとして、耳を傾けることをやめられない自分に気付く。眩い陽射しを追って鳴く、薄暮の蝉のように。
一拍置いて、呼吸を整える。それからゆっくりと指を動かした。

『本当は自分がおかしいだけではないのか、とても不安です』

解答欄にそう入力すると、プロフィールの真下に完成と書かれた画像が表示される。それに触れると、ディスプレイからクラッカーを鳴らすような音がした。

『おめでとうございます、これでプロフィールは完成しました。以降は話したいトークルームの抽出が可能となります!』

見れば、先程までプロフィールを表示していたディスプレイは、複数の住民が映った写真と思しきの画像が何枚かと、その紹介文らしきものを表示している。これは先ほど入力したプロフィールの回答をゲーム側が解析して、近しいと思われるトークルームを表示しているものらしい。

『入室したい部屋を検索して見つけたら、まず入室許可の申請を行いましょう。無事、部屋の管理人から許可が降りれば、あなたのルームキーに部屋番号が印字され、該当するトークルームが使用可能になります』

なるほどと思い、海月は抽出されたトークルームを一つ一つ見ていく。表示されている写真に触れれば、映っている住民たちのプロフィールも読むことも可能だった。そうして行ってみたいトークルームがあるかどうかをチェックし続けていると、ふとある部屋が目に留まった。
トークルーム031。そこの写真に映っている住民二人の名前と姿は、酷く見覚えがあるものだった。

「……この人達って、もしかして」

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