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アセクトリカル・アロマティカ 第3話

トークルームが使用可能になってから二日後。日曜日の午後三時、海月はルームキーを握りながら深呼吸をしていた。目の前には桜色の真珠めいた、滑らかな質感のドアがある。

「……よし」

これからのことを頭の中でイメージし、体の底に力を入れる。海月はドアのトークルームと印字された部分に、ルームキーを翳した。すると文字がほのかに発光し、流体の金属と化して形を崩す。その様に小さく感嘆の声をあげていると、崩れた文字は新しく文章を形成した。

『ID認証クリア!ようこそ、031号室へ!』

軽やかな歓迎の言葉は、夜空に尾を引く青い流星のように、一際明るい光を放つ。
良かった、部屋番号も時間も間違ってなかった。改めてそうほっとしていると、重い金属が風を切る音がして、瞬時にドアが上下に開く。その先に足を踏み入れると、宇宙船の内部めいた空間が広がっていた。外観からは予想もつかない様に目を丸くしていると、足元の転移装置から、涼しげな女性の声が響き渡る。

『ただいまより、031号室に転移します。しばらくお待ちください』

程なくして、視界がローディング画面に切り替わった。暗転した画面の右下に、デフォルメされた宇宙船が飛ぶアイコンが表示される。それを眺めながら、海月はうっすら汗をかいている手のひらを握りしめた。
いよいよだ。この画面が終了したら、ついに自分と同じような傾向の、他の人と話すのだ。こんなことになろうとは、木曜日には思ってもみなかった。色々なことを耳元で囁いてくる不安の影に、心臓が早鐘を打つのを感じる。正直すでに逃げ出したい。けれどここでログアウトしたら、本当にどこにも進めない。何より、そんなことをしたらあの二人に申し訳がない。そう自らに言い聞かせ、海月はもう一度呼吸を整えた。
ほどなくして、空気が低く唸る音と共に、右下の宇宙船が消える。次いで緩やかに明るくなった視界に、長身の人影が現れた。鋼鉄の黒いヒールが床に降り立ち、コツンと小さな音を立てる。

「こんにちは、海月さん」

穏やかな笑みを纏った声音で、水晶めいた青い瞳が細められる。海月は転移装置から一歩踏み出して、ミーに会釈をした。

「こんにちは、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします」

じゃあこちらに、と、ミーは体を翻して自分の背後のドアに触れた。黒い指先から青白い光が走り、先ほどと同じように認証完了の文字が表示される。やがて外に向かって開いたドアの先に、ミーは軽快に歩を進めた。海月も彼女の後に続く。その際にふと、足元から聞こえる音が変化したのを感じた。ちょうど大理石のホールから、木材の床に踏み出したような響きに、思わず顔を下に向ける。見れば、先程まで立っていたガラス質の黒い床は、アイボリーのフローリングめいたものに変わっていた。海月は目を瞬かせて、ゆっくり宙へ視線を宙に上げる。
麗らかな春の空をのんびり渡る、真白の雲めいた高い天井。薫風に伸びやかな、瑞々しい若葉色の壁。左右の壁には、人が二人は座れそうな巨大な丸窓が設えられていた。そこから差し込む自然光が、丸みを帯びた白いテーブルと、若葉色の二つのソファーを明るく照らしている。さながら、昼下がりのリビングのようだった。
意外だ。もっとSFっぽい空間かと思っていた。そう目を丸くしていると、ミーにソファーに座るよう促される。慌ててソファーに腰掛けると、ふわりと羽が舞いそうな音がした。柔らかな響きに少し緊張がほぐれたところで、背後からドアの開く音がする。

「こんにちは!」

朗らかな声と共に、オリカが姿を現す。そのままソファーまで近づき、ミーと軽く挨拶し合うと、彼女は海月に向き直った。萌葱色の瞳が、穏やかな光を湛えて海月を映す。

「海月さん、この間はいきなり声かけちゃってごめんなさい。しかもあたし、すんごい慌ててたし」
「いえ、全然。こちらこそ……その、すみませんでした。私あの時、自分がオフラインでやってるものだと思ってて……間違ってオンラインにしちゃってて」
「ああなるほど、そうだったんですね」

オリカは納得したようにそう言うと、腕を組んでうんうんと頷いた。

「あたしも前やっちゃったことあるからわかるなあ……しかもその時歌いながらここの模様替えしてたから、ミーさんが後ろに立ってた時は何が起きたのかわからなくて」
「あの時は私も何かと思ったよ、インした瞬間に超大音量の森のクマさんの熱唱が……」
「わー!そこまでは言わなくていい!言わなくていいから!」

可笑しそうに笑うミーの言葉を、オリカはぶんぶん腕を振って遮る。その光景につられて、海月も少し笑ってしまった。

「お二人は、ここの管理人さんだったんですね」

自然と言葉が転がり出る。写真から読み込めた2人のプロフィールから分かっていたが、トークルームの模様替えができるのは管理人、もしくは副管理人に限られるのだ。HPのルールを読んだ限りでは、管理人が何らかの理由でログイン出来なくなった場合や、様々なことが管理人の独断専行になりすぎないよう、副管理人も一部管理人の機能が使えるようにしてあるそうだ。模様替えもその一つらしい。
海月の言葉に、二人は一瞬顔を見合わせる。それからミーは穏やかに微笑み、オリカはにっこり笑った。

「ええ。改めてようこそ、トークルーム031へ」
「今日はよろしくお願いしますね!」

海月も二人に微笑み返す。そうしてオリカとミーがソファーに腰掛けると、ちょうどテーブル沿いに、海月を挟んで全員が直角に座っているような形になった。何となく一息ついた心地になったところで、オリカがホログラム式のコントロールパネルを宙に展開させる。

「よし、じゃあ今日はこれをどうぞ!」

オリカがパネル上の何かをなぞるような動きをすると、3人の前にティーカップが出現する。カップに満たされているのは、桜に似た白い蕾が浮かぶ、群青の液体だ。夜風に薄紅の芳香を乗せるように、蕾の周辺は淡いピンク色に染まっていた。春の宵闇を思わせる様に目を見張っていると、オリカがにこやかに告げる。

「コルギアクスのフラワーティーです!」
「ありがと、オリカ」

ミーがティーカップを手に取り、優雅に口元に運ぶ。いえいえとオリカがミーに返す中、海月は水面にさざめく白い蕾を、じっと見つめていた。

「……綺麗」

思わずそうこぼすと、オリカの三角形の白い耳がピンと立つ。

「ありがとうございます、海月さんもそう言ってくれて嬉しい!」

オリカの尻尾は今座っているから見えないが、もし見えていたら全力で左右に振られているのではないか。そんな感じで嬉しさの弾む彼女の声に釣られて、海月の心も自然と軽くなる。改めて礼を言ってから、海月はティーカップに手を伸ばした。すると先にフラワーティーを飲んでいたオリカが、ぺろりと自分の口元を舐めて言う。

「うーん、風味豊かなカモミールの味!」

海月は不思議に思って首を傾げる。その様子を見たミーが、ティーカップを持ったまま言った。

「私とオリカの場合ですけど。こういうの、現実のそれっぽい飲み物か、普通に自分が好きな飲み物と合わせて飲むと、何となく特別で美味しい気がするんですよ」

ちなみに私はコーヒー味です、とミーは少しティーカップを傾けるそぶりをして微笑む。なるほどと海月が再度ティーカップに視線を落とすと、ミーは柔らかく言葉を続けた。

「もし海月さんも現実で何か飲みたいものがあったら、遠慮なく取りに行ってもらって大丈夫ですよ」
「あ、ありがとうございます。手元にあるから大丈夫です」

緊張したときに備えて、あらかじめ用意していた現実のカップに手を伸ばす。海月が口に運んだフラワーティーは、まろやかな蜂蜜とレモンの味がした。そう言えば、最近はこんな風にお茶をゆっくり飲んだりしてなかったな、と振り返ってみて思う。

「……美味しいですね」
「何味にしたんです?」
「えっと、レモンティーです」
「レモンティー美味しいですよねー!あたし蜂蜜入れたりすることもあるんですけど、海月さんはどうですか?」

萌葱色の目をキラキラさせながら聞いてくるオリカに、海月はぽつりぽつりと言葉を返す。ミーは青い目を細めながら、その様を見守っていた。
そこからは、3人で色々な話をした。好きな動物や好きな場所、旅行に行った時の話や、趣味の話。時々笑い声の混じるささやかな雑談は、真昼の海辺を散策しながら、煌めく貝殻を拾い集めるような穏やかさがあった。
読書が好きなことを話しても、ミーとオリカは『本ばっか読んでないで恋愛したら?』とは言わない。猫が好きなことを話しても『猫にモテてればいいわけ?』と冷ややかさを含んだ眼差しを向けてこない。純粋にどんな本が好きなのか聞いてくれたり、猫の可愛い仕草について話をしたりした。
いつもなら、他人からの視線や言葉を気にして、出来るだけ恋愛や性から遠そうな話題を自分の中で検索して、口からその話題を出力している。それでも軍靴が路傍の花を踏むように、どうにか検索した話題はあっけなくそちらの話題に折られてしまうことが多い。それが全くないことが、とても嬉しかった。自分の話したいことを素直な気持ちで口に出来るのが、言葉を話すということなのかもしれないと、ふと思う。

「……現実でもこうだったらいいのに」

ミーの好きな映画の話で盛り上がっていた時、海月はついそう零してしまった。不思議そうに瞬きをしたミーときょとんとしたオリカに、慌てて説明する。

「ごめんなさい、こう、何か話してても急に恋愛話に繋げられたりとか、そういうのがないから……肩の力が抜けて……ほっとして」

ああ、とミーが納得したように呟く。

「ありますね、そういうの。普通に道を歩いてたのに、いきなり死角から槍で突かれた気分になる」

僅かに翳った声音でそう言って、ミーはティーカップをテーブルの上に置いた。群青の水面に小さく波紋が広がり、白い蕾が陽射しに揺れる。それを一瞥したミーは、海月の顔を見つめた。あくまでも穏やかに、だが手折られた花から決して目を逸らさない声音で言葉を綴る。

「海月さん。今のタイミングで、触れられるのが嫌だったらごめんなさい。プロフィールの相談してみたいことの欄に、自分がおかしいだけではないか不安だと、そう書かれていましたね」

心臓が跳ねるのを感じた。反動で体がこわばり、現実のマグカップを持つ手に力が入る。そんな海月の様子を見つめながら、ミーは雪路に落ちる直前の紅椿をそっと拾いあげるように、言葉を続ける。

「答えたくなければ、答えなくて大丈夫です。もしかして、現実でそう思うようなことがありましたか?」

マグカップの取っ手を握る力が強くなる。海月はとっさに言葉を返そうとして、声を出すことが出来なかった。酸素を求める魚のように口を二、三度動かした後、青い瞳から群青の水面に視線を落とす。花の蕾に縁取られた自分の顔が、強張った表情でこちらを見ていた。少し逡巡したのちに、海月は意を決して口を開く。

「……はい。実は、そうなんです」

どうにか喉の奥から絞り出した声は、少し震えていたかもしれない。そんな海月の肩に、柔らかく触れるものがあった。見ればオリカが、夕暮れを彷徨う迷子に寄り添うように、肩に手を添えていた。

「良かったら、お話聞きますよ」

微笑みかける萌葱色の瞳に、海月は銀の瞳を見開く。小さく息を呑んだ音が聞こえただろうか、ミーも雲間から射す一筋の光を架けるように、静かに言葉を紡いだ。

「トークルームは、そのためのものですからね」

二人の声に、胸が詰まる。天使の梯子が、自分の踏みしめる流氷の上に降りてきた気がした。海底ではなく晴天へ続く眩い光に、海月の唇から掠れた声が溢れる。

「あ……」

雪解け水のように溶け始めた流氷の欠片が、瞳から落ちてしまわないように、海月は一度強く目蓋を閉ざした。初対面の時のように、二人を困らせたくなくて。こちらに向けられた二人の優しさを、視界に滲んだものにしたくなくて。海月は少し間を置いてから、目を開ける。

「ありがとう、ございます……」

どうにか震えずに済んだ声でそう言って、ふと気が付く。
ミーとオリカのグラディアライトは、同じ色をしていた。上の輪は黄色。このゲームに於いては「自分と他人との恋愛に興味はないし望まないが、他人の恋愛話について聞くのは苦ではない」色だ。下の輪は青色。「自分と他人との性的接触は興味がないし望まない、性的な話は他人のものでも基本的に苦手」だ。つまり、自分の恋愛の話を二人にしてもOKだが、性的な話は基本的に避けた方がいい、ということになる。

「その……ちょっとだけ性的な話が混ざるんですけど。お二人は、そういう話はあまり……」

恐る恐るそう尋ねると、ミーとオリカは軽やかに言葉を返した。

「物凄く詳細な情報でなければ、まあ大丈夫ですよ。今日は体調も悪くないし」
「あたしも!もしちょっとキツいかも、と思うところがあったらその時は言わせてもらうかもしれませんけど、とりあえずは大丈夫です」

二人の変わらない様子にほっとする。海月は現実のマグカップを、サイドテーブルにそっと置いた。

「わかりました、ありがとうございます」

コントローラーをはめた手を下に降ろす。するとアセクトリカル・アロマティカのティーカップもテーブルに置かれ、澄んだ硬質な音を立てた。
二人に見守られながら、海月は海底に潜る前のように、深く呼吸する。

「……私。付き合ったことが、あるんです」

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