アセクトリカル・アロマティカ 第0話
小さい頃から、世界の一点だけが色付いていないようだった。
例えば、映画のキスシーン。そういう場面では雲間から降りる天使の梯子が二人の姿を照らしたり、朝露に晴天を弾く瑞々しい薔薇の蕾が、鮮やかな真紅に開いたりする。けれど、香にとってはそれまで輝いていた物語に、鈍色の雲が垂れ込めるような気がしていた。二人が幸せになって良かったな、と思う反面、ああやっぱりここでもそうなるんだ、という僅かな落胆が、ため息となって唇から漏れ出るような。誰も知らない香だけの雨が、万雷の喝采の代わりに、セピア色の波紋を銀幕へ広げていくようだった。
でも世界ではそういうのが普通。そういうのが普通で、ハッピーエンドへの階で、運命の二人には必要不可欠なもの。だからこそ、今これが香の膝の上にある。
「どうしてかな」
ピンクに白のハートが散りばめられた、可愛らしい紙袋を見つめながら呟く。西陽が射す電車内は、香以外誰もいない。最早用無しになってしまった紙袋の中身をどうすべきか考えながら揺られていると、まるで当てもなく黄昏の海を彷徨う小舟に乗っている気分になる。
橙色の光がちらつく中、香は最寄駅に着くのを待った。今日のニュースが電子広告の音声を借りて、水平線からの残響めいて車内に響いていく。
2035年。延平(えんぺい)15年2月14日。独立社会支援ネットワークの新たなる可能性。性の多様性に関する講演の開催。同性婚は5年以内に実現することが決定。
『そんなのおかしいよ、人間なんだから誰かを好きにならないはずないって』
耳元に降り積もる日常の切れ端たちは、払ったはずの影に結びついて、灰色の糸を心に絡める。それは新たについた傷に赤く滲んで、両足をもつれさせる運命の枷となる。無言で俯いた拍子に、紙袋に添えた手に力がこもり、綺麗なハート模様に皺が寄った。雨は人の涙に喩えられることが多いけど、もし人の持つ何かを雪に例えるなら、それは一体なんだろう。手の内で歪んだ白い心に、ふとそんなことを思う。
結局紙袋を捨てることもできないまま、香は家路を辿った。そうして我が家のドアの前に立ち、深呼吸を一つする。いつも通りの笑顔を浮かべて、よし、と心の中で呟いてからロック解除の指紋認証パネルに触れた途端、がちゃりとドアが開いた。流れるようなタイミングに香が目を丸くしていると、ドアの隙間から聞き慣れた声がした。
「おかえり」
椿を照らす冬の陽だまりに似たその声は、穏やかな微笑を帯びている。香は顔を出した友人へ朗らかに言った。
「ただいま、満さん」
「バイト最終日お疲れ様、寒かったでしょ。早く入りな」
キィ、と軋んだ音を立ててドアの隙間が更に広がる。彼女に礼を言ってから、香は玄関に入った。だが靴を脱いだところで、満の視線が紙袋に向いていることに気付く。本来ならここに持ち帰られるはずがないそれを捉えた瞳は、僅かな不審の色を浮かべて香を映した。
「どしたの、何かあった?」
「ああ、いや、それがさあ……」
薄雲に翳った満の声音に、上手く笑顔が保てなくなるのを自覚する。きっと今の自分は苦笑いのような顔になっているだろうな、とどこか冷静に思いつつ、香は鉛のような鈍色を放つ事実を、どうにか舌先に手繰り寄せた。
「告白、されたんだよね」
香の言葉に、切れ長の黒い目が一瞬見開かれる。だが満はすぐさま表情を元に戻すと、静かに香に問いかけた。
「……そんで?」
「断った」
重石を吐き出すようにそう答えると、肺から一気に空気が抜けたような気がした。同時に体からも力が抜けそうになって、慌てて足に力を込める。そんな様子を見た満は、無言で香をリビングへと促した。若干よろめきそうになりながらも椅子に腰掛けると、少ししてから目の前にマグカップが差し出される。甘く暖かな牛乳と蜂蜜の入り混ざった匂いに思わず泣きそうになりながら、香は満を見つめた。
「うう、ごめん……ありがと」
「いいよ別に、私もちょうど飲みたかったしさ。で?」
隣に座った満に小さく頷いてから、香はホットミルクを一口飲む。じんわりと体中に広がった温もりに、ようやく凍りついていた心がほぐれたような気がした。溶け始めた氷柱から滴り落ちる雫のように、喉につかえていた言葉がゆっくりと溢れていく。
「……他の子に渡したみたいに、餞別渡そうと思ったら呼び出されてさ。正直ちょっと嫌な予感はしたんだけど、でも結構仲良かったし、まあ友達として何か話したいことがあるのかもしれないし……と思い直して行ったら、その……あれで」
夕暮れに染まる白い壁。電柱の上で鳴いているカラス。目の前に佇む人影。蘇ってくる光景に乳白色の水面が揺らいで、苦虫を噛み潰したような自分の顔が薄く映る。
「『ごめん、あたしにはできない。あたしは恋愛的に誰かを好きにはならないし、キスとかセックスとか誰であろうとしたくないし、時間が経てばできるようになるものでもない。付き合うって、つまりそういうことをしたいんだよね?』ってはっきり言ったの。そしたらさあ……」
追憶に揺れる橙色の光が脳裏で歪む。捻れた黄昏の欠片は肌を焼く火花と化して、過去をなぞる声に怒りを燻らせる。
「『でも恋愛物の漫画読んでたし、こういう関係好きだなって言ってたじゃん。付き合ったら出来るよ。人を好きにならないなんて気の迷いだって』って言うの。もうなんか、その瞬間に頭を殴られたようなっていうの?信じらんない気分になってさ……他人と他人の関係性をいいなと思うのと、自分が他人と恋愛してそういうことしたいかって全然違う話じゃん。それに何であたしが思ってることを、気の迷いとかあんたに決めつけられなきゃいけないのって」
香は長く息を吐いた。知らず知らずのうちに固く握りしめていた両手を解く。
「そんなんじゃないのに、ってやっぱすごく思って……気付いたら、あれ渡さないまま電車に乗っちゃったんだよね」
「……そっか、お疲れ」
静かな満の声が、火傷を冷やす雪解け水のように心へ沁みる。香は何とか口元に笑みを運んだ。
「聞いてくれてありがと。ごめんね、せっかく今日打ち上げしてくれようとしてたのに。しかもあれ、一緒に選んでくれたのに」
「いいって、他の人には渡せたんでしょ?なら別に無駄じゃなかったわけだし……」
満は一度言葉を切った。彼女は香の顔を見た後、何かを思案するように宙に視線を巡らす。そうしてやや間を置いた後、不思議そうに目を瞬かせている香へ、ぼそりと言葉を投げかけた。
「……あー、じゃあさ。そういやそもそもあれ、香が好きなお店の菓子だったよね?香さえ嫌じゃなきゃ、今一緒に食べない?」
「えっ、い、いいの?」
「正直あたしもあれ食べてみたかったから、むしろそっちの方がいい」
ぽかんとした香にそう返してから、満は自分のマグカップを掴む。どことなくぎこちない様子でホットミルクを飲みながら、ちらりとこちらを見やる満に、香は先ほどまでとは違う理由で泣き出しそうになった。
「満さん、ありがと〜!満さんはあたしの最高の友達だよぉ〜!」
満は一瞬目を丸くする。だが今にもハグをしそうな勢いの香に、仕方なさそうに笑って言った。
「はいはい、あんたも私の最高の友達だよ」
※
ホットミルクは紅茶に代わり、皿に乗せられた焼き菓子を芳しい琥珀色に彩る。黄昏に細波打つ窓が、ガラスの端へ群青に瞬く星々を昇らせる頃には、月が夜空を巡るように他愛のない会話は話題を一周していた。香はマグカップを机に置くと、盛大にため息をついて背もたれに寄りかかる。
「あーあ、もうほんっとAセクとAロマの国に住みたいなー!性的接触がどうだとか恋愛しないと人としておかしいとか、そういうのから解放されて、のんびり楽しく平和に生きたいなー!」
「ま、ここ10年くらいで色んな指向や性自認があることへの理解は進んだと思うけど、未だにAセクとかAロマについては知らない人も多いしね。教科書にもパンフレットにも載ってないし」
「そうなんだよねえ」
ティースプーンでゆったりと生姜と紅茶をかき混ぜながら静かに言う満に、香は白い天井を見つめながら呟く。そう、大体教科書やらパンフレットやらを開けば、目に飛び込んでくるのは「あなたは誰が好き?」だ。誰のことも恋愛的に好きではない可能性なんて1ミリも気に留めちゃいないんだな、と落ち込んでいた中学生の頃を思い出す。
そういえば、アセクシャルやアロマンティック、そういう言葉を知らなかったあの頃も、いっそどこか遠くに行ってしまいたくなったものだ。今座っている教室の席じゃなければ、ここではないどこかなら、自分を押し殺さずに生きていける場所があるんじゃないか、なんて思って。だけれど、どこに踏み出してもたちまち行き止まりに当たるような感覚に、いつも最終的には俯くしかなくて。
そういう意味では、今とあの頃であまり変わらないのかもしれない。
夢想に揺らめく郷愁の糸は、人の記憶を心に綴じはしても、褪せぬ感情を声へ解いてしまうものらしい。気付けばつい言葉が口をついて出てしまっていた。
「ねえ、満さんさあ」
「ん、何?」
「満さんはさ、もし本当にAセクとAロマの国に住むとしたらさあ、どういう感じがいい?」
少し間をおいて訪れた沈黙に、香は白い天井に向けていた視線を満に向ける。あ、まずい、つい聞いちゃったけどもしかして聞かれたく無い話題だっただろうか。部屋の白い電灯に照らされながら全く動かない満の横顔に、香は内心どきりとする。だがそんな彼女の心情に反して、友人は金の波紋を広げている紅茶を見つめながらさらりと言った。
「そうだなあ。まずテレビとかネットの広告に、出会い系のCMが流れない。あといきなり恋愛物のキスシーンとか押し倒してるシーンとか、それこそ18禁の漫画の広告もね。ただし見る人によっては、一旦表示できるか否か選択の自由はある。香は?」
「え、あたし?」
思わず問い返すと、満はこちらを見つめて頷いた。いつのまにか彼女がティースプーンをソーサーの上に置いているのに気付き、香は何となく姿勢を正す。それから流星にかける願いを数えるように、左手の指を折りながら言葉を続けた。
「うーん、そうだなあ……性的な話題と恋愛の話題を出していい場所は限られる、とかかな。もしくは下ネタも聞きたくない人から、自分が関わらないならとりあえずオッケー、みたいな人もいるだろうから、そういうスタンスによって色んな意思表示が出来るタグを付けるとか。何かのマークみたいな感じで」
「なるほど」
「あとは……あれかな、逆に『AセクかAロマだからこうに決まってる』とか押し付けられないことかな。きっとみんな、同じ指向でも抱えてるものは違うだろうし」
「うん、確かにそれもすごい大事」
「ありがと!それとー、まあAセクだったりAロマだからこそある悩みを話せる場所が、色んなところにあったりすると心強いかな。そんで普通に趣味のこととか気兼ねなく話せたら嬉しいかも」
「いいね。そんなら私は週休3日で労働時間は1日4時間で、月一映画見放題がいいな。キャラメルポップコーン山盛りで」
「あはは、それ滅茶苦茶いいじゃん」
「でしょ?そんでさ」
満は穏やかに笑ったまま言葉を続けた。首にかけられたカモメのネックレスが窓辺の光を反射して、黒い瞳に星を煌めかせる。
「もうさ、マジに作っちゃわない?」
「え?」
指を三本まで折った状態のまま、香はぽかんとした。
「作るって……AセクとAロマの国を?」
「うん、まあそんな感じかな」
再び問えば、さらりとそう返される。今までの付き合いで知っている、こういう時の満は冗談を言っていない。
「つまりはその、そういうお店とか……マンションとか、シェアハウスってこと?」
「それもすごい魅力的だよね。でも残念だけど、今すぐには難しい。お金的な意味でもね」
両手で四角い建物のジェスチャーをしながら問う香に、満はにっこり笑いかける。
「そもそも生身の体で会おうとすんの、ハードル高い人もいると思うんだよね。知らない人と会うのって緊張すんじゃん?だからさ、AセクとAロマ限定の、ネトゲみたいなシュミレーションゲームを試しに作れないかなと思って」
香は目を見開いた。颯爽と水平線の彼方を舞うカモメが、満の瞳に力強く羽ばたく。
「香が言ってくれたようなこと、私もそうだったらいいなと思ってたから、聞けてすごく嬉しかったよ。一緒に全部実現してみない?」
息を呑む声とともに、願いを数えていた左手が、流星を掴んだのに似て開かれる。行き止まりだとばかり思っていた壁の先に、晴天に輝く海原が一気に拓ける。水面の煌めきを眼差しに宿して、香は声を弾ませた。
「すっごい良いじゃん!やるやる!」
輝きを振り撒くように、香は満にハイタッチしようと手を伸ばしかける。だが、すでに差し出されていた満の手のひらに触れる前に、香は不意にあることを思い出して手を止めた。
「あ、でもあたしプログラミングとか全然わかんないんだけど大丈夫かな」
「そんな時のためのこれよ」
不敵にそう笑うと、満はポケットから携帯を取り出す。金属質な駆動音が鳴り響き、画面に青いハートマークが映し出される。次いで女性を模した人工音声がリビングに響き渡った。
『こんばんは、あなたの生活に愛を。ご用件をお聞かせ下さい』
「え、それ、メイクラブ?」
メイクラブ。かつては人工知能と呼ばれていた独立社会支援ネットワークの中でも、創作行為の補助に特化したものだ。主にイラストや小説の補助に使用されることが多いらしいとは聞いていたのだが、現物を見るのは初めてだった。まじまじと携帯の画面を見つめる香に満は頷くと、洗濯物を取り込むような気軽さで言った。
「ヘイラブ、昨日からの続きやっといて」
『承知しました』
青いホログラムで出来たインターフェースが、携帯の画面から9つ展開される。謎の山岳状の図形や円柱状のグラフ、よく分からないアルファベットが羅列された画面が表示されているのに、感嘆のため息が漏れる。
「うわあゲームも作れるってマジだったんだ……イラストとか小説だけじゃないんだね」
「便利だよね。文明の力に感謝だわ」
満は満足気に頷くと、言葉を続けた。
「ま、そういうわけで、ゲームがちゃんと動くかとかバグのチェックとかは全部メイクラブがやってくれるからさ。私達がやるのは、ゲームの世界観を細かく決めたりとかそういうのだから、そこらへんは安心して」
「オッケーわかった!」
朗らかに返事をする香に、満は柔らかく微笑みかけた。
「よろしくね、香」
「うん!」
今度こそ軽快なハイタッチの音がリビングに響く。二人は笑い合うと、互いに顔を見合わせた。
「そしたらさ、とりあえずタイトルどうする?」
「そうだなあ、そうしたら……」
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