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アセクトリカル・アロマティカ 第4話

※今回は望まないキスをした言及、そしてそれにショックをうけた際の心理描写が入ります。
また、アセクシャルやアロマンティックであることに対しての差別や偏見の描写が、今回は多く含まれます。
読まれる方によっては辛い経験を思い出し、非常に苦しい思いをされる可能性があるかと思われます。
大丈夫な方はこのままお進み下さい。大丈夫ではないけれど、本文に目を通されたい方は心が落ち着ける場所でお読みいただけますと幸いです。
なお、「辛い部分を本当に具体的には読みたくないけど、続きは読みたい」方がいらっしゃる場合もあるかと思います。そのため話の流れがわかるよう、次回更新分の冒頭に今回の話の簡単な概要(差別の描写や心理描写を含まないもの)を載せる予定です。

【続きは以下からになります】




群青の水面で、白い蕾が揺らめく。波間を漂う海の花めいたそれを見つめながら、海月は紺青の追憶へと身を沈めていく。

「私、もともと小さいころから、恋愛とか……その、性的なことにも興味が持てなくて」

路傍の花に弾けては消える、小雨のような自分の声が、海面に昇っていく水泡と化して耳を掠める。蘇ってくる幼い日の残響が描き出すのは、均等に並べられた教室の机。そして、休み時間に沸き起こる黄色い悲鳴から顔を逸らして、本のページをめくる自分の姿だった。

「何でみんな、クラスで誰かと誰かが付き合ったらしいとか、そうでなくても誰かが誰かのこと好きなんだってとか、キスしたらしいとかで盛り上がったりするのか全然わかんなかった。やきもち焼くとか、そういうのもあんまり理解できなくて。嫌いでたまらないというより、興味がひたすら持てない……みたいな。映画とか漫画でそういう恋愛のシーンを見ても、特に『ふーん』以外のこと、何も思わないし」

海月は膝の上に視線を落とす。

「それこそ本当に、違う星の話を聞いてる気がするんです。私にとっては、この地球が……現実が、異世界みたいに思えるというか」

だが、現実は異世界などではなく、違和感を抱えながら生きる現実、というものでしかない。
次第に文字に目を走らせることは、クラスメイトの『ねえ好きな人いないの?』という言葉によって許されなくなっていった。小学生のうちは、唐突な宇宙人との遭遇めいた質問に戸惑いながら『いない』と言っても素直に納得されていた。だが中学生になってから『いない』と言っても『えー本当に?』とか『いないことないでしょ、教えてよ』と笑いながら聞かれることが増えた。本を開いたまま席から立ずにいる自分の真上に、決して退かない影が落ちてくる。その黒々とした重さにじっとりと汗をかきつつ、海月は曖昧に笑うことしかできなかった。そうして答えを一つ誤魔化すたびに、違和感が自分の陰で膨れ上がるのを感じながら。

「でも、何がそんなに、自分とみんなで違うのかが……ちゃんと言葉にできなくて。だんだん恋愛の話じゃない時も、また私の恋愛について聞かれるんじゃないかとドキドキするようになって。一人でいる時に、『恋愛 わからない』とか、端末で検索したこともあったけど……出てきたの、『恋愛しない人間はおかしい、人として問題がある』とか、『そんな人間いるはずがない』とか、『恋愛しなかった人間の末路』とか……『運命の相手に出会ってないだけ』とか、そんなのばっかりで」

深夜の液晶画面に表示された結果は、本と同じようにめくることが出来なかった。硬直した視線の先で明滅する言葉たちは、ただただ教室と地続きの現実として心を刺した。心を刺す以外、何も海月にもたらさなかった。
膝の上で握りしめた両手が、微かに震える。

「ショック、でした。傷ついた……とも思います。ただそうやって、傷ついた中で唯一希望を持てそうな言葉が『運命の相手に出会ってないだけ』で。『そうなのかな、じゃあいつか私もみんなみたいに運命の人に出会うのかな』って……思って、でもやっぱりわかんなくて」

逃げるように中学を卒業しても、恋愛に纏わる違和感は消えなかった。むしろ陰に潜んでいたはずのそれは、風に瞬く蝶のように日常の端々で姿を見せるようになった。
それは『えー好きな人いないの?マジ?誰か紹介しよっか?』と笑いながら言われた時や、教室に入ろうとした時に『あの子理想高いんじゃない?』という言葉が聞こえ、扉の前で一瞬立ち竦んだ時。そうでなくても、『ふーん、まあでもあなたはいい子だし、きっと大丈夫だよ』と穏やかに言われた時に、その存在を強く感じた。
鉛の翅を持つ蝶が、もし幾多も肩に留まったなら、こんな風かもしれないと思いながら。

「……そんな時、塾で告白されました」

細く続けた声は、小雨の雫に紫陽花の花弁を翻す。
あの日は急に雨が降って、傘を忘れたあの子に自分の傘に入って貰いながら、いつも通り一緒に帰った。ピンク色や淡い水色、マリンブルーにも見える紫陽花が綺麗だと話しながら歩いていたら、あの子との間に一瞬の沈黙が舞い降りた。
どうしたのだろうとあの子の顔をみれば、酷く真剣な顔で言われたのだ。
『好きです、付き合って下さい』と。
雷鳴に似たその響きは、後から思えば自分の輪郭から魂の軸をずらされてしまったような衝撃だった。花が蕾を開くような嬉しさもなく、ただ動揺の黒雨だけが心を穿つ。
そんな中、反射的に強く握りしめた傘の柄の感触だけが、奇妙に現実感があったのを覚えている。

「相手のことはすごく、友達として大好きでした。恋愛に関する話はしてなかったけど……好きな映画の話とか、それ以外の悩みの話とか何でもできて。でも親友だと思ってたから……その、すごくびっくりして。どうしたらいいのかわかんなくなって悩んだし、学校の友達にも相談したんですけど……」
「……けど?」
「『嫌いじゃないんでしょ?じゃあとりあえず付き合ってみればいいじゃん。後から好きになってくるかもよ』って。それで……そっか、そういうものなのかな、と思いました。それで『実は恋愛のことよくわかんないし、恋愛的な好きもピンとこないんだけど、それでもいい?』って打ち明けて、恋人として付き合うことになって」

海月は瞼を強く閉ざした。

「でも」

自分の返事に輝く湖面のような笑顔を浮かべたあの子の面影が、瞼の裏で揺れる。砕けたガラスにも似たその光に、声が喉の奥に詰まるのを感じた。

「……でも、実際に恋人になってみても……付き合うって、よくわかんなかった……」

唇の端が震える。声音の内で止まぬ雨は赤く染まり、千切れた糸の残骸のように言葉の上へと降り注ぐ。

「今まで通り、一緒に休憩中にお茶飲んだり、塾から帰ったり、日曜に遊びに行くくらいでちょうど良くて。手を繋いだりとか……抱きしめたりとか……やってもなんかこう、『無』って感じで、特にそれで楽しかったり、しなくて。でもあの子は……そういう時、すごく幸せそうで。『ごめん私は楽しくない』って言ったら、すごく傷つくんじゃないかって……思って……」

付き合ったら、もっと漫画みたいにキラキラした光が見えるのかと思っていた。相手と手を繋いだり抱きしめあったりしたら、幸せを感じるのかと思っていた。けれど、違う。もしあの時、そういうスキンシップを取る以外に、いつも通り好きなものについて語り合ったり、カフェで好きなお菓子を一緒に食べたり、そういう選択肢があれば迷わずそちらを選んだだろうと思うくらい、ああいうことは自分の輪郭に全く当てはまらなかった。
それは噛み合うことのないパズルのピースを、縁が曲がってでも無理やり繋ぎ合わせようとするのに似ていたかもしれない。
一度、悩みに悩んで『恋人からのスキンシップを傷つけずに断る方法』をネットで検索したこともある。今度はいくつか方法が出てきてほっとしたが『まあやりたくない時があるのもわかるけど、基本は受け入れるべきだよね。だってそれが愛じゃん?』や『拒否するなんて可哀想、私なら耐えられない。発狂するかも』などのコメントが出てきた。調べた方法よりも見えない群衆の言葉が心に深く突き刺さり、しばらくその場に立ち尽くすことしか出来なかったのを覚えている。
発狂という二文字が、頭の中で延々と反響するのを感じていた、あの瞬間も。

「スキンシップを拒否されるのって、そういう、気が狂ってしまうのと同じくらい辛いんだと思いました。だから……何も言わないようにしようと思ったんです。死ぬほど嫌ではないし、その時は『耐えられはする』と思ったし……それが、恋人の義務、なんだなって思ったし、あの子は……それ以前に、友達だったから」

それからはなるべく自分も嬉しそうに見えるように振る舞った。手を握られたら握り返し、ハグをされたらハグをし返した。それが自分の義務であり、責任だと思ったから。
あるいは、いつかこうして同じものを返し続けていたら、自分もある日そうしたくなるかもしれないという、一縷の希望もあったかもしれない。
けれどやはり、スキンシップを返すたびに込み上げてくるのは、漠然とした違和感と小さな不快感だった。それでも前よりあの子が嬉しそうなので、どうにか無理やり笑顔を作っていた。
『これでいいはずなんだ』と、自分に言い聞かせながら。

「それで……その……付き合ってから、2ヶ月くらい経った時、映画館の帰りに……」

海月は一度言葉を切る。続きを口にしようとすると、全身が軋むような気がした。それでも何とか口を開き、喉の奥から声を絞り出す。

「キス……されたんです」

肩に留まった鉛の翅は、紅涙の雫を受けて重みを増す。
あの日のあの子は、思ってみれば普段と様子が違っていた。ライトアップされているロマンチックな道を、普段より密着した距離で歩きたがったり。付き合い出してからも映画を観ている時は手を繋いだりしなかったのに、暗闇の中でそっと手を重ねて来たり。そうして戸惑いながらもあの子と1日過ごし、気付いたら人気のない道まで来ていた。
そしてあれが起こったのだ。
握りしめた手のひらに、爪が食い込む。

「……頭が真っ白になりました。何が起きたのか、自分が今何をしてるのかがわからなくなって……頭がぐちゃぐちゃになって……その時、違和感で頭がいっぱいになったんです。『違う、嫌だ。これは私じゃない』って」

万力で無理やりこめかみを締め上げられている。あるいは、頭を無理やり掴まれて土下座させられているような感覚。自分の輪郭が自分ではないものの手によってぐしゃぐしゃに歪められていく中、あの時の自分はひたすら呆然とした。
分かってる、あの子がそんなつもりじゃなかったのは。でも、でも。

「……その時にはっきり分かったんです。こんなこともうしたくない、って。キスだけじゃなくて、恋人同士がするようなスキンシップも全部、本当は全部したくなかった。人間的に大好きな相手なら耐えられると思ってたけど、私は……そもそも、やりたいじゃなくて耐えられると思ってた時点で、違ってたんだって。何も……何も、大丈夫なんかじゃなかったって」

歪んだパズルのピースは、描かれるはずだった絵を完成させないまま、降り注ぐ雨に濡れているだけだった。肩に留まった鉛の翅は、紅涙の雫を垂らして重さを増す。

「その時はなんていうか、ショックで体が凍ったみたいになっちゃってて……あの子もなんかおかしいと思ったのか、どうしたのか聞いて来たんです。それで……それで、全部話したんです。『ごめん、やっぱり恋愛のことが分からない』って」

鉛の翅から錆びて砕けた鎖の欠片を散らすように、言葉が唇から溢れていく。
ぼやける世界の中で、見開かれたあの子の瞳だけが、鮮明に映し出される。

「……あの子は全部聞いてくれました。途中で怒ったり、話を遮ったりもしなかった。でも、一通り話した後に……嘘だったのかって、ぽろっと言われました」

光を喪失したその声色に、空になった胸を突かれる思いがした。その後すぐに『ごめん、そういうつもりじゃなかったんだよね。傷つけないようにしようと思ってたから……今まで、付き合ってくれてただけなんだよね』と続いたあの子の声は、震えていた。
今の恋人という関係だけではない。今までの友情にまでも深い傷がついたのだと……あの子を傷つけたのだと、その時に悟った。

「……それで、あの子とは別れました。最後に『恋愛が分からないって言ってたけど、付き合ったら分かってくれるかもと思ってしまった』って。『ごめんね、自分じゃダメだったんだよね。早く運命の人が見つかったらいいね』って優しく、そう言われて……『違う、相手が誰でも恋愛はわからないし、したくなくて』って言ったけど『ありがとう大丈夫、そんな風に慰めてくれなくていいよ』って……」

泣き出す寸前のような笑顔で身を翻したあの子は、数日後に塾を辞めてしまった。そして『今までありがとう、さよなら』とメッセージだけを残されたトークアプリはブロックされた。
枯れた紫陽花の道に、1人分の足音だけが響く。そんな夜に俯く中、毟られた蝶の翅が暗渠へと落ちるように、思考は影に澱んでは揺らいでいった。

「……後悔しました。どうしたらこんなことにならなかったのかって。最初に告白を断っておけばよかったのか、本当はスキンシップをしたくないことを正直に言えばよかったのか、もしかしたら……付き合うってどういうことがしたいのか、もっと話し合うべきだったのか……全部、だったのか。もう何も……今更確認なんて、できないけど」

もしも。ああしていれば。こうだったら。違う選択肢に蝶が瞬く様を考えれば考えるほど、心臓が内側から焼けつくような気がした。何をどう自問自答しても、目の前に転がっているのは、無数に積み重ねられている鉛の翅の残骸でしかない。現実で二度と既読のつかないトークアプリを何度眺めても、それは同じことだった。
そうしてきつく歯を噛み締めながら、顔を枕に埋めて声を殺す。いっそこのまま窒息してしまえればいいと思いながら、辿り着くのはいつも同じ考えだった。

何故自分は、みんなと同じように恋愛や性的なことができないのだろうか。大好きな、大好きだった相手とさえ、あんなにもできなかったのだろうか。

「……学校の友達にも、相談したんです。恋人と別れたことと、そういうのをしたくないことを。そしたら『運命の相手じゃないから嫌だっただけ』とか、『恋愛にトラウマでもあるんじゃないの、カウンセリング行けば』とか……色々言われて。だんだん言葉が強くなっていって」

海月は握りしめていた手を解き、両目を覆う。整然と並べられた机の前から向けられる、あの侮蔑を含んだ眼差しは、朝も夜も記憶の向こうからこちらを見つめている。

「……この間は……『恋愛をしたくないなんて自分のことを決めつけるな、諦めてるだけ』って言われて。恋愛しないのは私の努力不足だって言われたみたいで……やんなくちゃいけないことをサボってる、みたいに言われるのが……本当に……本当に、すごく……辛くて」

その日の帰り、恋愛を克服できる本というものを本屋で見かけた。背表紙を見ているだけで、体が引き裂かれそうになった。望まないキスの感覚と、繋いだ手の感覚をまざまざと思い出す。恋愛を、恋愛にまつわる物全てを受け入れられないことはやはり罪なのだと、世界中から責められている気がした。
雨がやまない。雨はやまない。雨はひたすらに背を打つ。雑踏に呑まれる声を、海の彼方へ流し去るように。
目に見えないものは存在しないのだと、地上の群衆へ言い聞かせるように。

「……私が悪いのかな、やっぱりって思いました」

ぽつりと漏らした声は、震えてしまっていた。海月はどうにか呼吸を整えてから、手を両目から離す。
濡れている手のひらが泥濘に塗れているように感じつつ、言葉を続けた。

「それでもう、ずっと『恋愛したくない』とか『恋愛に興味が持てない』とかで検索するのをやってたら、ここについたんです。それで……アセクシャルかアロマンティックという言葉を知って、私はこれだったんじゃないかと思ったけど」

初めてアセクトリカル・アロマティカの説明文を見た時、見慣れない言葉に戸惑った。多様性について学ぶ一環として、性的指向の話は授業でやったけれど、そこで学んだのは性自認や、恋愛や性的なことに興味のある指向についての簡単な話のみだった。恋愛や性的なことに興味がない、もしくは望まない指向があるという話は全く出なかったのだ。
だが、アセクシャルやアロマンティックという言葉について調べると、今まで感じてきた自分の違和感が納得に変わっていくのを感じた。その一方で、今まで見聞きしてきた言葉が、心にわだかまり続けるのを晴らせずにいた。
濁った水溜りに映る己の鏡像を眺めるように、海月は掠れた声で続ける。

「……正直まだ、わかんなくて。本当に私がおかしいだけで、それで恋愛できないだけだとしたら……」
「おかしくないですよ」
「え」

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