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日本ハワイ移民資料館

山口県大島郡周防大島町に、「日本ハワイ移民資料館」があります。

大島大橋
SUO OSHIMAの文字が出迎えてくれる
高台に日本とハワイの国旗が…
資料館入口

ハワイへの移民の始まりは、明治元年に148名が出稼ぎとして渡航したのが最初。
明治18年からは、官約移民としてハワイへ。
ハワイの砂糖産業(サトウキビ)の労働力として日本に求めた。
明治27年には、民間の移民斡旋会社への委託に変わるが、10年間の官約移民数は、29000人にも及んだ。

こちらは、ペルー移民の募集チラシ
サトウキビ畑での休息時

江戸時代中期以降、人口増加と自然災害による大不況で島民は飢餓状態になっていた所に、移民の話が持ち上がり、県は大島郡からの募集に、力を入れて勧めてきました。
(当時の外相、井上馨)

移民者の生活環境

移住先のハワイでは、仕事と住む場所は補償するとの事でしたが、過酷な仕事と、家とは呼べない程の(流木と葦で作った住まい)住まいしかなく、不満が募ってきました。
又、移民局(収容所)では氏名ではなく、番号で管理されていた。

第一回目の官約移民では、大島郡出身者が全体の1/3を占め、10年間の総数は3900人以上にのぼる。

周防の歴史は古く、大化の改新前は周芳(すほう)と呼ばれた。
大島国造を調べると、聖徳太子の頃まで遡り、百済国の琳聖太子が推古天皇19年に、周防に流れ着くとある。
聖徳太子より、多々良氏を授かり後の大内氏へと続くようだ。
周防大島は、早くから荘園とされた場所だった為、歴史的にも多くの遺産がまだ残っている可能性がある。

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