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『アブラゼミとの距離感』

20240818


 小学生の頃、セミの抜け殻を集めていた。

その情報を聞いた田舎のおばあちゃんが野菜などを送ってくれるついでに、大量の抜け殻も段ボールに詰めて家まで送られてきたことがあったらしい。

 
セミとの距離感は当時の自分にとって大切だったような気がする。

 
 先日、日陰を選んで歩いていると、同じ目線の高さで木にとまっているアブラゼミを見た時にそう感じた。
 
 
 
 木の高いところにいるセミは当たり前だけれど遠くて自分には届かない。ただ、自分と同じ目線の高さにいるセミは近い。セミとの距離が近いということは、自分で触れそうな距離にいるということである。

触れる可能性があるかどうか、あの頃の僕にとってはとても重要だったはずだ。
 
 
セミが近いとなると、セミに逃げられずに触ることができるのか、触ったら鳴くのか、捕まえるとセミはどうなるのか、と捕まえようとする自分の行動とその未来について考え、それだけで気分が高揚していた。
 
 
 結果的にセミを素早く自分の親指と人差し指で捕まえた時、セミはジリリ、と突発的に鳴きだす。その音が指を伝い、腕を伝い、振動と共に自分の体で響く。そして、そのセミを離す。すると方向感覚を失ったように勢いよく飛んでいったかと思うと、すぐそこにある電信柱にとまったりする。
 
 
 
 今でも街を歩けば、けたたましく鳴いているセミたち、玄関の前で力尽き横たわっているセミ、車道のアスファルトでぺちゃんこになっているセミ、様々な形のセミが常に視界に入ってくる。


 
 セミの存在に完全に慣れ過ぎている自分に気付いたとき、少年の心を忘れているとかそんなことよりも、少なくとも、セミではない何かで、日々少しでも心が動かされる瞬間が自分にあってほしいと、自分の目線よりも少し低い位置で鳴いているアブラゼミを見て思った。



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