西田幾多郎 「働くものから見るものへ」後編 現代的改定+補足(作業遂行中)

このnoteは、西田幾多郎の著作を現代語的に書き換えることを意図したものです。書き換えを行う筆者は大学等で哲学を学んだことは無く、哲学的素養に関しては完全に素人です。読解の助力になることを願い書いたものですが、私の誤読が介入してる可能性があります。読まれる方は、このnoteを鵜呑みにされず、必ず現本を読まれてください。誤読と思われる箇所があればご指摘いただけると助かります。また、没後70年を経過しているため著作権は失効していますが、同一性保持権に抵触すると判断される可能性があり、その場合すぐ削除することを宣言します。

※筆者の独断により、(~)という形で補足を付け加えています。
※西田自身が補足としてつけているかぎ括弧は、【】で表しています。
※旧字体は新字体に、一部表現を現代的に改訂しています。
※筆者が分からない部分は?をつけています。お判りになられる方がいたらご指摘いただけると幸いです。

働くものから見るものへ 前編

働くものから見るものへ 後編




働くもの



 知るということは一つの働きであり、知るということは働くという概念の中に包摂されると考えるのが普通であるが、かえって後者を前者の中に包摂することができないだろうか。私は働くものと言うものを考えてみようと思う。
 我々が赤の色を見て赤い物と考える場合、赤い物というのは表象自体の如きものを意味するのではない。まして赤の概念でないことは言うまでもない。赤い物とは赤いという如き感覚的性質を超越してこれを有するものでなければならない。これ故にかかる物は他の性質をも持つことができる。性質の異なるに関わらず自己自身に同一なることができるのだ。無論単に措定されたものは、他の性質を持ち得ないと言い得るだろう。措定された赤いものと、措定された熱いものは異なったものである。しかし物は単に措定されたものではない。何処までも性質を超越してしかもこれを有するものでなければならない。我々は思惟の要求によって経験内容を統一し行くに当たって、統一するものと統一されるものとの間に、内面的統一を見出すことができない場合(物がそれ自身によって統一されていない場合)、統一者として超越的なる物を考えざるを得ない。そして統一されるものは、すべてその性質と考えられるのだ。物とは経験内容の偶然的統一と言い得るだろう。
 働くもの(自ら変化するもの)とはいかなるものを言うか。働くものは時において自己自身を変じ行くものでなければならない。我々が時において物の種々なる性質を知覚するとしても、直ちに物が変じるとは言われない。物は不変であって知覚する我々がその立場を変じ行くのかもしれない。自ら変じるもの、すなわち働くものを知るには、※超越的統一が内在的でなければならない。内在的なる物が超越的である時、かかる矛盾の統一として、働くものの概念が成立するのだ。
※引用 超越と内在とは 

物は相反するものに変じ行く。相反するものはその根柢において同一なるものでなければならない。色が音に変じ行くとするも、我々はその背後に働くものを考えることはできない。単に超越的なる物の統一を考えるのみである。ただ色が色に変じ行く時、すなわち色が色自身の中において変じ行く時、我々は働くもの(自ら変化するもの)を見るのだ。類概念として内在的なるもの(例えば、色)が超越的と考えられた時、働くものとなるのである。我々が動くものによって最もよく働くものを知るのは、空間が超越的であって客観的世界を構成すると共に、先験的にして明らかに内在的であるが故とも考え得るだろう。一方において超越的なると共に一方において内在的であればあるほど、働くものと考えることができる。色の如きものも直接の経験内容として他から導き来ることができないという点において一種の独立性が認められ、色自身の発展が働くという意義を具するとも考え得るのである。
 超越的と内在的の対立の意義は種々に考え得るでもあろう。最も厳密な意味において知識と考えられるものは判断的知識である。我々はここから出立してみなければならない。判断的知識の内(内在)と外(超越)は何を意味するか。判断は主語と述語から成り立つ。特殊なる主語が一般なる述語の中に包摂されるのが判断の本質である。包摂判断(例えば、赤は色である)が判断の最も純なる形と見ることができるだろう。自同判断(例えば、赤は赤である)の如きものでも、その述語はたとえ、主語と同一の範囲を有するとしても、述語的として異なった意義を有しなければならない。そうでなければ判断の意義を成さないのである。主語となるものは、必ずしも判断的知識の中に入り来るものではない。個物的なるものはこれを判断的知識に分解し尽くすことはできない。分解し尽くされるならば個物ではなくなる。個物的知識の基には直観があると考えられるのは、これによるのだ。純粋に判断的知識の内にあるものと言えば、単に述語によって指示されるものでなければならない。すなわち一般概念的なるものでなければならない。主語によって指示されるものは、それが述語的となる限り、判断的知識の内に入り来るのだ。主語となるものが述語的なる時、単なる概念的知識が成り立つ。すなわち我々は単に判断の中(内)においてあると言い得る。判断の立場から判断的知識を超越する(外)には、これを主語によって指示される方向に求めねばならない。主語となって述語とならないものによって、判断(内)と判断以上のもの(外)との関係を求める外はない。
 判断の主語となるものはいかなるものだろうか。判断とは繋辞によって述語を主語に加えて成るものではない。この机が樫から造られてあるという時、その主語となるものは実在でなければならない。判断の基には何時でも具体的一般者(主語となって述語とならない本体)があるのだ。この机という時、我々は既に実在全体を見る立場に立っているのである。総合的統一の立場に立っているのだ。この実在について樫にて造られていると述語するのであるが、かかる述語も元来具体的一般者の中に含まれているものでなければならない。数学の方程式について樫にて造られているなどとは言われない。この実在というものが限定された時、この机が樫から造られているということが動かすべからざる真理となるのである。かかる意味において判断は具体的一般者が自己自身を限定することによって成立すると言うことができる。総合的統一の立場において限定されたもの、全体の意味を担うものが主語と考えられ、限定されるべきものが述語と考えられるのである。現実的なるもの、形つくるもの(形相)が主語の方に立ち、可能的なるもの、質料となるものが述語の方に立つと考えることもできる。今この机が樫から造られているという如き実在判断について言ったことは、数の判断や色の判断の如きものについても、同様に言うことができるでもあろう。数とか色とかいう具体的一般者が自己自身を限定することによって、数の判断、色の判断が成立するのである。この場合、主語として限定されるものは、この机という如き意味において個物的なるものではないが、やはり総合的統一の立場において限定されたものとして、全体の意味を担うと考え得るでもあろう。数理的判断においては、数の体系が真の主語となり、色の判断においては色の体系が主語となるのである。ただ具体的一般者の性質が異なるに従って、主語と述語の関係において種々なる相異を認めざるを得ない。実在判断においては、その結合(主語と述語の結合)が偶然的であり、無限の可能を許すと考えられるが、数理的判断の如きにおいては、必然的であって他の可能を許さないと考えられる。従って主語と述語は分かち難きものと考えられるのである。
 一方においては述語となるものが判断的知識に内在的なるものと考えられ、一方においては主語となるものが全体の意味を担うものと考えられるならば、述語となるものが同時に主語となる時(一般概念が主語となる時)、すなわち主語と述語の範囲が合一する時、我々は完全に判断的知識の中(内)にあると言うことができる。一般概念が何処まで自己を限定して行っても、自己の範囲を出でない。自己の中に自己を限定すると考えられる時、知識は完全に内在的ということができるのだ。これに反し主語が述語の範囲を踏み越えた時、我々は判断的知識の外に出たと言うことができる。この場合、特殊なるもの(主語)が一般なるもの(述語)を包むこととなる。主語の中に述語が含まれることとなるのである。そしてこれと共に判断は具体的一般者の自己限定によって成立するという意味が明らかとなる。いかにして判断が判断自身を超越し得るかと言うでもあろう。しかしいかなる判断も自己自身(判断自身)を超越するものによって、維持されているのである。判断の客観性はここにあるのだ。判断の根柢には自己自身に同一なるものがなければならない。そして自己自身に同一なるものは直観的なるものでなければならない。直観(外)と判断(内)の結合する所に自己同一の判断が成立するのだ。包摂判断の如きものであっても、※類概念そのものはまず自己同一なるものでなければならない。
※ 引用 類概念とは 

判断はその背後に限りなく自己(判断)を超越するものを持つと考えられるのだが、斯く自己(判断)を超越するものがまた類概念として述語的なる時、具体的一般者の自己限定として判断的知識が成立するのだ。この意味においては、判断は自己(判断)の外に自己(判断)を超越するのではなく、かえって自己(判断)の中に自己(判断)を超越し行くと言うことができる。自己自身の深き奥底に還り行くと考えることができる。構成的範疇(意識から独立して対象を規定する範疇)と反省的範疇(意識が対象を反省することによって生じる範疇)は相離れれたものではなく、それが判断的知識である限り、構成的範疇の背後に反省的範疇が伴っていると言うことができる。反省的範疇が構成的範疇を包んでいると言うことができる。前者の中において後者が構成されるのだ。いかにして反省的範疇から構成的範疇が発展するだろうか。私は今この問題に立ち入ることはできないが、右に言った如く、包摂的判断の背後には、自己同一なるものを認めざるを得ない。この方向において性質を統一する物の概念が認められ、この方向を更に深く進むことによって連続などの概念も発展するではないかと思う。
 種々なる色の性質を色の類概念の中に包摂して考える時(例えば、この色は赤だ)、その根底に自己同一なるもの(赤)がなければならない。これに反し、統一された一つの実在界が考えられる時、その空間の一々の部分は延長という如き類概念の中に包摂されねばならない。かかる条件の下に初めて統一された一つの客観界が考えられるのだ。唯一の空間、唯一の実在界というものが考えられる場合、それが考えられると言う限り、可能なるものの一つでなければならない。一般概念の特殊でなければならない。我々がこの世界を唯一と考えるのは感覚の立場から見るのだ。実在界は感覚内容を含まねばならないのは言うまでもないが、感覚内容は思惟に対して偶然的である。可能なるものの一つである。自己同一なるものとは、述語(概念)が自己自身の中に還るもの(述語が自己自身を表すもの)でなければならない。主語として志向されたものが述語として志向されたもの(概念)に同じければ同じほど、自己自身に同一なるものと考えられるのだ。一方から見れば、自己同一なるものは何処までも達することのできない極限点の如きものと考えられるだろう。限りなき述語がこれを廻って志向するも達することのできない中心点の如きものと考えられるだろう。しかし判断的知識として現れる限り、それ(自己同一なるもの)は述語の中(概念の中)に包まれていなければならない。一般的なるものが自己自身を限定することによって判断が成立すると言い得るならば、無限に達することのできない一点(自己同一なるもの)と考えられるものは、かえってこれ(判断)を包むものでなければならない。自己同一の具体的一般者(主語となって述語とならない本体)は自己の中に自己を映す鏡の如きものでなければならない。何らの映すものなきが故に、鏡が鏡自身を映すという外はない(例えば、この色は赤であるという場合の色という具体的一般者は、すべての色を含むが、何色でもない。すべての色を映す鏡のようなものでなければならない)。かくの如く自ら空しくして、すべての物を容れる空間の如きものが、自己同一の範疇によって構成された対象界でなければならない。いわゆる構成的範疇によって構成されると考えられる対象界も、この外において構成されるのではなく、この内において構成されるのだ。すべて我々に対し客観界として立つものは、自己自身に同一なるものでなければならない。斯くして一々の物(自己同一なるもの)が物の概念(類概念)の中に包摂され、一般的なるものが自己自身を限定することによって判断が成り立つということができる。かかる対象界(自己同一の範疇から成る対象界)はいわゆる実在界を容れてなお余りあるが故に、その中において無限の可能的世界が考えられ、その一が限定されることによって実在界の判断が成立するのである。我々は具体的なるものを分析し抽象し得ると考えるが、抽象的思惟は外から具体的実在を分析するのではなく、反省的思惟の対象界が具体的思惟の対象界(自己同一の範疇によって成る対象界)を包むが故である。物が空間において無限に分割し得ると考えるのと同様である(例えば、色の体系という自己同一なるものは、思惟により無限に分割することが可能である)。
 我々が赤の色を見て赤い物を考える時、色の一般概念という如きものを超越せねばならない。一般概念を限定することによって物の概念に到達することはできない。それにはいわゆる構成的範疇が加わらねばならないのは言うまでもない。しかし物の概念が成立する背後には、自己同一なるものがなければならない。これによって物の概念も成立するのだ。自己同一の範疇によって構成された対象界の彼方に、物の概念が成立するのではなく、この対象界の中において成立するのだ。知識の明証ということが直覚と意味の合一にあるとするならば(例えば、これは机だ)、その対象(これ)は自同判断の主語的方面に含まれ、その意味(机)は述語的方面に含まれ、この両面の合一を意味する自己同一の判断(これは机だ)によって、知識が成立すると考えることができる。すべての知識の対象界はこの両面(対象と意味の両面)の間に挟まれている。自己同一の判断の両面は(自己同一なるものの)すべてを挟んで無限に広がる平行面の如きものでなければならない。知識成立の基にかかる両面の合一とも言うべき自ら照らす鏡(具体的一般者)がなければならない。かかる両面の合一というべきものは、すべてを容れてなお余りある包理性的非合理性(理性を含んだ特殊)、包形相的質料(形相を含んだ質料)なるが故に、単に映す鏡というべきものであろう。ヘーゲルの論理学の始における単なる有はかくの如き意味の有でなければならない。かかる立場において物の概念がいかにして構成されるだろうか。物の概念は我々が経験そのものを主語とすることによって成り立つ。経験そのものを判断の対象界に持ち来たすこと、すなわちこれを合理化すること(概念化すること)によって成り立つ。経験を合理化することはこれ(経験)を自己同一の鏡の内に映すことでなければならない。これによって経験が合理的に統一されるのだ。経験内容を概念化すると言えば、色の体系という如きものも経験的内容の概念化とも考え得るだろう。色の類概念に属するものが、それ自身の間に動かすことのできない関係を有し、色の判断はこれによって成り立つ。だが我々は色を物とは考えない。物とは空間、時間、因果の範疇によって構成されたものでなければならないと言うでもあろう。しかし色の判断が成立するには、その根底に自己同一なる色自身(色の体系)というものがなければならない。そしてそれは主語となって述語とはならないものと言うことができる。また物は、時間、空間、因果の範疇によって構成されると言うも、その基体(主語となって述語とならない本体)として感覚的なるものがなければならない。これらの範疇(時間、空間、因果)はかかる非合理的なるもの(感覚的なるもの)を合理化する道具に過ぎない。色の判断といっても、その主語となって述語とならないと考えられる方向において、構成的範疇によって構成されるべきものも含んでいると考えることができる。単に述語的なる色の一般的概念という如きものが考えられる時、それが構成的範疇を含むと言うことができないのは言うまでもない。しかしそれ(色の一般概念)が自己自身を限定することによって色の判断を成立させる具体的一般者と考えられた時、少なくも自己の内に構成的判断を成立させる可能性を有するものでなければならない。自ら照らす自己同一の鏡(具体的一般者)でなければならない。色の直観を超えてその背後に物や力の世界があるのではなく、かえってこの直観の中において成立すると考えることができる。色が変じると言うにも、これに先立って種々なる色の識別的判断がなければならない。変じる物はその反対に変じ行き、相反するものは他面において相等しきもの(例えば、白と黒は色)でなければならない。少なくも同一の類概念に属するものにして互いに相移り行くと言うことができるのだ。それだけでなく、我々が単に眼を以てするならば、変化の起こる場所も色を以て充たされていなければならない。何処までも色自身の中において色の変化を構成して行くのだ。直接の経験においては、色が時間、空間の中にあるのではなく、むしろ色(という直観)の中に空間、時間があるのである。変化の座標となるもの(例えば赤の中にある青)がまた色の類概念に属する時、色が自己の中に自己を構成すると考えざるを得ない。色の自同判断の対象界において種々なる色の関係が構成されるのだ。色の種々なる構成は色そのものに属せないとも考えられるだろう。例えば、色そのものから形という如きものは出て来ないということができる。しかし画家などのように我々は直接に色の中に形を見るのである。変化というものすら見るということができるのである。これ故に画家は動くものを描くことができる。平面の画布に無限に深いもの、動くものを盛ることができる。それは心理学者の言う如く単に連想によるのではなく、ベルグソンの言う如く薔薇の花の中に幼時の記憶(という客観的なもの)を嗅ぐの類でなければならない。我々が物の形とか変化とかいうものを考えるにも、その根底にかかる直覚がなければならない。物は同じ類概念の中に変じ行く。その基体となるものは単に抽象的なる一般概念であってはならない(直観的でなければならない)。そうでなければ変じるということは無意義である。それでは、色の性質に関する単なる抽象的判断と、かかる直覚はいかなる関係において立つか。いかなる意味において前者もまた後者に基づくと言い得るか。色の抽象的判断は色の直覚の成立する背後に広がる自同判断の述語的方面において成立するのだ。知識の立場においては、反省的範疇の対象界はいつでも構成的範疇の対象界を包容して無限に広がっていると考えなければならない。
 物の世界は我々が経験内容を合理化することによって成り立つ。経験を合理化するとは、経験自身が主語となることである。すなわち主語となって述語とならない基体となることである。そして斯く経験自身が主語となるというのは経験が自己同一なる具体的一般者として、自己自身を限定することによって、自己の中に判断を成立させることでなければならない。経験内容はまず単に性質的なるものとして類概念によって統一される。しかしかかる関係(類概念)が成立するにも、その根底となる直観がなければならない。包摂判断(たとえば、赤は色だ)の根柢にも主語となって述語とならないものがなければならない。この方向において一般(色)と特殊(赤)の関係は変じて全体(色)と部分(赤)の関係となる。一般的なるものは全体となり、特殊なるものは部分となる。更にこの方向に進むことによって物の概念が成立するのだ。物の判断においては、主語は述語を超越して、いわゆる主語となって述語とならないものとなるのである。これにおいて主語と述語はいったん相離れると考えられる。しかし経験内容そのものが主語であり経験そのものが合理化されるという以上、何処までも感覚的性質が主語とならねばならない。感覚的性質は自己の中に自己を限定することによって、判断を成立させる具体的一般者でなければならない。これ故に外に無限なる感覚的性質を以て充たされた物の世界が成り立つのだ。一般的なるもの(例えば、色)は単に述語的なるものではなく、すべての主語となるもの(赤や青など)を包む場所となるのである。非合理的なるもの(経験自身)が判断の主語となる時、我々は外に無限進行の世界を見なければならない。時間空間というも非合理的なるものを合理化する範疇である。そして構成的範疇を包む反省的範疇の対象界として、すべてを容れて無限に広がる場所が成り立つのだ。感覚的性質といえば、単に一般的なるもの、抽象的なるものと考えられるが故に、感覚的性質が基体となるとは考え難いだろう。感覚的性質はかえって物の第二次的性質とも考えられる。しかし単なる時間空間の数学的関係から物の世界は成立しない。かかる関係の基体となるものは感覚的性質でなければならない。勿論、物理現象の基体となる感覚的性質とは、色とか音とかいう特殊なるものではなく、すべてに共通なるものでなければならない。感覚的性質一般(色一般、音一般など)という如きものでなければならない。感覚一般という如きものは、抽象的概念であって、実在的でないと言い得るでもあろう。しかし我々は具体的に色を見る場合、いつでも一般的なるもの(色一般という如きもの)を背景において見ているのである。単に特殊なるものはかえって考えられたものに過ぎない。色の経験の根柢に色一般というものを考え得るならば、これを押し進めてすべての感覚の根柢に感覚一般というものを考え得るだろう。単なる一般概念の対象界としてかくの如き対象界がなければならない。かかる反省的範疇の対象界がいわゆる構成的範疇の構成によって成る判断の基体となるのである。単なる時間や空間に対しその内容を与えるものは、異同の範疇(反省的範疇)によって構成された性質的対象界でなければならない。これによって物理的世界が構成されるのだ。いわゆる物の第一次的性質の世界というのは、純なる感覚一般を基体として構成されたものでなければならない。
 私は最初に類概念として内在的なるものが超越的と考えられるとき、働くもの(自ら変化するもの)の概念が成立すると言った。今この考えに還ってみたいと思う。抽象的概念として単に述語的なるものが超越的であることのできないのは言うまでもない。しかし構成的範疇によって構成された対象界の背後に、反省的範疇によって構成された対象界(類概念の対象界)を認めるならば、類概念の対象界とも言うべきものは、一方において述語的なると共に、一方において判断の主語として判断自身を超越すると考えることができる。すべての判断の根柢に自己同一なるものがあり、直観がなければならないと考えられるのはこれによるのだ。物の概念が経験内容を主語となしこれを合理化するとするならば、かかる合理化(経験内容の合理化)の徹底は自ら物の概念から力の概念に到らねばならないと思う。類概念の根柢にも自己同一なるものがなければならない。すなわち一つの直観がなければならない。自己同一において構成的範疇と反省的範疇が結合している。そして反省的範疇によって与えられた質料を構成的範疇によって構成して行くのである。反省的範疇によって与えられる質料的対象界が単に形式的なる時、数の世界という如きものが構成されるのでもあろう。基体として何処までも主語となるものが、述語となるものと同じ時(類概念でもある時。例えば、赤は色である)、全体(色)と部分(赤)という如き関係が成立する。ただ、経験内容を主語としてこれを合理化しようとする時、主語は述語的なるものを超越して物と性質の関係が成立する。述語的なるものはすべて性質となる。しかし経験が合理化されるという以上、それ(経験内容)は判断を超越したものであってはならない。かえって具体的一般者として自己の中に判断を成立せしめるものでなければならない。(経験内容は)自己自身に同一なるものとして自己自身の述語となるものでなければならない。主語となるものが完全に述語的なるものの中に溶かされねばならない。超越的なるものが内在的とならねばならない。これにおいて働くもの(自ら変化するもの)の概念が成立するのだ。単に経験内容の変じ行くを見るも、直ちに働くものと言うことはできない。我々はただ物の種々なる方面を見るのかもしれない。働く(自ら変化する)と言うには、物がその性質を変じるのでなければならない。否性質が性質自身を変じると考えられねばならない。一つの類概念によって限定された反省的範疇の対象界(例えば色の世界)において、種々なる関係(例えば赤や青など)が構成されて行く時、働くものの概念が構成されるのである。種々なる構成的関係において立つものが、厳密に一つの述語的概念の中に包摂することができればできるほど(赤や青は色だ)、働くもの(自ら変化するもの)となる。かかる方向を極致にまで進め行けば、物の概念は消え失せて純なる作用となる。或物(例えば、赤)が自己同一として他から区別され、それが種々の述語を取るも、未だ働くものではない。働くというには他の同様な物(例えば、青)と必然的関係を有しなければならない。しかしこの両者(赤と青)が超越的なる或物(例えば、絵具など)によって統一されると考えられるならば、なお働くものとは言われない。両者を統一するものが両者の述語的一般者(色)でなければならない。ギリシャ人の考えた如く同じものが同じものに働くのである。述語的なるもの(色)の各々の点(赤や青など)が主語となって述語とならないと考えられる時、働くもの(自ら変化するもの、この場合視覚作用)となるのである。一つの物のみにて働くということはできない。働くというのは相互作用でなければならない。互いに相働くものを包んで、相互作用の体系を構成するものは、すべての物に共通なる述語的一般者でなければならない。


 私は判断の主語と述語の関係から働くものまたは働き(自ら変化するもの、作用)とはいかに見るべきかを考えてみた。しかし判断は固より、特殊と一般の関係から成り立つ。この問題を明らかにするため、なお一層深く概念的知識の本質である一般と特殊の関係から考えてみたいと思う。これによって構成的範疇を包むと言った反省的範疇から、構成的範疇への連絡をも求め得るかと思う。
 一般概念はその種差によって何処までも自己を特殊化して行くが、何処まで行っても一般概念以上に出でることはできない。しかしかかる体系の根柢にも、自己同一なるものがなければならない。この自己同一なるものは自己の中に特殊化の原理(質料)を含んだものでなければならない。自己自身を特殊化するものでなければならない。包摂判断はこれによって成立するが、自己自身は包摂判断の対象とはならないものである。しかし私はここに概念の矛盾ということについて考えてみよう。相異なるものを区別するには、その両者を包む一般概念がなければならない。相異なるもの(特殊、例えば赤や青など)は、一方において相同じきもの(一般、色)でなければならない。これによって一般と特殊の体系も成立するものである。矛盾は相異の極致である。二つの概念が互いに相矛盾すると考える時(例えば、生と死など)、またこの両者を包む何らかの客観的統一がなければならない。これによって二つの概念が矛盾すると考えられるのだ。かくの如き客観的統一は単に特殊を包摂する一般概念という如きものではない。ある一つの概念に矛盾する概念を考えるには、我々はこの概念を超えて外に出なければならない(二つの概念の外にあり、二つの概念を含む矛盾的統一の立場に立たねばならない)。相矛盾する概念を統一するものは自己自身の否定を含むものでなければならない。色と色でないものを結合するものは、色でもなく、色でないものでもないもの(自己自身の否定を含むもの)でなければならない。アリストートル(アリストテレス)は物理学第五扁において肯定的なものから、その反対の肯定的なるものに移り行くのが変化であり(例えば赤から青への変化)、否定的なるものから肯定的なるものに、また肯定的なるものが否定的なるものに移り行くのが、発生と消滅であると言っているが、相反するものは両立せず、その根柢に移らざるもの(類概念)があるとするならば、相矛盾するものに移り行くと考え得る場合にも、その根底に移らざるものがあると考え得るだろう。
 ある一つの積極的概念からこれと矛盾する概念に転じるには一たび否定の立場に入らねばならない。すべて肯定的なるものを否定する立場に立たねばならない。しかしかくの如き否定的なるものも、また思惟の対象となるものでなければならない。そうでなければ、発生とか消滅とかいう考えすら成立しない。特に親から子が生まれたという如き場合では、一度否定の立場(消滅)を通ってまた肯定の立場(発生)に還ると考えねばならない。そして両者を否定するものが両者を結合し統一していると考えねばならない。ある一つの肯定的なる概念(例えば、赤)に対しては、これと異なるもの(音など)、これに反するもの(青など)、これと矛盾するもの(赤でないもの)を考えてみることができる。相異なるものの統一として、その背後に物という如きものを考えることができる。色と音は相異なるものだが、一つの物が色を持ちまた音を持つことができる。これと共に主観的には一つの類概念を以て統一することもできる。例えば、色も音も感覚的性質という一つの類概念に属するのだ。相反するものは、時の考えを入れない以上、一つの物に結合することはできない。しかし相反すれば反するほど、明らかに一つの類概念に統一されねばならない。相矛盾する二つの概念に至っては、これを統一するにいわゆる類概念を以てすることもできない。また、その背後に物という如きものを考えることもできない。たとえ、時の考えを入れても、一つの物がその矛盾するものに移り行くと言うのは消滅ということでなければならない。矛盾概念を統一するものは、生物の死することが生まれることである如く、否定することが肯定することであるものでなければならない。概念の生滅する場所の如きものでなければならない。無にして有を成立せしめるものでなければならない。かかる矛盾の統一はいかにして積極的意義を得るだろうか。※矛盾律によって構成された対象界として数理という如きものを考えることができるだろう。数理の世界が成立するには、その根底に若干の仮定があるであろう。
※ 引用 矛盾律とは 

しかし一度、これらの仮定が定められた以上、一々の数理は必然的なるものとして、矛盾的限定(矛盾律)によって組織されるだろう。我々はそこに矛盾の統一なるものを見ることができる。そして数の対象界が統一されるにも、その根柢に何らかの類概念がなければなるまい。
 矛盾の関係を構成する統一(矛盾律による統一)と、相異とか反対とかの関係を構成する統一(類概念による統一)は根底的にその性質を異にするものではない。矛盾律によって一つの対象界が構成される以上、その根底にかかる対象界を限定する一般的なるもの(一般者)がなければならない。これに反し相異とか反対とかの関係が成立する根柢にも、(矛盾の関係における)否定の原理が含まれていないのではない。特殊なるものが互いに相否定することによって統一されるのである(例えば、赤や青の否定が色として統一される)。一般なるものは、すべてを否定すると共に、すべてを肯定する(包含する)ものでなければならない。ただ、いわゆる経験的一般概念(物の知識)と考えられるもの(例えば、この机は赤い)においては一般(赤)と特殊(この机)の間に間隙がある。一般(赤)から最後の種差(特殊、この机)に達することはできない。一般化の原理(形相)と特殊化の原理(質料)が合一することができない。この間隙を充填し両者を結合するため、超越的にして不変なる基体という如きものが考えられるのである。矛盾的限定(矛盾律)によって構成された対象界に至っては、これと異なり一般的なるものは即特殊化の原理(質料)なるが故に、その間に基体の如きものを容れる余地はない。一般的なるものは特殊なるものを成立せしめる場所とか、相互関係の媒介者とか考える外はない。特殊なるものがかえって基体と考えられるのである。矛盾的統一の対象界において初めて全体(色)と部分(赤、赤でないもの)との関係を見、更に進んで個物的なるものを見ることができる(例えば、矛盾的統一により、個物Aと個物Aでないものという統一が成り立つため、個物Aを見ることができる)。モナドの世界においての如く、各自唯一なる個体となることによって、全体の統一が成り立つ。単に一般的なるものは予定調和の役目を演じるに過ぎない。
 一般と特殊の関係の根柢には自己同一なるもの(例えば、色の体系)があり、そして自己自身に同一なるものは自己の中に矛盾(赤と赤でないもの)を含むものでなければならない。自己を肯定する(赤である)と共に否定するもの(赤でないもの)でなければならない。すべて一般と特殊の関係の根柢に、自己自身に矛盾するものがあると言い得るのだ。判断が自己自身を超越するというのも、この点においてでなければならない。真に自己が自己を映す自己同一の対象界は、自己矛盾の対象界でなければならない。自己同一(赤)が深くなればなるほど、自己矛盾(赤でないもの)が明らかとなり、自己矛盾(赤でないもの)が明らかとなればなるほど、自己同一(赤)が深くなる。矛盾的統一の対象界において、反省的範疇の対象界が構成的範疇の対象界に結び付くということができるのである。種々なる性質を持つと考えられる物の概念は多にして一なるものとして、既に矛盾の統一でなければならない。しかし一般と特殊の間に間隙があるかぎり、主語と述語の合一せざるかぎり、一方(主語の方面)に超越的なる物が考えられ、一方(述語の方面)において内在的なる主観的統一が考えられるのだが、自己同一の深き根柢に達すれば達するほど、単なる類概念的統一の対象界から矛盾的統一の対象界に移って行く。この統一の徹底においては、外に超越的なる物を考え、内に類概念を考える要なく、反省的範疇の対象界と構成的範疇の対象界が合一して個物的なるものと個物的なるものとの直接の関係のみとなる。外に基体として考えられた一般者は個物的なるもののすべてを包含する場所という如きものとなり、内に類概念と考えられたものは対象界を構成するアプリオリとなると言うことができる。自己同一の対象界に徹底するにおいては、かえって自己という如きものが失われなければならない。外にも内にも総合的中心という如きものがなくならねばならない。(具体的一般者は)単に自己の中に自己を映す鏡の如きものとならねばならない。かかる鏡においては、映すことは構成することであり、構成することは映すことである(事行である)。映されたものは、各自が自己同一なるものとして、矛盾の関係によって統一されるのである。矛盾の関係を成立せしめるものはその背後に超越的なるものであってはならない。しかもそれが単に各項の中に内在するということもできない。単に内在的ならば、自己を超えて互いに関係する(相矛盾する)ことはできない。かかる統一は創造作用とも考え得るだろう。しかし創造の背後にはこれを照らすものがなければならない。これを映すものがなければならない。カントの「我考ふ」という純粋統覚も客観界の統一者でもなくまた単なる主観的統一でもない。自己の中に自己を映す鏡でなければならない。経験界はこの鏡において構成されるのである。
 すべて概念的知識の根柢には一般と特殊の関係がある。この意味においてはすべての判断を包摂判断の形に直し得ると言うことができる。しかし概念的知識は完全となればなるほど、類概念的統一が矛盾的統一に進む。一方から見れば(類概念的統一から見れば)、一般なるものが自己自身の主語となると考えることができ、一方から見れば(矛盾的統一から見れば)、特殊なるものが直ちに相関係すると考えることができる。私は働くもの(自ら変化するもの)と言うのは、経験的知識がその統一に徹底しようとすることから現れ来る概念ではないかと思う。経験的知識というのは経験内容を主語とする知識でなければならない。すなわち経験内容が合理化されたものでなければならない。経験的知識が成立するには、カントのいわゆる純粋統覚の総合という如きものを考えざるを得ない。純粋統覚というのは単なる理解力でもなければ、単なる直覚でもない。両者の総合統一である。一方から見れば、主語となって述語とならざる物の世界の構成者として単なる論理的一般を超越すると考えられると共に、一方においては自然科学的知識の統一者として、一つの具体的一般者でなければならない。この点においては、すべての概念的知識の根柢を成す具体的一般者と同じく、自己の中に自己を映す鏡の如きものでなければならない。判断的知識として構成される以上、構成的範疇の背後に反省的範疇がなければならない。ただかかる具体的一般者の性質が種々に異なるのだ。論理の範疇と直覚の形式の結合として時というものが考えられるのだが、時は単に流れ去るものではない。時の背後に移らざるものがなければならない。時は一般的なるものが自己自身を特殊化する形式でなければならない。自己の中に自己を映す鏡でなければならない。ただその一般者(鏡)が何処までも主語となって述語とならないという点において、単なる性質的一般者と異なっているのだ。無論、性質的一般者の根柢にも自己同一なるものがなければならない。しかし純粋統覚(鏡)の自己同一はかかる意味における自己同一なるものの自己同一(自己同一の根元としての自己同一)である。カントがすべての「私の表象」に「私が考える」ということが伴うと言った時、私の表象というのは単に表象の内容ではなく、また単に思惟の内容でもない。その表象は私の表象であり、考える私は私の表象を考える私でなければならない。私の意識を対象とする私でなければならない。他面から言えば、意識される表象というのは、経験内容が自己の中に自己を映すものでなければならない。赤の意識は赤自身(という経験内容)の内面的発展ということでなければならない。赤の一般者が自己自身を限定することによって最後の種差に達し、唯一の個物となる。経験と概念の結合を主語となって述語とならない基体に求めるならば、何処までも主語となって述語とならないものは、自己の中に自己を限定するものでなければならない。自己自身を質料とするもの(自己同一なるもの)でなければならない。かかる考えを押し詰めれば、遂に自己自身を考えるもの、形相の形相(知るもの)という考えにも到達するであろう。
 カントの純粋統覚とアリストートルの「思惟の思惟」は直ちに同一視することはできないが、我々の経験的知識の根柢には、主語となって述語とならないものの(自己同一なるものの)述語的一般者(判断に対し内在的な一般者。類概念としての一般者)がなければならない。思惟に対して与えられたものは、既に純粋統覚において含まれたものでなければならない。時においては、一々の点が超越的なると共に内在的でなければならない。斯くして非合理的なるものが合理化されるのだ。自然界の概念はこれによって成立するのだ。そして右の如き概念的統一も、その統一を徹底するに当たって、相異または反対の統一から矛盾の統一に達すると同様の意義があると思う。構成的範疇の世界もそれが知識の世界である限り、反省的範疇において成立し、反省的範疇の性質に従わなければならない。いかなる内容の概念も概念としては、反省的思惟に属すると言い得るのだ。経験内容が主語となって述語とならない最後の種差になるには、すなわち個物となるには、私の表象そのものが表象されなければならない(私の表象そのものを私が考えなければならない)。表象の表象というものがなければならない。これによって経験し得る物の類概念が成り立つのである。そうでなければ、主語となって述語とならないものを考えることはできない。いわゆる類概念においては、特殊(赤や青など)が一般(色)の中にあると言い得るが、主語となって述語とならない個物においては、特殊の中に一般が含まれると考えることができる(例えば、この物〈特殊〉は赤い〈一般〉)。物の世界を統一する類概念は一般を含む特殊の一般だ(例えば、机という類概念は、木などの一般的性質を含む特殊な個物を思惟することによって一般的な類概念となる)。かくの如き類概念はただ、自己が自己を離れて見る(表象を思惟する)ということによって成り立つのである。自己は単に考えるものではなく、感覚するものである。感覚するものを考えるのが自己である。数の概念においては一般と特殊が直ちに結合するが故に、矛盾的統一というものが考え得るが、非合理的なる経験内容の統一においては、何処までも特殊と一般は直ちに結合することはできない。類概念はその根柢に透徹することはできない。従って矛盾の統一は成立しないと考えられる。しかし我々が我々の表象自身を表象する、否私の表象を私が考えるという時、超越的なるものの内在化という意味がなければならない。自覚は超越的なるものを内在化するのだ。思惟の立場から言えば、経験内容は非合理的であり、思惟すべからざるものだろう。しかしそれは何処までも表象し得るものでなければならない。そして表象が自己の表象として反省し得る限り、それはまた思惟し得るものでなければならない。純粋統覚において、経験的知識の一般と特殊が直ちに相結合し、矛盾的統一にも達すると考え得るのはこれによるのである。数の世界において思惟し得ると否とによって唯一の対象が限定される如く、経験界において私の表象として考え得るか否か、すなわち経験し得るか否かによって、唯一の対象が限定されるのである。
 純粋統覚の総合統一によって経験界が成り立つ。これによって我々は超越的なるものを内在化し、非合理的なるものを合理化することができる。合理化されるという以上、その背景に類概念がなければならない。我々の経験界を構成するいわゆる構成的範疇は超越的なるものを合理化する手段と考えることができる。経験界構成の根本的範疇とも考えられる時の範疇においては、一々の点が内在的なると共に超越的意義を有しなければならない。その全体は内在的なると共に超越的でなければならない。かかる時間的物においてその両面(内在と超越)が合致しない限り、時の背後に変じないものが考えられる。すなわち基体というものが考えられねばならない。しかし右の如き経験界の統一が何処までも徹底され、時間的なる物の概念が自己自身の根柢に透徹して、その両面(内在と超越)が合一した時、物の概念から力の概念に到達せねばならない。概念が概念自身の根柢に達する時、数の世界において見る如き矛盾的統一が見られなければならない。特殊の背後における一般は消え失せて、特殊と特殊が直ちに相関係し、一般なるものは形相から形相に転じる場所という如きものとなるのである。純粋統覚によって成立する経験的物の概念が自己自身の根柢に透徹する時、与えられた経験内容そのもの、すなわち思惟に超越的にして純粋統覚に内在的なるもの、換言すれば特殊なる物が直ちに相関係しなければならない。現在と現在の直接の関係を成立せしめる「時」の範疇は実に経験界における矛盾的統一でなければならない。時においては、一度過ぎ去ったものは永遠に過ぎ去ったものだ。しかし永遠に消え去ることは永遠に存する所以である。時においては死することは生きることである。しかし非合理的なるものの合理化は、時の範疇においてなおその統一に達することはできない。時においては外に超越するものを除去し得るとしても、内に超越するもの(類概念)を除去することはできない。外的質料を除去することができても、内的質料を除去することはできない。真に超越的なるものが内在的となるには、単に経験内容が時において統一されるのみならず、経験内容そのものが時を含まねばならない。時は単に流れ去るものではない。時の背後に動かないものがなければならない。永遠の今というべきものがなければならない。我々の経験内容が考えられたものでなく、直観の内容として自同判断の主語となる時、時を内に包むということができる。時は現在の直線的系列ではなく、かえって無限の重畳(幾重にも重なること)でなければならない。我々の経験界がその総合統一によって成立すると考えられる純粋統覚は、経験自身の直観として、すべての時を自己自身の中に映す永久の今でなければならない。かくの如き立場(知るものの立場)から我々は働くものを見ることができるのである。
 超越的なるものを内在化し、非合理的なるものを合理化する純粋統覚の立場において、時間的物の概念、すなわち経験し得るものの概念が成立し、かかる概念的統一を進め行くことによって、働くものの概念を生じ、遂に基体なき作用の概念に到達しなければならない。働くものの概念の透徹は知るものの概念に到達しなければならない。働くものの背後にはなお内面的ならざる何物かが残されている。知るものに至っては、完全に内面的に一から他に移り行くのだ。現在から現在に移り行くのである。一瞬一瞬に消え失せることによって、内面的統一が成立するのだ。働くということは物が自己自身を知ることであり、知ることは働くことの極致でなければならない。


 厳密なる意味において知識と称すべきものは、判断の形において成り立つ。判断の最も根本的な形は包摂判断である。いかなる判断も包摂判断の形に直し得ると考えることができる。包摂判断とは一般の中に特殊を包摂することである(例えば、赤は色である)。包摂判断の根柢には一般と特殊の概念的関係がなければならない。一般と特殊の関係はいかにして成立するか。一般と特殊の関係が成立するには、その背後に自己同一なるものがなければならない。自己同一なるものとは一般の中に特殊を含むものである。すなわち具体的一般者である。いかなる抽象的概念の関係もこれ(自己同一なるもの、具体的一般者)によって成立するのだ。斯く考えれば、概念的関係と判断作用は離すべからざる関係を持っている。特殊と一般の根底に横たわる自己同一そのものを現すものが判断作用である。それで具体的一般者すなわち真の一般概念とは、自己の中に自己を映す鏡の如きものでなければならない。自己同一なるものとは自ら照らす鏡という如きものだろう。純粋統覚の総合統一によって成立する経験界といえども、それが我々の認識対象界となる以上、その背後に一般者がなければならない。(経験界を)自ら映す鏡がなければならない。かくの如き鏡はライプニッツが神がこの世界創造以前に無限に可能的世界を考えたという神の叡智にも比すべきものでもあろう。我々が経験的事実について判断する時、かくの如き無限の世界を含む一般者においてこの世界を限定するのだ。純粋統覚というも一般者の自己限定でなければならない。この机が樫から造られてあるという時、実在が主語となると言うが、この実在とはかかる一般者において限定された一つの特殊に過ぎない。思惟に対しては偶然と考えられるが、これを経験的事実として必然的と考えしめるものは我々の直観である。しかしこの直観は思惟に対して外から与えられるものであってはならない。思惟を含んだものでなければならない。叡智的悟性という如きものでなければならない。そうでなければ、これ(直観)によって認識の客観性を立することはできないのだ。直観というのは単なる知覚でもなく、また単なる思惟でもない。芸術家の直観の如きものでなければならない。芸術家の構想においても、種々の可能が考えられるだろう。これを決定し行くのが芸術的直観である。(芸術的直観においては)理念が理念自身を見る(イデヤがイデヤ自身を見る)のである。我々の経験界を構成するという純粋統覚の根柢にも、かかる理念(イデヤ)の直観がなければならない。直観といえば直ちに主客合一と考えられるが、単に主客合一なるものはなお見られた対象に過ぎない。真の直観は自己の中に自己を見ると言うことでなければならない。カントが純粋統覚に対して与えられる雑多というのは、単なる雑多ではなく、無限の可能を含んだものでなければならない。かくの如き無限の可能を包むものの自己限定が純粋統覚である。直観は一面において構成作用であり、無限に自己の内に省みるという意味においては判断である。直観が無限に可能なるものを蔵するという意味において、その達することのできない奥底は一般概念の意義を有しなければならない。しかし無限に自己の中に自己を限定して行くという意味において、その奥底は総ての実在の根柢に横たわる基体(具体的一般者)とも考えられるのである。右の如く純粋統覚の根柢には、直観の一面として一般概念という如きものが考えられる如く、具体的一般者としての類概念の一面には、構成作用とも言うべきものを考え得るだろう。例えば、色の概念的体系(色という類概念)について言えば、純粋視覚という如きものはあたかも経験界を構成する純粋統覚に相当するものであろう。純粋視覚は自己が自己を映す自己同一の鏡面に映されて色の概念的体系となり、判断の対象となる。単に反省的判断の立場から見れば、主語となって述語とならない超越的対象とも考えられるだろう。しかしそれは自己の中に自己を映す直観の構成的方面に過ぎないのである。
 直観と思惟は普通に相反するもののように考えられるが、直観の根柢には自己自身を映すものがなければならない。かかる方面において反省的思惟が成立するのだ。直観は自ら思惟を含まなければならないと共に、思惟の徹底は自ら直観に至らねばならない。種々なる構成的範疇は非合理的なるものを合理化しようとする思惟自身の発展とも考えることができる。概念的知識が概念的知識自身の立場において徹底するとは何を意味するか。概念的統一の極致は矛盾的統一に到らねばならないと思う。矛盾的統一とは特殊が唯一なるものとなるとして限定されることである。「斯くなければならない。そうでなければこの概念の外に出なければならない」という様に、唯一的に限定されることである。矛盾的統一においては、何であるかと言うこと、それがあると言うこと、何故であるかと言うことが、一となるのである。斯く特殊なるものが唯一的に限定される(Aである)ということは、一方から見れば、一般概念がすべての否定を含む(AはB,C,D…いずれでもない)ということともなる。すべての限定は否定であると言われる(Aである=非Aでない)如く、唯一的限定の一面に全ての否定が含まれていなければならない。真に一般的なるものはすなわち具体的一般者は自己の中にすべての特殊を構成すると共に、総ての特殊を否定するものでなければならない。すべてを否定する立場において、すべてを肯定することができるのである。矛盾的統一において唯一のものが限定されるには、この否定的方面(限定的方面)がすべての特殊を否定して単に映す鏡とならねばならない。斯くして初めて唯一のものを照らし得るのだ。一般者が無となると言ったのはこの意味(鏡となるという意味)に外ならない。これと同時にその肯定的立場においては、唯一なるものから唯一なるものに移り行くと言うことができる。矛盾律によって一から他に変じると考えることができるのである。概念的統一の徹底ということを右の如く考え得るならば、我々の経験的知識の根柢に横たわる具体的一般者が矛盾的統一に到達するに従って、前に言った如く、物の概念から働くもの(自ら変化するもの)の概念に到り、働くものの概念から働くものなき働き(基体なき作用)の概念に到ると考えることができる。自己の中に自己を映すことによって純なる作用の概念に到達するのである。超越的なるものが私の表象として内在的となり、非合理的なるものが合理化される時、まず一々が唯一なるものとして時間的に限定されねばならない。一度的なる「時」がすべての否定を含むことによって唯一のものを限定するのである。そして時における唯一なるものと唯一なるものとの直接なる関係から、力の概念が成立しなければならない。時の背後には、移り行かざるものがなければならない。時の特殊化に対して一般化の方面が力となる。一つの具体的一般者の特殊化の方面が時でありその一般化の方面が力であるとも考え得るだろう。しかし力の概念においては、未だ真に超越的なるものを内在化する立場に徹底することはできない。なお外的なるものが残っている。私の表象に私が考えるということが伴うという時(矛盾的統一が成立する時)、すべてが考える私の範囲に入って来なければならない。自己が自己を映す自覚の鏡の中に包まれなければならない。感覚的なるものも内包量となり、更に働くものとして、時において自己を顕現すると言い得るであろう。しかし私の表象は考える私に属するとしても、表象の内容は考える私には属せない。形式的には総てが自覚の中に入るとして内容的にはなお超越的たるを免れない。これ故に主客対立し外に働くもの(力)を考えざるを得ないのである。真に超越的なるものが内在的となるには、知るものと知られるものが一とならなければならない。自己が他の内容を映すのではなく、自己が自己の内容を自己の中に映さなければならない。真に経験内容を内に包みこれを合理化する純粋統覚は単に表象に伴う自己ではなく、表象そのものを自己の表現となすものでなければならない。考える私が表象に伴うのではなく、表象が自己自身の中へ反省するのである。表象が表象自身を映して行くのである。これ故に働くもの(自ら変化するもの)の概念は知るもの(自己の表現を知るもの)に至って、その根底に透徹すると言うことができる。知るものは自己の中に自己の内容のすべての否定を含み、その一々が互いに相否定することによって、相関係し、統一されるのだ。一般的なるものは完全に無内容として単に自己自身を映す空しき鏡となる。その一般的方面が無なるが故に、内容が一々創造的と考えられるのだろう。しかしそれは何処までも自己の中に自己を映し行くことでなければならない。自己自身を映すという一般的方面を離れて意識は成立しないのである。
 一般の中に特殊を含む具体的一般者というのは、自己の中に自己を映す自覚の鏡に外ならない。無内容と考えられる自己同一の判断(例えば、赤は赤である)はかかる鏡面そのものを示すものと考えることができる。自己の中に自己を省みる反省作用そのもの(例えば、視覚作用など)が自己の中に映されない限り、一般と特殊の間の間隙を除くことはできない。自己同一なるものが現れない。判断の主語の面と述語の面は合致することはできない。判断とは一般的なるものが自己の中に自己を映す反省的方面を現すものである。例えば、純粋視覚という如きものであっても、無限に深く自己の中に自己を映し行くと考えることができるであろう。しかし映すもの(純粋視覚)と映されるもの(赤など)が一とならない限り、主客相対立し映されたものの背後(客)に、超越的なる本体(赤い物)を見ると共に、映す鏡面の方(主)においては抽象的概念(赤い)の影を見るのである。一般的なるものは、一方において超越的本体となると共に、一方においては抽象的概念となる。自己自身の反省を映す自覚の立場においては、一般的なるものはまずすべての物を包み、すべての物がその中において成立する空間と考えられる。超越的本体は変じて空間となる。更にこの立場を徹底して行けば超越的なるものは影像と変じて、一般的鏡面は物理的空間、力の場という如きものとなる。時を含む空間は、特殊化の原理を内に含む具体的一般者の形相を現すものである。かかる鏡面に映された一点一線も、皆働くものでなければならない。力でなければならない。しかし一般者が自己自身に徹底して行くということは、一般的なるものが何処までも自己自身を無にすることである。無限なる空間、無限なる力の場としての一般者は未だ真の無ではない。従って一般者はなお全体的有の意義を持っている。ただ、意識の野という如きものに至って、一般なるものが真に自己自身を無にすると言うことができる。全体を包括する空間という如きものもなくなる。もし包括的意識というものがあれば、かえって真の意識はなくならねばならない。(包括的意識とは反対に)意識は互いに相否定することによって成立し、我々の意識の底は絶対の無に通じている。一般が消滅すると共に特殊から直ちに特殊に通じるのだ。我々の意志自由の確実はこれに基づくものでなければならない。意志は判断を逆にしたものと言い得る。(判断において)一方には色自体の体系として、一方には色の概念の体系として、相対立したものも、今は一つの芸術的直観となる。創造的意志の統一は無の統一でなければならない。


場所



 現今の認識論において、対象、内容、作用の三つのものが区別され、それらの関係が論じられるのだが、かかる区別の根柢には、ただ時間的に移り行く認識作用とこれを超越する対象の対立のみが考えられていると思う。しかし対象と対象(例えば、赤と青)が互いに相関係し、一体系を成して、自己自身を維持すると言うには、かかる体系を維持するもの(色)が考えられねばならないと共に、かかる体系をその中に成立せしめ、かかる体系がそれに於いてあると言うべきものが考えられねばならない。有るものは何かに於いてなければならない。そうでなければ有るということと無いということの区別ができないのだ。論理的には関係の項と関係自身を区別することができ、関係を統一するものと関係が於いてあるものを区別することもできるはずである。作用の方について考えてみても、純なる作用の統一として我という如きものが考えられると共に、我は非我に対して考えられる以上、我と非我の対立を内に含み、いわゆる意識現象を内に成立させるものがなければならない。かくの如きイデヤを受け取るものとも言うべきものを、プラトンのティマイオスの語に倣って場所と名付けて置く。無論プラトンの空間とか、受け取る場所とかいうものと、私の場所と名付けるものを同じと考えるのではない。
 極めて素朴的な考え方ではあるが、我々は物体が空間に於いて存在し、空間に於いて相働くと考える。従来の物理学においても斯く考え来ったのだ。あるいは物なくして空間はない。空間とは物体と物体の関係に過ぎない。更にロッチェの如く空間は物に於いてあると考え得るでもあろう。しかし斯く考えるならば、関係するもの(物)と関係(空間)が一つのものでなければならない。例えば、物理的空間の如きものとなるだろう。しかし物理的空間と物理的空間を関係せしめるものはまた物理的空間ではない。更に物理的空間が於いてある場所がなければならない。あるいは関係において立つもの(物)が関係の体系(空間)に還元される時、ただそれ自身によって成立する一つの全きもの(物理的空間)が考えられ、更にそれの成立する場所という如きものを考える要はないとも言うであろう。しかし厳密に言えば、いかなる関係も関係として成立するには関係の項として与えられるものがなければならない。例えば知識の形式に対しては内容がなければならない。たとえ、両者合一して一つの全きもの(例えば、物理的空間)が考えられるとしても、かくの如きものが映される場所というものがなければならない。あるいはそれは単に主観的概念に過ぎないと言うでもあろう。しかし対象が主観的作用を超越して自立すると考えるならば、客観的なる対象の成立する場所は、主観的であってはならない。場所そのものが超越的でなければならない。我々が作用という如きものを対象化して見る時、またそのような思惟対象の場所に映して見るのだ。意味そのものというものすら客観的と考えられるならば、かかるもの(作用)の成り立つ場所(思惟対象の場所)も客観的でなければならない。あるいはその様なものは単なる無に過ぎないと言うでもあろう。しかし思惟の世界においては無もまた客観的意義を持つのである。
 我々が物事を考える時、これを映す如き場所という如きものがなければならない。まず意識の野というものをそれと考えることができる。何物かを意識するには、意識の野に映さねばならない。そして映された意識現象と映す意識の野は区別されなければならない。意識現象の連続そのものの外に、意識の野という如きものはないとも言い得るだろう。しかし時々刻々に移り行く意識現象に対して、移らざる意識の野というものがなければならない。これによって意識現象が互いに相関係し相連結するのだ。あるいはそれを我という一つの点の如きものとも考え得るだろう。しかし我々が意識の内外というものを区別する時、私の意識現象は私の意識の範囲内にあるものでなければならない。かかる意味においての私は、私の意識現象を内に包むものでなければならない。右の如く意識の立場から出立して我々は意識の野というものを認めることができる。思惟作用も我々の意識作用である。思惟の内容はまず我々の意識の野に映されたものだ。(映された)内容によって対象を指示するのだ。今日の認識論者は内容と対象を区別し、内容は内在的であるが対象は超越的と考える。対象は完全に作用を超越して、それ自身によって立つものと考えられる。これ(対象)において我々は意識の野の外に出るのである。対象には意識の野という如きものはないと考えられる。しかし意識と対象が関係するには、両者を内に包むものがなければならない。両者の関係する場所という如きものがなければならない。両者(意識と対象)を関係させるもの何であろうか。対象は意識作用を超越するというも、対象が完全に意識の外にあるものならば、意識の内にある我々からして、我々の意識内容が対象を指示すると言う如きことを考えることもできない。対象が意識作用を超越すると言うことすらできない。カント学派では、認識対象界に対して主観的に超越的主観すなわち意識一般(純粋統覚)という如きものが考えられる。しかし認識主観(意識一般)において我々は意識を超越して意識の野の外に出ると言い得るだろうか。それ(意識一般)は意識の野の極限であるかもしれないが、意識の野が消滅するのではない。心理学的に考えられた意識の野(心理学的意識の野)というのは、既に考えられたものである。一種の対象に過ぎない。かかる意識の野(心理学的意識の野)を意識する意識の野はその極限においても、これ(意識の野)を超越することはできない。また我々が現実的と考える意識の野といえども、いつでもその背後に現実を超越したもの(意味)がある。いわゆる実験心理学的に限定される意識の野(心理学的意識の野)という如きものは単に計算することのできる感覚の範囲に過ぎない。しかし意識は意味を含んでいなければならない。昨日を想起する意識は意味においては昨日を包んでいなければならない。これ故に意識は一般的なるもの(意味)の自己限定とも言い得るのだ。感覚的意識といえども、それが(意味として)後の反省可能を含む限り意識現象と言い得るのである。一般的なるもの(意味)が、極限として達することができないと言うならば、個物的なるもの(超越的対象)も達することのできない極限と言わねばならない。
 カント学派においては認識とは形式によって質料を統一することであると考えるが、かかる考えの背後には、既に主観の構成作用という如きものが仮定されていなければならない。形式は主観に具せられたものと考えられているのだ。そうでなければ(主観が対象を把握するという)認識の意味を成さない。単に形式によって構成されたものというのは超対立的対象(判断の真偽という対立を超越した対象そのもの。超越的対象)に過ぎない。また客観的なる形式が客観的なる質料を構成するというならば、それは客観的作用であって(主観が対象を把握する)認識という意味を生じることはできない。形式と質料の対立と、主観と客観の対立は直ちに同一視することはできない。判断作用の対象を成すものは形式と質料の対立に異なった意味の対立が加わって来なければならない。判断の直接の内容を成すものは、真とか偽とかいうものでなければならない。形式と質料の対立を成立させる場所と真偽の対立を成立させる場所は異なったものでなければならない。認識の成立する場所においては、形式と質料が分かたれるのみならず、両者の分離と結合が自由でなければならない。かかる場合、超対立的対象(超越的対象)に対して、主観性というものが外から付加されるものと考え得るでもあろう。ラスクの如きも根本的なる論理的形式に対して、完全に非論理的なる体験の対象という如きものを根本的質料と考えている。しかし氏自身も認めている如く、知るということ(認識)も体験の一つでなければならない。体験内容を非論理的質料というも(非論理的質料は)いわゆる感覚的質料と同一ではない。体験の内容は非論理的というよりも超論理的である。超論理的というよりもむしろ包論理的と言わねばならない。芸術や道徳の体験についても斯く(包論理的と)言うことができるのである。認識の立場というのも体験が自己の中に自己を映す態度の一でなければならない。認識する(知る)というのは体験が自己(形式)の中に自己(体験の内容、質料)を形成することに外ならない。体験の場所において、形式と質料の対立関係が成立するのだ。斯く自己の中に無限に自己を映し行くもの、自己自身は無にして無限の有を含むものが、真の我としてこれにおいていわゆる主客の対立が成立するのである。この者は同ということもできない。異ということもできない。有とも無とも言えない。いわゆる論理的形式によって限定することのできない、かえって論理的形式をも成立せしめる場所である。形式を何処まで押し進めて行っても、いわゆる形式以上に出ることはできない。真の形式の形式(形式を成立せしめる形式)は形式の場所でなければならない。アリストテレスの「デ・アニマ」の中にも、アカデミケルに倣って精神を「形相の場所」と考えている。かくの如き自己自身を照らす鏡ともいうべきものは、単に知識成立の場所たるのみならず、感情も意志もこれにおいて成立するのだ。我々が体験の内容という時、多くの場合既にこれ(体験の内容)を知識化しているのである。これ故に(知識化された体験は)非論理的な質料とも考えられるのだ。真の体験は全き無の立場でなければならない。知識を離れた自由の立場でなければならない。この場所においては情意の内容も映されるのだ。知情意共に意識現象と考えられるのはこれによるのである。
 場所というものを以上述べた如く考えるならば、作用というのは、映された対象と映す場所との間において現れ来る関係と思う。単に映されたもののみが考えられた時、それは何らの働きなき単なる対象に過ぎない。しかしかかる対象の背後にも、これを映す鏡がなければならない。対象の存立する場所というものがなければならない。勿論、この場所が単に映す鏡であって、ただ対象がこれに於いてあるというのみならば、働く対象を見ることはできない。完全に己を空しくして、すべてのものを映す意識一般(純粋統覚)の野ともいうべきものにおいて、すべてが単なる認識対象として完全に作用を超越したものと考えられるのもこれによるのだ。しかし意識と対象が完全に無関係であるならば、これ(対象)を映すということも言われない。これ(意識)に於いてあるということすら不可能である。これ故にこの間を繋ぐものとして判断作用というものが考えられるのだ。一方に対象が作用を超越すると考えられるのみならず、一方に意識の野も作用を超越してこれ(作用)を内に包むものと考えられねばならない。そして意識一般(純粋統覚)の野が対象を容れて無限に広がると考えられた時、対象は意識一般の野において種々なる位置を取ると考えることができる。種々なる形において映され得ると考えることができる。これにおいて対象が種々に分析され、抽象されいわゆる意味の世界が成立すると共に、斯く対象を種々なる位置、種々なる関係において映すことが一方において判断作用と考えられるのだ。そして超越的対象と意識一般の野が相離れて、作用がその孰れにも属することができない時、作用の統一者としていわゆる認識主観という如きものが考えられるのである。常識的に物が空間に於いてあると考えるならば、物と空間が異なると考えられる以上、物は空間に於いて種々なる関係において立つことができる。種々にその形状位置を変じると考えることができる。これにおいて、我々は物と空間のほかに力という如きものを考えざるを得ない。そして力の本体として物が力を持つと考えることもできれば、力を空間に属せしめて物理的空間というものを考えることもできるのである。私は知るということを意識の空間に属せしめて考えてみたいと思う。
 従来の認識論が主客対立の考えから出立し、知るとは形式によって質料を構成することであると考える代わりに、私は自己の中に自己を映すという自覚の考えから出立してみたいと思う。自己の中に自己を映すことが知るということの根本的意義であると思う。自分の内を知るということから、自分の外のものを知るということに及ぶのである。自己に対して与えられるというものは、まず自己の中において与えられねばならない。あるいは自己を統一点の如く考え、いわゆる自己の意識内において知るものと知られるものと、すなわち主と客と、形式と質料と相対立すると考えるでもあろう。しかしかくの如き統一点という如きものは知るものと言うことはできない。既に対象化されたもの、知られたものに過ぎない(既に考えられたものであり、それは対象化するもの、知るものではない)。かかる統一点を考える代わりに、無限なる統一の方向を考えるにしても同じである(その統一の方向は既に考えられたものであり、考えるもの、対象化するものではない)。知るということはまず内に包むということでなければならない。しかし包まれるものが包むものに対して外的なる時、物体が空間に於いてあると考えられる如く、(包まれるものが)単にあるということに外ならない。包むものと包まれるものが一と考えられる時(例えば、赤は色である〈赤は色に於いてある〉)、無限の系列(色の系列)という如きものが成立する。そしてその一なるものが無限に自己自身の中に質料を含むと考えられる時、無限に働くもの(自ら変化するもの)、純なる作用という如きもの(視覚作用)が考えられる。しかしそれはなお知るものと言うことはできない。ただ、かかる自己自身に於いてあるもの(純なる作用)を更に内に包むと考えられる時、初めて知るということができる。形相と質料の関係について言えば、単に形相的構成ということが知るということではなく、形相と質料の対立を内に包むことが知るということでなければならない。質料も低次的形相と見るならば、知るものは形相の形相とも言うことができる。(知るものは)純なる形相、純なる作用をも超越し、これらを内に成立せしめる場所という如きものでなければならない。ラスクの如く、主観が客観的対象の破壊者と考えられるのもこれによるのだ。物体が空間において可分的と考えられる如く、思惟の対象は思惟の場所において可分的と考え得るのである。物体が空間において種々なる意味において無限に可分的なる如く、思惟の対象は思惟の場所において可分的である。あるいは知るものを右の如く考えるならば主客対立の意義が失われ、主観に統一とか作用とかいう意味がなくなると考えるであろう。主観という意味がなくなるとも言い得るでもあろう。今この問題に深入りすることはできないが、単に物が空間に於いてあると言う如き場合においては、空間と物は互いに外的であって、空間に主観という如き意味はないだろう。しかし物の本体性がその於いてある場所の関係に移って行く時、物は力に還元される。しかし力には力の本体というものが考えられねばならない。関係には関係の項というものがなければならない。この本体というものを何処に求めるべきであるか。これを元の物に求めるならば、何処までも力に還元することのできない物というものが残ることとなる。これを空間そのものに帰するならば、空間的関係の項として点という如きものを考える外はない。しかし関係の本体となるものが単に点という如きものならば、力という如きものはなくならねばならない。真に力の関係を内に包むものは力の場という如きものでなければならない。そして力の場においては、すべての線は方向を持ったものでなければならない。知るものを包むものと考えることによって、主客対立の意義を失うと考えるのは、含まれるものに対して外的なる場所(力の場ではなく、物に対する空間の如きもの)が考えられる故である。単に空虚なる空間という如きものは、真に物理現象を内に包むもの(力の場)ではない。真に種々なる対象を内に包むというべきものは、空間において種々なる形が成立する如く、自己の中に自己の形を映すものでなければならない。斯く言えば「於いてある」と言う如き意味が失われるとも言い得るだろう。対象を包んで無限に広がる場所の意味がなくなると言うでもあろう。ただ、すべての認識対象を内に包みつつしかもこれを離れている意識の野においては、この二つの意味(自己の中に自己の形を映すことと、場所に於いてあるということ)が結合すると考えることができるのである。
 知るということが自己の中に自己を映すことであり、作用というのは映されるものと映す場所との関係において見られ得るとするならば、完全に作用を超越したラスクのいわゆる対立なき対象(超越的対象)という如きものはいかなるものだろうか。かかる対象も何かに於いてあらねばならない。我々が有るというものを認めるには、無いというものに対して認めるのである。しかし有るというものに対して認められた無いというものは、なお対立的有である。真の無はかかる有と無(対立的有)を包むものでなければならない。(真の無は)かかる有無の成立する場所でなければならない。有を否定し有に対立する無(対立的有)が真の無ではなく、真の無は有の背景を成すものでなければならない。例えば、赤(有)に対して赤ならざるもの(対立的有)もまた色である。色を持つもの、色が於いてあるものは色でないものでなければならない。赤もこれに於いてあり、赤でないものもまたこれに於いてあるものでなければならない。我々が認識対象として限定する以上、有無の関係にまでも同様の考えを推し進めることができると思う。かくの如き「於いてある場所」という如きものは、色の如き場合においては物と考えられる。アリストテレスの如く性質が物に於いてあると言い得る。しかしそれでは場所の意義は失われて物が属性を持つということとなる。これに反し物が何処までも関係(性質)に溶かされて行くと考えられる時、有無(有と対立的有)を含んだもの(無)は一つの作用(例えば、視覚作用)と考えられる。しかし作用の背後にはなお潜在的有(作用という有)が考えられねばならない。本体なき働き、純なる作用というのは本体的有に対して言われ得るのだが、作用から潜在性を除去するならば、作用ではなくなる。かかる潜在的有(作用)の成立する背後に、なお場所という如きもの(作用が於いてある場所)が考えられねばならない。物がある性質を持つと考えられる時、これに反する性質はその物に含まれることはできない。だが、働くもの(自ら変化するもの)はその中に反対を含むものでなければならない。変じるものはその反対に変じ行くのだ。これ故に有無(有と対立的有)を含む場所そのものが直ちに作用とも考えられるだろう。しかし一つの作用というものが見られるには、その根柢に一つの類概念(例えば、色)が限定されねばならない。一つの類概念の中においてのみ相反するものが見られるのだ。作用の背後にある場所は真に無なるもの、すなわち単に場所という如きものではなく、ある内容を持った場所、あるいは限定された場所(類概念の範囲内の場所)とも言うべきだろう。作用においては有と無(対立的有)と結合するが、無が有を包むとは言われない。真の場所(真の無の場所)に於いては或物がその反対に移り行くのみならず、その矛盾に移り行くこと(例えば、色から色でないもの、音などに移り行くこと)が可能でなければならない。類概念の外に出ることが可能でなければならない。真の場所は単に変化の場所ではなく生滅の場所である。類概念をも超えて生滅の場所に入る時、もはや働く(自ら変化する)ということの意味もなくなる。ただ見るという外はない。類概念を場所として見ている間は、我々は潜在的有(作用)を除去することはできない。ただ働くもの(自ら変化するもの)を見るに過ぎないが、類概念をも映す場所に於いては、働くものを見るのではなく、働きを内に包むものを見るのだ。真に純なる作用というのは、働くものでなく、働きを内に包むものでなければならない。潜在的有(作用)が先立つのではなく、現実有(働きを内に包むもの)が先立たねばならない。これにおいて、形式と質料の融合する対立なき対象(超越的対象)を見ることができるのである。
 かくの如き対立なき対象(超越的対象)というべきものは、完全に意識の野を超越したものと考えられるのだが、もし完全に主観の外にあるものならば、いかにしてそれが主観の中に映じ来り、認識作用の目的とならねばならないのだろうか。私はかかる対象(超越的対象)といえども、場所という如き意味における意識の野の外にあるのではない、何処までも場所によって裏付けられていると思う。場所が単に有を否定した対立的無と考えられた時、対象は意識の野の外に超越すると考えざるを得ない。対象はそれ自身に存立していると考えられるのだ。普通にいわゆる意識の立場というのは、先に言った如く有に対する無の立場である。有に対する無が一つの類概念としてすべてを包摂する時(例えば、色)、無は一つの潜在的有(例えば、視覚作用)となる。いかなる有(潜在的有、作用)をも否定し果てしなき無の立場に立つ時、すなわち有に対して無そのものが独立する時、意識の立場という如きものが現れる。そして斯くすべての有を超えた立場において、すべての有が映され、分析され得ると考えられるのだ。しかし真の無はかかる対立的なる無(有に対する無、有を否定した無)ではなく、有無を包んだものでなければならない。あらゆる有を否定した無といえども、それが対立的無であるかぎり、なお一種の有でなければならない。限定された類概念の外に出るといえども、それがなお考えられたものとして、一つの類概念的限定(意識)を脱することはできない。これ故にそこに一種の潜在有(作用)の意義すら認められ、唯心論的形而上学も成立するのである。真の意識というのは右の如き意識(あらゆる有を否定した対立的無)をも映すものでなければならない。いわゆる意識とはなお対象化されたものに過ぎない。真の無の場所というのはいかなる意味においての有無の対立をも超越してこれを内に成立せしめるものでなければならない。何処までも類概念なるものを破った所に、真の意識を見るのだ。対立なき超越的対象といえども、かかる意味における意識の外に超越するとは言い得ない。かえってこの場所に映されることによって、対立なきものと見られるのである。対立なき対象(超越的対象)というのは我々の当為的思惟の対象となるものである。いわゆる判断内容を一義的に決定する標準となるものである。もし我々がこれに反して考えた場合、我々の思惟は矛盾に陥る外はない。思惟は思惟自身を破壊することとなる。かかる意義を離れて対立なき対象(超越的対象)という如きものの考え様はない。かかる対象を見る時、我々は(真偽という)対立的内容の成立する主観的意識の野を超越して外に出ると考えられるでもあろう。しかしそれは対立的なる無の立場(意識の立場)から真の無の立場(徹底した意識の立場)に進むということに外ならない。いわゆる意識の立場を棄てるのではない。かえってこの立場に徹底することである。真の否定(意識)は否定の否定(意識の意識)でなければならない。そうでなければ(真の無は意識の立場の徹底ということでなければ)意識一般の如きも無意義と択ぶ所はない。(意識一般において)意識という意味はなくなるのである。我々が斯く考えざるを得ない、そうでなければ矛盾に陥ると言い得る時、かかる意識の野はいわゆる超越的対象を内に映しているのでなければならない。かかる立場は否定の否定として真の無なるが故に、すべて対立的無の場所(意識の場所)に映されるもの(対立的対象、意味)をも否定することができるのだ。この場合、対象が対象に自身に於いてあると考えられるかもしれないが、単に対象がそれ自身に於いてあるならば、いわゆる意識内容の標準となることはできない。対象の於いてある場所はいわゆる意識もまたこれに於いてある場所でなければならない。我々が対象そのものを見る時、それを直覚と考えるでもあろう。しかし直覚もまた意識でなければならない。いわゆる直覚も矛盾そのもの(超越的対象)を見る意識の野というものを離れることはできない。普通に直覚と思惟は全く異なるものと考えられるが、直覚的なるものがそれ自身を維持するには、やはり「於いてある場所」という如きものがなければならない。そしてこの場所は思惟(意識)の於いてある場所と同じものである。直覚的なるものがその於いてある場所(思惟の於いてある場所)に映された時、思惟内容となるのである。いわゆる具体的思惟という如きものにおいては、直覚的なるものも含まれていなければならない。意識は何処までも一般概念的背景を離れることはないと思う。一般概念的なるものが何時でも映す鏡の役目を演じているのだ。我々が主客合一と考えられる直覚的立場に入る時でも、意識は一般概念的なるものを離れるのではない。かえって一般概念的なるものの極致に達するのだ。矛盾を意識する立場(直覚的立場)において一般概念的なるものを破って外に出ると言うのは、対象化された一般概念的なるものを意味するのである。かくの如きは既に限定されたもの、特殊なるものに過ぎない。知るという意味をも持たない。直覚的なるものを映す場所は、直ちにまた概念の矛盾を映す場所でなければならない。
 直覚の背後に、意識の野とか、場所とかいうものを認めると言うには、多くの異論があるかもしれないが、直覚というのが単に主もなく客もないということを意味するならば、それは単なる対象に過ぎない。既に直覚といえば、知るものと知られるものが区別され、しかも両者が合一するということでなければならない。そして知るものは単に構成するとか、働くとかいうことを意味するのではなく、知るものは知られるものを包むものでなければならない。否これ(知られるもの)を内に映すものでなければならない。主客合一とか主もなく客もないと言うことは、ただ、場所が真の無となると言うことでなければならない。単に映す鏡となるということでなければならない。特殊なるものが客観的と考えられ、一般なるものは単に主観的と考えられているが、特殊なるものも知識内容としては、主観的であると言うことができ、もし特殊に対して客観的所与を認めるならば、一般的なるものに対しても(自己同一なるものとして)客観的所与という如きものを認め得るだろう。カント哲学においてはこれが単に先験的形式と考えられるのだが、かかる考えの根柢には、主観の構成作用によって客観的所与を構成するという考えが前提となっているのだ。しかし構成するということは、直ちに知るということではない。知るということは、自己の中に自己を映すということでなければならない。真のアプリオリは自己の中に自己の内容を構成するものでなければならない。これ故に構成的形式の外に、ラスクの如く領域の範疇Gebietskategorieというものをも考え得るのだろう。我々の認識対象界において限定された一般概念を見るのは、かかる場所が自己を限定するによるのだ。場所が場所自身を限定したもの、あるいは対象化したものがいわゆる一般概念となるのである。プラトンの哲学においては、一般的なるものが客観的実在と考えられたが、真にすべてのものを包む一般的なるものは、すべてのものを成立せしめる場所でなければならないという考えには到らなかった。これ故に場所という如きものはかえって非実在的と考えられ、無と考えられたのである。しかしイデヤ自身の直覚の底にもかかる場所がなければならない。最高のイデヤといえどもなお限定されたもの、特殊なるものに過ぎない。善のイデヤといっても相対的たるを免れない。単に対立的なる無の場所(対立的無)を意識の場所として考える時、直覚においてはかかる場所が消失すると考えられ、更に直覚が於いてある場所という如きものは認められないかもしれないが、私はかかる場所は直覚の内に包み込まれるのではなく、かえって直覚そのものをも包むものであると思う。直覚が於いてあるのみならず、意志や行為もこれに於いてあるのである。意志や行為も意識的と考えられるのはこれによるのだ。デカートは延長と思惟を第二次的本体と考え、一方に運動をも延長の様態と考え、一方に意志をも思惟の様態と考えたが、かかる意味における真の延長は物理的空間の如きものでなければならないと共に、真の思惟は右の如き場所でなければならない(?)。意識するということと、知識の対象界に映すということがすぐ一つに考えられるが、厳密なる意味において知識の対象界に情意の内容を映すことはできない。知識の対象界は何処までも限定された場所の意味を脱することはできない。情意の映される場所は、なお一層深く広い場所でなければならない。情意の内容が意識されるということは、知識的に認識されるということではない。知情意に共通なる意識の野はその孰れにも属せないものでなければならない。いわゆる直覚をも包んで無限に広がるものでなければならない。最も深い意識の意義は真の無の場所ということでなければならない。概念的知識を映すものは相対的無(対象化された無)の場所たることを免れない。いわゆる直覚において既に真の無の場所に立つのであるが、情意の成立する場所は更に深く広い無の場所でなければならない。これ故に我々の意志の根柢に何らの拘束なき無が考えられるのである。


 私はいま再び始の考えに戻ってみよう。有るものは何かに於いてあると考えざるを得ない。無論、ここに有るというのは存在の意味ではない。極めて一般的なる意味に過ぎない。例えば種々なる色は色の一般概念に於いてある。色の一般概念は種々なる色の於いてある場所と考えるのである。アリストテレスの如く性質は本体に於いてあると考え、そして彼の第二の本体の如きものを考えるならば、種々なる色は一般的なる色自身(第二本体)に於いてあると考えることができる。種々なる色の関係は色自身の体系によって構成されるのだ。(色自身の体系は)色の判断の真の主語となる色自体でなければならない。一般的なるものは単に主観的と考えられるが、いわゆる個物的なるものも考えられたもの(主観的なもの)に過ぎない。かくの如き客観的一般者(色自体)において特殊なるものはいかなる関係において立つであろうか。色自体の如きものが種々なる色を持つということはできない。持つというにはその背後に隠れた或物が考えられねばならない。そしてその或物は全く類を異にする性質をも持ち得るものでなければならない。ならば特殊なる色は色自体の作用と考え得るだろうか。色自体という如きものは未だ働くもの(自ら変化するもの)ではない。時の関係を含むものではない(時を含むことによって自ら変化するものではない)。ただ一般的なるものは特殊なるものを含み、後者は前者に於いてあるのみだ。あたかも形あるものは形なきものの影であると言う如く、形なき空間そのものの内に無限の形が成立する如き関係であろう。無論、空間においては、なお空間に特有なる種々の関係が入って来るだろうが、空間的関係の基にも一般と特殊の関係があり、これによって種々の空間的関係が構成されるのだ。赤は色であるという判断において、繋辞(命題の主語と客語をつなぎ、両者の関係を言い表す言語的表現。赤は色であるの、「である」の類)は客観的には一般的なるものに於いて特殊なるものがあり、一般なるものが特殊なるものの場所となると言うことを意味する。真に一般的なるものは、自己自身に同一なるものであり、種差を内に包むものでなければならない(例えば、色という一般的なるものは、色として自己自身に同一なるものであり、色たる種差を内に含む)。そして対象が意識を超越すると考えるだけならば、単に特殊なるものが一般なるものに於いてあると言う外ないが、更にこの場所の意味を深くして、いわゆる意識もこれ(場所)に於いてあると考えるならば、真の場所は自己の中に自己の影を映すもの、自己自身を照らす鏡という如きものとなる。有が有に於いてある時、後者が前者を持つということができ、顕れた有(例えば、色)が顕れない有(潜在的有。例えば、視覚作用)に於いてある時、前者は後者の顕現であり後者が働く(自ら変化する)ということができるが、有が真の無に於いてある時、後者が前者を映すという外はない。映すということは物の形を歪めないで、そのままに成り立たしめることである。そのままに受け入れることである。映すものは物を内に成り立たしめるが、これに対して働くものではない。我々は鏡が物を映すと考えるのも、斯く考えるのだ。無論、鏡は一種の有であるから、真に物そのものを映すことはできない。鏡は物を歪めて映すのである。鏡はなお働くものである。他の物の影を宿すものが有であればあるほど、映されたものは、他の肖像ではなく、単に象徴となり、符号となる。更に或物が他に於いてあるという意義を失うに至れば、両者独立して、単に相働くとか、相関係するとか言う外はない。一般的なるものが単に主観的ではなく、(自己同一なるものとして)それ自身に客観性を有するとするならば、客観的一般者に於いて特殊なるものがあるという義は、一般なるもの(客観的一般者)が特殊なるものの形を歪めないで、そのままに内に成立せしめると言うことでなければならない。一般なるものが特殊なるものを持つのではない。特殊なるものが一般的なるものの結果というのでもない。また単に空間が物を含むとか、物が空間に於いてあるとかいう意味において含むのでもない。一般と特殊は物と空間という様に相異なるのでもない。特殊なるものは一般なるものの部分であり、かつその影像である。しかし一般なるものは特殊なるものに対して、何ら有の意義を有するのではない。完全に無である。物が個物的であればあるほど、一般的でなければならないと考えられる時(例えば、太郎は人間である)、その一般的なるものは個物的なるものを自己の中に映すものでなければならない。あるいは一般と特殊の間には、映す映されるという関係はないと言うでもあろう。しかし何かが何かに於いてあるという時、既にその両者の間に何らかの関係がなければならない。徳は三角に於いてあるなどと言うことはできない。「於いてあるもの」は自己の(於いて)ある場所の性質を分有するものでなければならない。空間に於いてある物は空間的でなければならない。そしてその性質がその物に本質的なるかぎり、すなわちそれによってその物の存在が認められるかぎり、一つのものが一つのものに於いてあると言い得るのだ。これ故に完全に一つのものが一つのものに於いてあるというには、前者は後者の※様相でなければならない。
※ 引用 様相とは 

かかる場合、我々は直ちに本体と様相という如きものを考えるのだが、構成的範疇(意識から独立に対象そのものを規定する範疇)の前に反省的範疇(意識が対象を反省することによって生じる範疇)があるとすれば(「働くもの」参照)、本体なき様相とも言うべき純性質的なるもの(例えば、赤や青など)が互いに相区別し、互いに相関係すると言うには互いに相映し映されることによって、客観的に自己自身の体系を維持すると言う外はない。直接なる経験の背後に考えられた本体という如きものを除去する時、本体なき作用、純なる作用の世界を見る。しかしなお何らかの意味において働くもの(例えば、視覚作用)という如きものが考えられている。更に働くものをも除去する時、純なる状態の世界を見る。すなわち本体なき様相の世界を見る。統一を内に見ることによって純粋作用の世界を見ることができるならば、更にこれを推し進めて純粋状態の世界と言う如きものを見ることができるだろう。構成的範疇の世界以前に考えられる反省的範疇の世界は、かくの如きものでなければならない。映すと言えば我々は直ちに一つの働きを考えるのだが、働くということから映すということは出て来ない。かえって無限に自己の中に自己を映すということから、働くものを導き出すことができるのである。働くという考えは有限なる一般者、色どられた場所の中に無限の内容を映そうとするより起こるのだ(例えば、色という一般者に、無限の色合いを映そうとすることから、視覚作用という働くものという考えが起こる)。すべての有を否定する無の場所に於いては、働くことは単に知ることとなる。知るということは映すことである。更にこの立場を超えて真の無の場所に於いては、我々は意志そのものをも見るのだ。意志は単なる作用ではなく、その背後に見るものがなければならない。そうでなければ(意志は)機械的作用や本能的作用と択ぶ所はない。意志の背後に於ける暗黒は単なる暗黒ではなく、ディオニシュースのいわゆるdazzling obscurity(眩しい暗黒?)でなければならない。かかる立場における内容が対立的無の立場(意識の立場)に映された時、作用としての自由意志を見るのだ。意志も意識の様相と考えられるのはかくの如き考えに基づかねばならない。作用としての自由の前に状態としての自由があるのである。
 繋辞としての「ある」と存在としての「ある」を区別すべきことは言うまでもないが、物があるということも一つの判断である以上、両者の深き根柢に相通じるものがなければならない。「ある」という繋辞は、特殊なるものが一般なるものの中に包摂されることを意味する。一般なるものの方から言えば、包摂することは自己自身を分化発展することである。判断とは一般なるものが自己自身を特殊化する過程と考えることができる。無論、特殊化の過程というも、直ちに時間に現れる出来事を意味するのではない。単に一般と特殊の関係を示すのみである。いわゆる具体的一般者(自己同一なるものとして一般的であるとともに、具体的全体としてどこまでも主語となって述語とならないもの。「働くもの」参照)というものが考えられるならば、判断的関係はその中に含まれると考えねばならない。そして真の一般なるものは、いつも具体的一般者でなければならない。我々が外に物があるという時、それは繋辞の「ある」ではなく、存在するということでなければならない。しかしかくの如き存在判断が一般妥当的として成立するには、その根柢にやはり具体的一般者が認められねばならない。実在が判断の主語となると考えられるのは、これによるのだ。非合理的なるものの合理化によって、存在判断が成立するのである。時間空間というもかかる合理化の手段に過ぎない。斯く考え得るならば、存在するということは具体的一般者の立場からの繋辞を意味し、繋辞の「ある」というのは抽象的一般者(例えば、赤は色であるの、赤)からの存在を意味すると考えることもできる。自然界において物があるということは存在判断の妥当なるを意味し、赤は色であるということは赤は色の概念に於いてあるということを意味する。いわゆる存在とは一般的繋辞の特殊なる場合と考えることができる。特殊なるものが一般なるものに於いてある時、我々は単に有ると考える。有が有に於いてあるのだ。例えば色は自己自身に体系を成して自己自身に於いてあると考えられる。いわゆる対立なき対象(超越的対象)となるのだ。自然的存在も同様の意味において超越的対象である。これに反し、有が更にその於いてある無の場所に映される時、空間に於ける物が種々の象面において見られる如く、いわゆる対立的対象(意味)の世界が現れて来る。対立的無の立場(意識の立場)において、意識作用としての判断すなわち判断作用というものが考えられるのだ。判断作用とは対立的無(という一般的なるもの)の特殊化である。対立的無(意識)はなお真の無の上に映された有なるが故に、一種の有として作用の基体(主語となって述語とならない本体)となるのだ。しかし無が基体なるが故に、意識作用(判断作用)そのものの内容は見られない。ラスクの言う如く単に当たるTreffenとか当たらぬNichttreffenとかいうに過ぎないのだ。しかしかかる作用も真の無の場所に於いては作用の意味を失って具体的一般者の繋辞となる。真の無の場所に於いてあるということは、それが妥当するということである。対立的無の場所(意識の場所)に於いてはなお作用を見るが、真の場所に於いては単に妥当的なるものを見るのだ。カントの意識一般もすべての認識の構成的主観としては、真の無の場所でなければならない。この場所に於いては、すべて「於いてあるもの」は妥当するものである。これにおいて、すべて存在的有は変じて繋辞的有とならねばならない。しかし意識一般もなお真の無の立場ではない。対立的無(意識)の立場から絶対的無の立場への入口に過ぎない。更にこの立場を超えて叡智的実在の世界がある。理想即実在の世界がある。これ故にカントの批評哲学を超えてなお形而上学が成立するのだ。有るものは何かに於いてなければならない。論理的には一般なるものが、その場所となる。カントが感覚によって知識の内容を受け取ると考えた意識は、対立的無(意識)の場所でなければならない。単に映す鏡でなければならない。かかる場所に於いて感覚の世界があるのだ。意識一般はかかる意味においての意識ではない。いわゆる意識作用もこれに於いてある場所でなければならない。対立的無(意識)を含む無でなければならない。外を映す鏡ではなく内を映す鏡でなければならない。これに於いてあるものは、すべて単なる妥当となるのであるが、真の無の場所に於いては、かくの如く妥当するものがすなわち存在でなければならない。かくの如き真の無の場所に於ける存在の世界は、純粋思惟の対象界にあらずして、純粋意志の対象界と考えることができる。対立なき対象(超越的対象)がその於いてある場所に映されることによって、対立的対象(意味)を生じる如く、真の無の場所に於いてある叡智的存在すなわち純粋意志の対象に対して、その対立的対象の世界すなわち反価値の世界が成立するのだ。この世界においては広義における善のみ実在であると言い得るだろう。醜なるもの、悪なるものは物なき空間が無と考えられる如く、無(非実在)と考えられる。アウグスチヌスの如く悪は無であると言うことができる。そしてこの世界における意志作用は認識の世界における判断作用に相当するだろう。ただ、真の無の場所に於いてのみ自由なるもの(純粋意志)を見ることができる。限定された有の場所に於いて単に働くもの(自ら変化するもの)が見られ、対立的無の場所(意識の場所)に於いていわゆる意識作用が見られ、絶対的無の場所に於いて真の自由意志を見ることができる。対立的無(意識)もなお一種の有なるが故に、意識作用には断絶がある。昨日の意識と今日の意識はその間に断絶があると考えられる。真の無は対立的無(意識)をも超えてこれを内に包むが故に、行為的主観の立場において昨日の我と今日の我は直ちに結合するのだ。かく考えられる意志は原因なきのみならず、それ自身において、永遠でなければならない。かかる場合、意志の背後に無意識なるものが考えられるのだが、意識の背後は絶対の無でなければならない。すべての有を否定するのみならず、無をも否定するものがなければならない。時間上に生滅する意識作用が意識するのではない。意識は永久の現在でなければならない。意識においては、過去は現在においての過去、現在は現在においての現在、未来は現在においての未来ということができる。いわゆる現在は現在の中に映された現在の影だ。かかる意識の本質を明らかにするものは、知識の経験にあらず、むしろ意志の体験である。これ故に意志の体験において我々の意識は最も明瞭となると考えられるのだ。そして知識も意識であるかぎり、一種の意志と考えることができるのである。


 意識の根柢には一般なるもの(自己同一なるもの)がなければならない。一般的なるものが、すべて有るものが於いてある場所となる時、意識となるのである。一般的なるものがなお一般的なるもの(一般概念)として限定される限り、すなわち真の無なる場所とならざる限り、(意識の)外に本体を見、内に一般概念を見るのだ。すべての実在を包含するスピノーザの本体といえども、なお無に対する有であって、すべて有るものを含むことができるとするも、否定的意識作用(潜在的有)を含むことはできない。真に主語となって述語となることなき本体というべきもの(一般的なるもの)は、単に判断の対象となるのみならず、判断そのものをも内に包むものでなければならない。有無対立の立場から真の無の立場に移る時、その回転の点において、カントのいわゆる意識一般の立場が成り立つ。この立場から見れば、すべてが認識対象となる。理論的妥当となる。すべてが認識対象界に映された影像に過ぎない。真実在は認識対象界の後ろに形を潜めて、不可知的なる物自体となる。意識一般の立場はすべての有を包む無の立場なるが故に、何処までも意識の立場(対立的無の立場)たることを失わない。しかしそれ(意識一般)は実在としての意識ではない。働く意識ではない。意識作用(潜在的有、働く意識)というものも意識一般の立場に於いて見られた認識対象に過ぎない。これにおいて、問題となるのは判断作用である。判断作用は一方において時間上に現れる出来事たると共に、一方において意味を荷うものでなければならない。完全に作用を超越すると考えられる意識一般が、いかにして意識作用(判断作用)と結合するのだろうか。内面的意味の世界も一種の対象界とするならば、かかる対象界を見る意識一般は、単なる超越的対象を見る意識一般と同一の意義のものだろうか。真にすべてを対象化する意識一般は作用を超越するものでなく、何処までも自己の内に退いて、(作用を含む)すべての対象を内に包むものでなければならない。無にして有を包むものを意識とするならば、(意識一般は)無限に深き意識の意味がなければならない。いわゆる意識一般とは対立的無(意識)から真の無に転じる門口である。対立的有の立場において不可知的なる力の作用(超越的対象)であったものは、対立的無(意識)の立場において意識作用となり、真の無の門口たる意識一般を超えることによって、広義における意志作用となる。判断作用というのは丁度意識一般の立場において見られるのだ。判断と意志は一つの作用の表裏と考えることができる。意識一般の立場を突き詰めれば、何らの内容ある作用を見ることはできない。認識対象界の窮まる所、単に抽象的なる当たる、当たらぬ(そうだ、そうでない)という如き作用を見るのみである。そしてかくの如き作用(判断作用)の裏面には意志作用が考えられなければならない。円い四角形という如きものを意識するには、(判断作用の)背後における意志の立場が加わらねばならない。構成的範疇の背後に反省的範疇があると考え得るならば、反省的範疇の制約をも破ることによって、我々は随意の世界(意志の対象界)に入るのだ。抽象的思惟(そうだ、そうである)と抽象的意志(抽象的思惟の背後にある意志)は一つの門口(意識一般)の両面である。この門口を過ぎれば、自由なる意志の対象界に入る。この世界においては、すべて有るものは妥当的実在であり、叡智的存在である。あるいは妥当的対象の背後に存在(叡智的存在)を考えることの不当なるを言うでもあろう。(普通には)存在の前に当為があると考えられる。しかし何故にいわゆる自然科学的実在のみが存在と考えられねばならないだろうか。今深く存在の問題に入り込むことはできないが、実在の根柢には非合理的なるものがなければならない。感覚的なるものが実在と考えられるのもこれによるのだ。しかし単に非合理的なるものが実在と考えられるのではない。(実在は)理性によって到達することができないと共に、何処までも理性化されるべきもの(一般化、合理化されるべきもの)でなければならない。アリストテレスが判断の主語となって述語とならないもの(基体)と言うのは、最もよくかかる意義を言い表したものだろう。空間、時間、因果の主語となるものを求めるならば、いわゆる具体的一般者というものが最もそれに適当するだろう。具体的一般者が実在ということができる。その根柢となる一般者が限定された有であるかぎり、本体(実体)という如きものが考えられ、それが対立的無(意識)なる時、純なる作用という如きものが考えられ、それが真の無なる時、すなわち単なる場所ともいうべき場合、いわゆる叡智的存在という如きものが考えられるのだ。いずれ(本体、作用、叡智的存在)も同様の意義において、存在ということができる。私のいわゆる場所の意義に従って、種々の異なる存在の意義を生じるのだ。まず感覚的性質が於いてある場所の意味が一般化されるとき、空しき空間(本体)となる。しかし空間も一種の有である、更に空間もこれに於いてある場所という如きものは、超越的なる意識の野という如きものでなければならない。感覚的なるものが直ちにこれ(意識の野)に於いてあると考えられる時、精神作用となる。いわゆる意識の野とは否定的無(対立的無)なるが故に、感覚的なるものの背後に考えられる基体すなわちいわゆる物は消滅して、感覚の背後にはただ無(意識)が見られる。感覚は無から生じると考えられる。すなわち(感覚は)純なる作用となる。しかし作用もその於いてある場所(意識)においては一種の存在(潜在的有)である。真の無の門口たる意識一般に於いては、作用も存在の意義を失い、一旦はすべてが当為となるだろうが、更に場所が真の無そのものとなる時それ(当為)がまた一種の有と考え得るだろう。これ(真の無)に於いてあるものはただ叡智的存在であり、当為はその影となるのである。
 意識一般は真の無の場所に入る門口なるが故に、物自体の如きものは否定されて、すべてが認識対象となる。しかし真の無の場所そのものにおいては、この立場(意識一般の立場)を超えて更に主語となって述語とならない基体を見ることができる。真に主語となって述語となることなき基体というべきものは、判断を超越したものではなく、判断を内に包むものでなければならない。単に判断の主語となるのみならず、判断の目的となるものでなければならない。判断の根元となりまたその目的となるものが、真に判断の主語となり得るのだ。いわゆる自然的存在もこの一例として存在と考えられるのである。ただ、意識一般を認識主観として、その上に出でることのできない頂点と考えた時、我々は更にこれ(意識一般)を超えて存在を考えることはできない。叡智的存在という如きものは形而上学的として排斥する外はない。しかし判断は一つの意識作用ではあるが、意識の全体ではない。判断はすなわち意識ではない。我々は判断の意識の外に意志の意識を持っている。意志も意識現象であり、意志の背後にもこれを知るものがあると考え得るが故に、意志よりも知識が一層深きものであり、意志も判断の対象となると考えられるのだが、意志を意識するものは単に判断するもの(意識一般)ではない。意志を意識するものは判断をも意識するものである。無から有を生じる。無にして有を含むということが、意識の本質である。意識するということと、意識しないということが区別され、心理学者は意識の範囲というものを定めるが、かかる区別を意識するものは何であるか。意識の範囲として限定されたものは、意識されたもので(対象化されたもので)、意識するものではない。真に意識するものはいわゆる意識として限定されないものをも、内に包むものでなければならない。意識の背後に潜在的なる何物かが考えられた時、もはや意識ではない。力の発展となる。意識の立場はある一つの限定された立場に対して、無にしてこれを包むが故に、意識の意義を持つことができるのである。しかし何らかの意義においてその高次的立場(真の無の意識)が限定された時、更に(意識が)於いてある無の立場が認められ、(意識は一種の有として)意識の意義を失わなければならない。真の意識の立場は最後の無の立場でなければならない。意識の底には、これを繋ぐ他の物があってはならない。かかるものがあれば意識ではない。意識の流れは一方から見れば、時々刻々に移り行き、一瞬の過去にも返ることができないと考えられると共に、その根柢には永遠に移らざるもの(真の無の立場)がなければならない。ただこの永遠に移らざるものが無なるが故に、意識は繰り返すことができないと考えられるのだ。もし意識の根柢に何らかの意味において有が認められるならば、それ(有)によって意識は繰り返すことのできるものとならねばならない。意識の根柢にはただ、永遠の無あるのみである。我々が内部知覚において直接に対象を見ると考えるのもこれによるのだろう。対象が意識そのものとして見られた時、その背後に何物もない。我々は物そのものを見ると考えられるのだ。そして真の無の立場というのは、一つの理想(極限)に過ぎないから、内部知覚も単なる極限に過ぎないのである。意識の本質を右の如く考えるならば、判断ということよりも、意志ということが、なお一層深き意味において知ることでなければならない。知識においては、無にして有を映すと考えられるが、意志においては、無から有を生じるのだ。意志の背後にあるものは創造的無である。生む無は映す無よりも更に深き無でなければならない。これ故に我々は意志において、最も明らかに自己を意識し、意識の最高強度に達する(最も明白に意識を意識する)と考えるのだ。無から有を作るということは、潜在的なるものも無に於いてあると言うことでなければならない。潜在的なるものをも内に映すと言うことでなければならない。アウグスチヌスは神は時の中において世界を創造したのではない。時も神の創造したものであると言い、作るといえば質料がなければならないが、神は無から質料をも作ったと言う如く、無から有を創造するもの(真の無の立場)は、単に時を超越し質料を離れた形相ではなく、時もこれに於いてあり、質料もこれに於いてあるものでなければならない。すなわち映すことが作ること(事行)であるものでなければならない。単に質料を形相化することが知るということではなく、自ら空しくして自己の中に質料を包み、自己の中に自己を形成し行くことが知るということ(事行)であるとするならば、知るということもその背後に既に無から有を生じる意志の意義がなければならない。ただ知識においては限定されたアプリオリ、限定された形相の上に立つが故に、時を含み質料を包むということはできない。知識においては対象がそれ自身の体系を有し、それ自身の方向を持っている(対象化されている)。それ自身の体系を有し、それ自身の方向を有することは限定された一般者の上に立つことを意味する。限定されたものに対しては、限定されないもの(例えば、赤に対して赤でないもの)が対立する。潜在的なるもの(赤でないもの)は未だ真の無ではない。映す鏡の底になお質料が残っている。無論それはいわゆる潜在、いわゆる質料ではないとしても、カントの物自体、現今のカント学派の体験の如く、除去することのできない質料である。知識の無は極微的無である。真の無ではない。純知識的なる意識一般の立場において我々は避けることのできない矛盾に陥るのは、この為である。意識一般は判断の主観でありながら、判断作用を超越したものでなければならない。意識一般は(無にしてこれを包むという)意識の意義を失うこととなる。これ故に真の意識一般はかえってその背後に意志の意義を持っていなければならない。カントの意識一般はフィヒテの事行に到らねばならないのだ。判断はその根柢に意志を予想することによって、意識一般は意識の意義を有することができるのである。しかも判断の立場は直ちに意志の立場ではない。判断は意志の一面に過ぎない。判断の立場までも限定された場所の意味を脱することはできない。フィヒテの事行といえども、なお真の無の場所に於ける自由意志ではない。自己の中に無限の反省を含み無限の質料を蔵するとしても、それは定まった無限の方向、定まった意味の潜在たるを免れない。それから随意的意志は出て来ない。自由に方向を定める選択的意志の意義を明らかにすることはできない。真に自由なる意志は無限なる反省の方向、無限なる潜在の意義に対して自由なるものでなければならない。すなわちこれを内に含むものでなければならない。斯くして初めて無から有を作るということができる。質料も無から作られたものであり、無から有を作るということは、すべての作用の潜在的方向を超越して、しかもこれを内に包むということでなければならない。これにおいては質料も映された影像であるということでなければならない。真に自由なるものは、無限なる純粋作用を自己の属性となすものでなければならない。
 包摂判断においては、特殊なるものが主語として、一般的なる述語の中に含まれると考えられるが、主語となって述語とならない基体においては、特殊なるものに於いて一般なるものが含まれると考えられる。しかし物の判断においても、その主語となるものは単に特殊的なるものではなく、その属性に対して一般的意義を持っていなければならない。ただ、含む一般的なるものと含まれる特殊的なるものとの間に間隙がある限り、物と性質の関係が成り立ち、超越的なる物という如きものが考えられるのだ。しかし物が超越的であるということは、形相と質料が相離れ、単に形相化することのできないのみならず、形相化的進行の方向を以ってするも限定することのできない質料が残されると言うことである。言わば質料の方向が無限定であるということである。質料が形相に対して外的であり、偶然的であるかぎり、質料の独立性が認められ、超越的なる物の存在が考えられるのだ。そして物の存在を認めるため、於いてある場所という如きものが考えられなばならないのである。しかし場所そのものが内在的有すなわち一種の形相(作用)と考えられ、内在的なるもの(作用)の中に超越的なるものが含まれると考えられた時、力の世界が成立する。斯くしてまた種々なる力の質料性というものが認められると共に、力の於いてある場所という如きものが考えられねばならない。力の非合理性、力の質料性ということは、内在的なるものの超越性ということである。私がここに力の於いてある場所というのは、物理学者のいわゆる力の場という如きものではない。実在としての力の於いてある場所ともいうべきものは、超越的意識の野ともいう如きものでなければならない。この場所に於いて力学的力と経験内容が合一して物理的力となるのである。物理的力の存在性はこの場所に於いて立せられるのだ。空間も、時間も、力もすべて思惟の手段と考えられた時、与えられた経験そのものの直ちに於いてある客観的場所は超越的意識の野という如きものでなければならないだろう。物が空間に於いてあるという如き意味において意識の野に於いてあると言うべきものは、意志の本体すなわち自由なる人格でなければならない。いわゆる認識対象界において感覚が非合理的なる如く、意識の野において非合理的なるものは自由意志である。感覚は形式的思惟に対しては完全に外的であり、非合理的であるかもしれないが、構成的思惟によっては合理化し得ると考えることができる。すなわち右に言った如く内在的なる場所の内に超越的なるものを盛ることができる。だが自由意志に至っては、いかなる意味においても合理化することができない。(自由意志は)完全に限定された場所を超越したものでなければならない。判断において主語となって述語とならないものが述語を有するものとなる如く、何処までも場所として限定することのできない、完全に非合理的なるものが意識の本体(自由なる人格)となる。そして力の実在性も要するに意志の非合理性によって維持されるのだ。主語となって述語とならないものが基体と考えられるのも、いわゆる述語的一般としては限定し得ざるものであるがしかも述語を内に包むが故に外ならない。すなわち述語的有がこれに於いてある場所なるが故でなければならない。判断は主語と述語の間に成立するのだ。この場所の中に超越的なるものが見られる時、すなわち潜在的なるものが考えられる時、働くもの(自ら変化するもの)となるが、それが単に限定された場所(一般概念)と見られる時、両者(主語と述語)を結合するものは判断となるのである。
 有が有に於いてある時、場所は物である。有が無に於いてあり、そしてその無が考えられた無(一般概念)である時、前に場所であった物は働くもの(自ら変化するもの、作用)となる。そして空虚なる場所は力を以て満たされ、前に物であった場所は潜在を以て満たされる。超越的なるものが内在的なるというのは、場所が無となることである。有が無となることである。しかし有の場所となる無に種々の意味がある。単にまずある有を否定した無すなわち相対的無と、すべての有を否定した無すなわち絶対的無を区別することができる。前者(相対的無)は空間の如きものであり、後者(絶対的無=対立的無)はいわゆる意識の野の如きものである。意識の野に於いては前に物であったものは意識現象となり、空虚なる場所はいわゆる精神作用をもって満たされる。場所がすべての有を否定した無なるが故に、意識の場所(対立的無)に於いては、すべての現象が直接と考えられ、内在的と考えられるのだ。精神作用も無の場所との関係ではあるが、物力の如き有の意味を有することはできない。判断の対象として、限定することができない。ただいわゆる反省的判断(特殊なるものが与えられ、これに対して一般なるものが見出される判断)の対象となることができるのみである。自然科学的立場からは、精神作用なるものが否定されるのはこれ故である。意識の野に於いては、その場所が無となると共に、単に性質の場所となって、物という如きものは消失するのだが、対立的無(意識)はなお有の意義を有するかぎり、前に有であった場所は潜在を以て満たされる。すなわち意識の本体、意識我という如きものが考えられるのだ。しかし意識的潜在は物力の潜在とは異ならねばならない。意識的潜在は動的意味の潜在である。物理的には無なるものの潜在である。単なる有の場所から否定的無(対立的無、意識)の場所に入るに従って、種々なる合目的的世界が考えられる。いわゆる非実在的なる意味が実在性を持って来るのだ。この場合存在性が失われると考えられるが、ただ有るものは何かに於いてあるという場所の意義が変じて来るのである。存在の根柢を成す一般者が失われるわけではない。場所が無となる時、アリストテレスの現実が潜在に先立つ。形相が質料に先立つという意味が明らかになって来る。潜在的質料と考えられるものは、かえって直接の現実的形相と見ることができる。右の如く、対立的無(意識)の場所に於いては、いわゆる意識の野に於いての如くなお一種の潜在を見るのだが、更に真の無の場所に於いては意識の野に於いての如き潜在も消え失せねばならない。意識一般の立場に於いては意識現象も対象化されねばならない。いわゆる意識我もこれに於いてあるものでなければならない。すべての意義において働くというものはなくなる。力というごときものはなくなる。判断作用そのものすら対象化されるのだ。これにおいて我々はいかなる意義においても真実在を認めることはできない。物自体は不可知的という外はない。個物的実在というも、時空の形式によって統一された認識対象たるに過ぎない。しかし意識一般が知識の客観性を維持するというには、その根柢に超越的なるものがなければならない。カントが経験内容の制約に知識の客観性を求めた如く、知識の客観性の基にはかえって非合理的なるものがなければならない。しかもかかる意味において超越的なるものは、いわゆる物の如きものであってはならない。また力の如きものであることもできない。それらはすべて認識主観によって対象化されたものである。これを潜在ということもできない。なぜならば潜在は既に力の範疇を予想するからである。これ故にそれはいかなる意味においてもこれを対象化して知識的に限定することはできない。知識はかえってその限定によって成立するものでなければならない。何処までも限定することができないという意味にては無であるが、しかもすべての有はこれに於いてあるものでなければならない。認識の形式が質料を構成するというのは、時における構成作用と同様ではない。意識一般の超越性は形式も質料もこれに於いてある場所の超越性である。一般的なるものが一般的なるものの底に、内在的なるものが内在的なるものの底に、場所が場所の底に超越することである。意識が意識自身の底に没入することである。無の無であり、否定の否定(意識の意識)である。もし真に判断作用を超越し主語となって述語となることなき基体を求めるならば、これ(真の無の場所)を措いて外にない。最後の非合理的なるものであって、しかもすべての合理的なるものはこれに於いてあるのである。感覚的実在としての物の非合理性の根柢は要するにこれにあるのだ。物が空間に於いてあると考えられる時、場所が物に対して全き無と考えられるが故に、(物は)単に非合理的なるものとして、個々独立的存在の意義を有する。これに反し力に至っては、場所が有の意義を有するが故に、一旦かくの如き個々独立的存在性が失われると考えられるが、更にその後ろに力の本体という如きものを考えざるを得ない。これにおいて我々の思惟は矛盾に陥るのである。場所が真に無なる時、かかる矛盾は消失して、我々はまた空間に於ける物の如き個々独立的存在を見る。しかし翻って考えてみれば、前の存在性の根柢も実はこれ(真の無の場所)にあったのだ。いわゆる感覚的実在の根はこれから生じていたのである。何故にこれに到って再び物が空間に於いてある如き存在の意味を得るかと言うに、場所が絶対の無となるが故である。場所がこれに於いて有するものを絶対的に超えているからである。これ故に一方から見れば、すべての働きを超越して単に永遠なるものと考えられねばならないと共に、一方から見れば、すべての場所を含むが故に、無限に働くものと考えられねばならない。すなわち一言に言えば、自由を以て属性とするものである。真に知る我は働く我を超越するのみならず、いわゆる知る我をも知るのだ。我々の自覚の根柢にはかくの如き意味における実在の意義がなければならない。すなわち無から有を生じるものがなければならない。質料をも作ると言うべきものがなければならない。対立的無(意識)の場所という如きものが完全に消え失せると共に、かかる無の場所との関係に於いて見られる作用という如きものも消え失せねばならない。作用というものがその於いてある場所を失い、その実在性を失うと共に、現実に対する潜在という如きものもなくならなければならない。有るものはただ純粋性質ともいうべきものである。性質の背後に物があるのではなく、物の背後に性質があるのである。性質の背後に力があるのではなく、力は一つの属性となるのである。現実の後ろに潜在があるのではなく、現実の此方(こなた)に潜在があるのである。構成的範疇の対象界の背後に見られる反省的範疇の対象界とはかくの如き純粋性質の世界でなければならない。一般概念的なるものを場所とする考えを何処までも徹底し、そしてその場所が絶対的無となる時、これに於いてあるものは純粋性質という如きものでなければならない。元来構成的範疇と反省的範疇は離すべきものではなく、一つのものの両面とも言うべきものでなければならない。構成的範疇を具体的として反省的範疇をその委縮した抽象的一面と考えるならば、後者の世界は単なる抽象的思惟の世界となるが、構成的範疇の背後に反省的範疇を見、前者が後者の特殊化したものとするならば、意志の世界となるのである。意志と判断は構成的範疇と反省的範疇の孰れを表とし何を裏となすかによって異なるのだ。純粋性質という如きものを実在の根柢と考えるには、多くの異論があるでもあろうが、我々に真に直接なるものは、純粋性質という如きものでなければならない。それは心理学者のいわゆる感覚の如きものでないのは言うまでもなく、一瞬の過去にも返ることなき純粋持続という如きものでもない。純粋持続と言い得るものはなお時を離れたものとは言えない。更にかかる連続をも越えたものでなければならない。それは永遠に現在なる世界、真の無の場所に於ける有である。否定の立場が意識の立場であり、意識の場所が我々に最も直接なる内面的場所と考え得るならば、かくの如き場所に於いてあるものが真に直接なるものと言わねばならない。我々はこの上に物の世界、力の世界を構成するのみならず、意志の世界も構成するのだ。自由を属性とするカントの叡知的性格という如きものも、かくの如き意味における有でなければならない。判断の主語となるものが場所である時、性質を有する物という如きものは消失して基体なき作用となる。更に場所そのものも無となる時、作用という如きものも消え失せて、すべてが影像となる。主語となって述語となることなき基体が無となるが故に、判断の立場から言えば本体なき影像という外はない。本体という如きものはもはや何処にも求めることはできない。ただ自ら無にして自己の中に自己の影を映すもの(鏡)があるのみだ。しかし一方から言えば、真に無の立場に於いてはいわゆる無そのものもなくなるが故に、すべて有るものはそのままに有るものでなければならない。有るものがそのままに有であるということは、有るがままに無であると言うことである。すなわちすべて影像であるということである。有るものを斯く見るということが、物を内在的に見ることであり、実在を精神と見ることである。他にこれを映す無の場所なきが故に、一々が自己が自己を映すものすなわち自覚的なものでなければならない。この立場に於いては、作用というものも影像に過ぎない。潜在というもかかる有の背後に見られるのではなく、その上に描かれた陰影に過ぎない。有の中に(潜在が)含まれているのだ。無から有を作るというのは映す鏡をも映すということに外ならない。質料は一つの作用の方向によって逆に限定された質料ではなく、(真の無の立場に於いて)質料自身も一種の形相(現実的形相、純粋性質)となるのだ。作用の背後にあるものを映す鏡そのものも映されることによって、潜在も現実となり、質料も働くものとなる。これを無から質料を作ると言うのだ。作るというのは時に於いて作るのではなく、見ることである。真の無の鏡の上に映すことである。我々の意志もかくの如き意味においては見ることである。見るとか映すとかいうのは比喩に過ぎないと考えられるかもしれないが、包摂判断において主語が述語の中にあるということが、映すとか見るとかいうことの根本的意義に外ならない。述語的なるものが映す鏡であり、見る眼である。かかる判断意識の根本的性質は意識の一種たる意志の根柢にもなければならない。判断も意志も無の場所の様相である。現象学者は知覚の上に基礎付けられた作用の底にも自覚があり、知識はこれに向かって充実されて行くと言うが、知識の基礎となる直覚とはなお意識された意識であって、意識する意識ではない。真に意識する意識、すなわち真の直覚は作用を基礎付け行くことによって変じ行くのではなく、かえって作用はこれにおいて基礎付けられねばならない。作用の基礎付けそれ自身が一種の充実的方向を持っているのだ。情意の客観的対象界を認めないならば、作用の基礎付けの充実という如きことは無意義であるが、知覚を基礎としてその上に自然界が建てられるという時、その根柢となる直覚はただ知覚的直覚の上に何物かが加わったものではなく新しい総合的直覚でなければならない。直覚が直覚自身を充実し行くのだ。私のいわゆる場所が場所自身を限定し行くのだ。これ故に意志の自覚(意志が意志を知ること)なくして自然界のアプリオリは成立することはできない。いわゆる直覚の背後に更に意識を考えるというにはなお論ずべき点があるだろうが、私は矛盾の意識も既にいわゆる直覚を一歩超えた意識でなければならないと思う。私のいわゆる場所が限定され得るかぎり、すなわち一般概念が対象化され得る限り知識の範囲に属するが、これを超えれば判断はその限定作用を失って意志の世界に入る。矛盾の意識は判断の意識から意志の意識への転回点を示すものである。かくの如き判断的知識の背後の意識、すなわち真の無の場所というべきものは何処までも消えるものではない。その窮極において意志をも超えて、上に言った如き純粋状態の直観に到る。この時、我々は再び矛盾の意識の超越を見る。前者は判断の矛盾の超越であり、後者は意志の矛盾の超越である。意志の矛盾を超越することによって我々は真の無の立場の極限に達するのだ。
【私がこの説において用いた純粋性質という語は種々の誤解を招くかもしれないが、それは真の無の場所に於いてあるものであって、自己自身を見るものを意味するのである。純なる作用の根柢にあって見ることが働くことでもあるものを言うのである。これを純粋性質と言った所以は作用よりも深きが故に静的存在でありしかも物とか本体とかいうものではない。最も直接なる存在たるが故に過ぎない】


 上に述べた所において、私は叡智的実在と自由意志の差別及び関係の問題に触れたが、自由を状態とする叡智的実在と自由意志はいかなる関係において立つか。自由意志の本体と言う如きものが最高の本体とも考えられるだろうが、意志の自由とは行為の自由を意味し、行為の自由ということがいささかでも作用との関係において考えられるならば、なお完全に対立的有無の場所を超越したものと言うことはできない。我々はいつでも対立的無(意識)の場所に於ける意識作用に即して、自由意志を意識するのだ。さらにこの立場を超えて真の無の場所に入る時、自由意志の如きもの(自由意志という意識作用のようなもの)も消滅しなければならない。内在的にして即超越的なる性質は物の属性、力の結果ではなく、力や物は性質の属性でなければならない。物や力が性質の本体ではなく、性質が物や力の本体でなければならない。真の無の空間に於いて描かれた一点一画も生きた実在だ。斯くして初めて構成的範疇の世界の背後における反省的範疇の対象界を理解することができるのである。かくの如きものを叡智的実在と考えるならば、それは単に働くもの(自ら変化するもの)ではなく見るものでなければならない。色が色自身を見ることが色の発展であり、自然が自然自身を見ることが自然の発展でなければならない。叡智的性格は感覚の外にあってこれを統一するのではなく、感覚の内になければならない。感覚の奥に閃くものでなければならない。そうでなければ考えられた人格に過ぎない。それは感じる理性でなければならない。対立的無の場所たる意識の立場から見れば、それは物の空間に於ける如く単なる存在と見ることができ、そして物が力を持つと考えられる如く、叡智的実在は更に意志を持つと考えることができる。
 空間に於ける物は内在的なるものの背後に考えられた超越者だ。性質的なるものを主語としてこれを合理化(一般化)する時、空間は合理化の手段となる。すべて現れるものは空間に於いて現れるのだ。空間が内在的場所となる。空間的ということが物の一般的性質として、すべてが一般概念の中に包摂されるのだ。空間的直覚の上に立つ時、性質的なるものは非合理的なるものとして、超越的根拠を持つものでなければならない。元来、性質的なるものの根柢には、ベルグソンが純粋持続と言った如く、無限に深きものがある。そして斯く性質的なるものの根柢が何処までも深く見られるのは、真の無の場所に於ける直接の存在は純粋性質ともいうべきものなることを意味するのである。(性質的なるものは)空間という如き限定された場所からしては、何処までも量化することのできない超越的なるものと言う外はない。しかしかかる超越的なるものを内在化しようという要求から力の考えが出て来る。我々は一層直覚を深めて行くのだ。直覚を深めるというのは、真の無の場所に近づき行くことである。現象学的に言えば、作用を基礎付けて行くと言うのだろうが、作用は「作用の作用」の上に於いて基礎付けられるのだ。そして作用の作用の立場は真の無の場所でなければならない。これを非合理的なるものを合理化すると言い得るだろう。主語となって述語となることなき基体が述語化され行くこと(例えば、視覚作用など)である。これにおいて前に場所と考えられた空間はいかなる地位を取るだろうか。性質的なるもの、自己に超越的なるものを自己の中に取り入れようとする時(内在化しようとする時)、空間そのものが性質的なものとならねばならない。空間は力の場とならなければならない。空虚なる空間は力を以て満たされることとなる。色もなく音もなき空間がすべてを含む一般者となり、色や音は空間の変化から生じると考えられるのだ。力というのは場所がこれに於いてあるものを内面的に包摂しようとする(内在化しようとする)過程において現れ来る一形相だ。これ故に(力は)判断や意志と同一の意義(これに於いてあるものを内在化しようとする意義)を持っているのである。物理的空間は何処までも感覚的でなければならない。感覚性を離れれば物理的空間はなく、単に幾何学的空間となる。そして力はまた数学的範式(規範)となる外はない。感覚の背後に考えられる超越的なる基体が、無限大にまで打ち延ばされることによって、前に単に場所と考えられた空間と合一し力の場となるのだ。非合理的なるものを内に包む意志の立場から言えば、かくの如き場所は既に意志の立場と言い得るだろう。これ故に力の概念は意志の対象化によって生じる。物の底に意志を入れて見ることによって(力の概念が)生じると考えられるのだ。無なる意識の場所と、これに於いてある有の場所との不合一が力の場所を生じる。有の場所から真の無の場所への推移において力の世界が成立するのだ。有るものの場所となるものがまた限定された有であるかぎり、我々は力というものを見ることはできない。例えば物体というものを考える場合、我々は何らかの性質的なるもの(限定された有)を基礎として、これに他の性質的なるもの(視覚など)を盛るのだ。触覚筋覚というごときものがまずかくの如き基礎として選ばれるのである。物体というものが考えられるには、何処まで行ってもかかる基体となるものを除去することはできない。超越的なる物と言う考えは、かえって内在的性質を限定してこれに他の性質を盛ろうとするより起こるのだ。限定された場所の中に、場所外のものを入れようとするより起こるのだ。かかる意味においては、物を考える場合でも、判断は自己の(外ではなく)中に自己を超越するということができる。かくの如き基体となる性質を何処までも押し進めて行けば、遂に最も一般的なる感覚的性質となる。物質の概念は斯くして成立するのだ。物質は直接に知覚できないものと考えられるが、それは特殊なる知覚対象ではないというに過ぎない。知覚の水平線を超えては物質というものはない。知覚とは直接に限定されたものを意識することであると考えられる如く、限定された場所の意義は最後まで脱することはできない。無の場所に於ける有の場所の限定ということが知覚ということでなければならない。そして限定された有の場所、すなわち知覚の範囲に留まる間は、力の世界を見ることはできない。限定された性質の一般概念の中に於いては、単に相異なるもの、相反するものを見るのみである。力の世界を見るには、かかる限定された一般概念(類概念)を破って、その外に出なければならない。相反の世界から矛盾の世界に出なければならない。この転回点は最も考えるべきであると思う。矛盾的統一の対象界(矛盾律によって統一された対象界。「働くもの」参照)を考えるには、その根柢には直覚がなければならない。数学的真理の如きものの根柢には一種の直覚のあることは、何人も認めるだろうが、これを色や音の如きいわゆる感覚的直覚とは同じとは考えない。しかしすべて判断の根柢には一般的なるもの(自己同一なるもの)があるとするならば、色や音についての判断も一般者の直覚に基づいて成立するのだ。感覚的なるものの知識の根柢における一般者と、いわゆる先験的真理の根柢における一般者はいかに異なるか。矛盾的関係に於いて立つ真理を見るには、我々はいわゆる一般概念の外に出てこれを見るということ(例えば、Aに対して、非Aの立場に立つこと。Aの立場を脱してAを見るということ)がなければならない。いわゆる一般的なるもの(自己同一なるもの)が見られ得るということが、先験的知識の成立する所以である。これによって我々は斯くなければならない、そうでなければ知識は成立しないと言い得るのだ。既に一般概念の外に出ながら、いかにして更に判断の根柢となる一般的なるもの(自己同一なるもの)を見ることができるだろうか。一般概念の外に出るというのは、一般概念がなくなることではない。かえってその底に徹底することである。限定された有の場所から、その根柢たる真の無の場所に到ることである。有の場所そのものを無の場所と見るのだ。有そのものを直ちに無と見るのである。斯くして我々はこれまで有であった場所の内に無の内容(非有)を盛ることができる。相異の関係に於いてあったものの中に矛盾の関係を見ることができる。性質的なるものの中に働くもの(自己同一なるものとして自ら変化するもの)を見ることができるのである。我々の見る知覚的空間は直ちに先験的空間ではない。しかしそれは先験的空間に於いてあるのだ。そして先験的空間の背後は真の無でなければならない。無の場所に於いてあると言うことが意識を意味するが故に、それは先験的意識に於いてあると言うことができる。これ故に一般概念の外に出るということは、かえってこれによって、真に一般的なるもの(先験的に自己同一なるもの)を見ることである。先験的空間という如きものは、かくの如き一般者を言い表したものだ。かくの如き立場においては見るということは、単に記載することではなく、構成することである。真の直覚は無の場所に於いて見るということでなければならない。これに到って直覚はその充実の極限に達し対象と合一するということができるのである。右の如き極致に達しない間は、知識は単なる記載以上に出ることはできない。現象学的立場といえども、意識はなお対立的無の場所を脱しないのだ。考えられた一般概念の外に出ることができないのである。現象学者の作用というのは、一般概念の埒(範囲)によって囲まれた作用である。対象の一範囲という如きものに過ぎない。これ故に内に対象の構成を見ることができず、外に作用と作用の関係(矛盾的統一)を見ることもできない。作用そのものの充実という如きことは現象学の立場において現れて来ないのである。アリストテレスは感覚とは封蝋(手紙の封をする際に用いられた蝋)の如く、質料なき形相を受け取るものであると言ったが質料なき形相(作用)を受け取るものは形相を持たないもの(真の無の場所)でなければならない。斯く受け取るとか、映すとかいうことが何らかの意味において働きを意味するならば、それは働くものなくして働き、映すものなくして映すと言うことでなければならない。映ったものを形相とするならば、それは全く形相なき純なる質料と考えるべきだろう。これに反し、映された形相を特殊なるものとして質料と考えるならば、それは形相の形相(純粋性質)として純なる形相とも考え得るだろう。かかる場合、我々は直ちに映すものと映されるものと一と考えるのだが、その一とはいかなるものを意味するのだろうか。その一とは両者の背後にあって両者を結合するということではない。両者が共に内在的であって、しかも同一の場所において重なり合うということでなければならない。あたかも種々なる音が一つの聴覚的意識の野に於いて結合し、各々の音が自己自身を維持しつつも、その上に一種の音調が成立すると同様である。ブレンターノが「感官心理学」において言っているように現象的に結合するのだ。ただ、我々は感覚には意識の野を考えるが、思惟にはこれを認めないから、思惟の場所に於いて重なり合うという語が一種の比喩の如くに思われるのである。しかし我々の思惟の根柢に一つの直覚があるとするならば、感覚や知覚と同じく思惟の野という如きものが考えられねばならない。そうでなければ現象学者の直覚的内容の充実的進行という如きものは考えられないのだ。思惟の野に於いて重なり合うというのは、一般的なるもの(例えば、色)を場所として、その上に特殊なるもの(例えば、赤)が重なり合うことである。聴覚の音の集団を基礎として、これに音調が加わると考え得るでもあろう。しかし真の具体的知覚においては、個々の音が一つの音調の要素として成立する。すなわち(個々の音が)これ(音調)に於いてあると考えねばならない。空間に於いては、一つの空間に於いて同時に二つの物が存在することはできないが、意識の場所に於いては、無限に重なり合うことが可能である。我々は限りなく一般概念によって限定された場所を超えて行くことができるのである。我々が個々の音を意識する時、個々の音は知覚の場所に於いてある。その上に音調という如きものが意識される時、音調もまた同一の意識の場所に於いてある。各々の音が要素であって、音調はこれから構成されているというのは、我々の思惟の結果であって、知覚そのものに於いて個々の音は音調に於いてあるのだ。しかし音調もまた一つの要素として、更に他の知覚に於いてあることができる。音も色も一つの知覚の野に於いてあるということができる。斯くして知覚の野を何処までも進めて行けば、アリストテレスのいわゆる※共通感覚sensus communusの如きものに到達しなければならない。それは単に特殊なる感覚的内容を分別するものである。
※ 引用 共有感覚とは 

分別すると言えば、直ちに判断作用が考えられるのだが、判断作用の如く感覚を離れたものではない。(共通感覚は)感覚に付着してこれを識別するのだ。かくの如きものを私は場所としての一般概念と考えるのである。なぜなら、いわゆる意識一般とはかくの如き場所が更に無限に深い無の場所に映された影像なるが故である。知覚が充実して行くというのは、かくの如き場所としての一般者が自己自身を充実して行くことである。その行先が無限であって、無限に自己を充実して行くが故に作用と考えられる。そしてその限りなき行先は志向的対象としてこれ(志向的対象)に含まれると考えられるのだ。しかしその実はこれ(志向的対象)に含まれるのではなく、かくの如き無限に深い場所(真の無の場所)に於いてあると言うことを意味するのである。直覚というのも、かかる場所が無限に深い無であることを意味するに外ならない。斯くその底が無限に深い無(すべてを内包する無)なるが故に、意識に於いては、要素と考えられるものをそのままにして、更に全体が成立するのだ。現象学派においては作用の上に作用を基礎付けると言うが、作用と作用を結合するものはいわゆる基礎付ける作用ではなく、私の「作用の作用(真の無の場所)」という如きものでなければならない。この場所に於いては作用は既に意志の性質を含んでいるのだ。作用と作用の結合は裏面に於いては意志であると言ってよい。しかし意志が直ちに作用と作用を結合するのではない。意志もこの場所(真の無の場所)に於いて見られたものである。この場所に映された影像に過ぎない。意志もなお一般概念を離れることはできない。限定された場所を脱することはできない。直覚は意志の場所をも超えて深く無の根柢に達している。一般の中に特殊を包摂して行くことが知識であり、特殊の中に一般を包摂することが意志であり、この両方向の統一が直観である。特殊の中に一般を包摂するというのは背理のようであるが、主語となって述語となることなき基体という如きものが考えられる時、既にこの意味が含まれていなければならない。現象学において知覚が充実して行くというのも、この方向に向かって進み行くのだ。この方向においては基礎付ける作用も、基礎付けられる作用も、一つの直覚の圏内に入って行く。すなわち共に無の場所に於いてあるのだ。直覚に分限線はない。知覚という作用を限る時、既に一般概念によって直覚の場所を限定しているのである。現象学者が知覚作用に生きるという時、既に範疇的直覚(色、音など)も含まれていなければならない。我の全体がそこにあるのだ。私はこれを無の場所に於いてあると言いたい。これ故に知覚的経験を主語として、いわゆる経験界が成立するのである。知覚作用として限定された直覚は、既に思惟によって限定された直覚(範疇的直覚)である。我々が知覚に生きるという時、知覚は思惟の上に重なり合うのだ。知覚的なるものがその底の場所(思惟の場所)に映ったものが、その一般概念となる。我々が知覚的直覚という如きものを限定して見ることのできるのは、ある一つの意識作用がある一点から出立し、また元に還ることが可能と考えられるが故である。一つの平面に於いては、ある一の点から無限の果てを廻っても、また元の点に還ることが可能でなければならない。あるいはこれを一つの意識面がそれ自身の内に中心を持つとも言い得るだろう。無限なる次元の空間とも考え得べき真の無の場所に於いて、かくの如き一平面を限定するのは一つの一般概念でなければならない。知覚の意識面を限定する境界線をなすものは、知覚一般の概念でなければならない。知覚的直覚というのは斯くして限定された場所である。我々が知覚的直覚に於いてあると考える時、我々は一般概念によって限定された直覚に於いてあるのだ。限定された場所に於いてあるのである。一般概念は斯く意識面の境界線をなすが故に、一方において限定された場所の意義を有すると共に、一方に於いては自己自身を限定する場所の意義を持っているのだ。私が前に一般概念の外に出ると言ったのは、一般概念を離れるのではない。またこれによって一般概念が消え失せるのでもない。限定された場所から限定する場所(真の無の場所)に行くことである。対立的無(意識)の場所、すなわち単に映す鏡から、真の無の場所、すなわち自ら照らす鏡に到ることである。かくの如き鏡は外から持ち来ったのではない。元来その底にあったのである。我々が真に知覚作用に生きるという時、我々は真の無の場所に於いてあるのだ。鏡と鏡が限りなく重なり合うのである。これ故に我々はいわゆる知覚の奥に芸術的内容をも見ることもできるのである。元来知覚の意識と判断の意識が離れているのではない。判断の意識を特殊なるものが一般的なるものに於いてあるとするならば、知覚的意識面とは特殊なるものの場所に過ぎない。そして特殊なるものは※小語的概念(例えば、これは赤であるの、これ)によって限定されているのである。
※ 引用 小語 大語 媒語とは

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jnpa/17/0/17_1/_pdf/-char/ja

『推論式の基本となるのは三段論法であり、定言三段論法の型の一つを示すと、「MはPである。SはMである。故に、SはPである」というように大前提、小前提、結論という構成になる。Pは大語、Sは小語、Mは媒語と呼ばれるが、西田は場所的に捉えて、しばしば大語面、小語面、媒語面という言い方をする』
(場所の論理と述語的論理 氣多雅子 p13)
大前提:赤は色である 小前提:これは赤である 結論:これは色である

大語:色 小語:これ 媒語:赤

知覚的意識面というのは、色とか音とかいう如きいわゆる感覚の内容によって定められるのではなく、一般的なるものに対する特殊性(色に対する赤や青など)によって定められるのだ。物の大小形状は概念的に考えることもできるが、知覚的に見ることもできる。これ反し概念的なるものであっても、それが判断の主語として与えられる時、知覚性を持つと言うことができる。あるいは知覚の底には概念的分析を容れない無限に深いもの(芸術的内容)があると言うでもあろう。私もそれを認めるのだが、かかるものの背後に概念を入れて見るかぎり、知覚と言い得るのだ。直覚を概念の反射鏡に照らして見るかぎり、それが知覚となる。真に概念を超えたものは最早知識ではない。知識を芸術的直観の如きものと区別して、これを知識と考え得るかぎり、それは直覚そのものではない。我々は数学者のいわゆる連続の如きものを見ること(知識を直覚すること)はできない。しかも知覚の背後に概念を超えた何物かを見ると考えるのは芸術的内容の如きものでなければならない。ベルグソンの言う如くただこれと共に生きることによって知り得る内容である。知覚は概念面を以て直観を切った所に成立するのである。フッサールの言う如く知覚の水平面は何処までも遠く広がるであろう。しかしそれは概念的思惟と並行して広がるのだ。これを超えて広がるのではない。何処までもこれ(概念的思惟)によって囲まれているのである。無は何処までも有を裏打ちしている。述語は主語を包んでいる。その窮まる所に範疇的直覚(色、音など)が成立する。カントの意識一般もかかる意味における無の場所である。かかる転回(限定された場所から無の場所への転回)を私は一般概念によって限定された場所外に出ると言うのである。小語(これは赤であるの、これ)から大語(例えば、赤は色であるの、色)に移り行くのである。これにおいて述語的なるもの(色)が基体となると考えることができる。これまで有であった主語面(これ)をそのままに述語面(色)に没入するが故に、特殊なるものの中に一般なるものを包摂する(これは色である)という意志の意味をも含んで来るのである。
 一般概念とはいかなるものであるか。一般概念とは特殊概念に対立して考えられるのだが、特殊と一般との関係には、判断意識というものを考えねばならない。判断とは一般の中に特殊を包摂することである。しかし特殊概念(赤)は更に特殊なるもの(これ)に対して、一般概念とならねばならない。推論式において媒語(これは赤である、赤は色であるの、赤)がかかる位置を取るものである。論理的知識とは、かくの如き無限の過程と考えられるが、何処かに一般概念というものが限定され得る限り、論理的知識が成立するのだ。ならばかかる一般概念を限定するものは何であるか。最高の一般概念は何処までも一般的なるものでなければならない。いかなる意味においても特殊なる内容を超えたものでなければならない。そしてかくの如くすべての特殊なる内容を超えたものは無に等しき有でなければならない。真に一般的なるものは有無をも超越ししかもこれを内に包むもの、すなわち自己自身の中に矛盾を含むものでなければならない。推論式においての媒語は一方から見れば大小両語の中間に位するものと見られるが、深き意味においては既にこの地位にあるもの(自己自身に矛盾を含むもの)でなければならない。単に知識の立場から言えば、それは考えることのできないものでもあろう。ならば、矛盾の意識は何によって成立するだろうか。論理的には、それはただ矛盾によって展開し行くヘーゲルのいわゆる概念の如きものを考える外ないだろう。しかし論理的矛盾そのものを映すものは何であるか。それはまた論理的なものであることはできない。一度論理的なるものを超えるという時、矛盾そのものを見るものがなければならない。無限なる矛盾を内容とするものがなければならない。私はこういう立場を意志の立場と考えるのだ。論理的矛盾を超越してしかもこれを内に包むものが、我々の意志の意識である。推論式について言えば、媒語(赤)が一般者となるのだ。推論式においても、媒語が主要の位置を取っている。媒語(赤)が単に大語(色)の中にふくまれるとするならば、推論式は判断の連結に過ぎない。仮にも推論式が判断以上の具体的真理を表すものと考えるならば、媒語(赤)が統一的原理の意義を含み、大語(色)も小語(これ)もこれ(赤)に於いてあるのである。両者はその両端と考えるべきである。媒語はこの場合、私のいわゆる意識の場所の意義を持って来る。推論式において我々は既に判断の立場から意志の立場への推移を見るのだ。判断においては我々は一般から特殊に行くが、意志においては我々は特殊から一般に行く。帰納法(個々の具体的な事実から普遍的な命題や法則を導き出す思考方法)において既に意志の立場が加わっているのだ。事実的判断においては、特殊なるものが判断の主語となる。特殊なるものによって客観的真理が立せられる。特殊なるものの中に判断の根柢となる一般的なるものが含まれていなければならない。かかる一般者は単に包摂判断の大語と考えられる一般者とは異なったものでなければならない。事実的判断は論理的に矛盾なく否定し得る(例えば、これは赤ではない?)と考えられる如く、その根柢にはいわゆる論理的一般者を超えて自由なるものがなければならない。私がここに意志の立場の加入を考える所以である。意志は単に偶然的作用ではなく、意志の根柢には作用自身を見るものがなければならない。作用そのものの方向を映すものがなければならない。いわゆる一般概念的限定を超えた場所に意志の意識があるのだ。作用に対して自由と考えられるのは、作用とは一般概念によって限定されたものなるが故である。判断の立場から意志の立場に移り行くというのは有の場所から無の場所に移り行くことである。有と無と相対立すると考える時、両者を対立的関係に置くものは何であるか。主観的作用から見れば、我々は有から無に、無から有に思惟作用を移すことによって両者を対立的に考え得るでもあろう。しかし客観的対象から見れば、有が無に於いてあるということである。思惟の対象界において限定されたものが有であり、そうでないものが無と考えることができる。思惟の対象界がそれ自身において一体系を成すと考えるならば、無は有よりも一層高次的と考えることができる。無も思惟対象である。これに何らかの限定を加えることによって有となる。※種が類に含まれるという意味において有は無に於いてある。
※ 種と類とは 

無論、無と考えることは既に一つの限定された有(対立的無)と考えることであって、その以前に更に無限定のものがなければならないと言い得るだろう。そしてこれに於いて有と無が対立的関係に於いてあると考えることもできるだろう。しかし無を有と対立的に見る立場は、既に思惟を一歩踏み越えた立場である。(その立場は)いわゆる有も無もこれに於いてある作用の作用の立場(真の無の立場)でなければならない。判断作用の対象として考えられた時、肯定的対象(有)と否定的対象(無)は排他的となるが、(思惟作用の)転化の上に立つ時、作用そのものの両方向(肯定と否定、有と無)を同様に眺めることができる。しかし措定された対象界から見れば、赤の表象自体は色の表象自体に於いてある如く、有は無に於いてある。物は空間を排するのではなく、物は空間に於いてあるのである。働くもの(自ら変化するもの)といえども、それが働くものとして考えられる以上、それが於いてある場所が考えられねばならない。一般概念によって統一され得るかぎり作用というものが考えられるのだ。作用自身を直ちに対象として見ることはできない。一般(色)の中に無限に特殊(赤や青などの無限の色合い)を含みしかも一般が単に於いてある場所と考えられる時、純粋作用(色の作用、視覚作用)という如きものが見られるのである。斯く考えれば一つの立場から高次的立場への接触は、直線と弧線が一点に於いて相接する如く相接するのではなく、一般的なるもの(赤、青など)と一般的なるもの(色)と、場所と場所とが無限に重なり合っているのだ。限りなく円(赤や青など)が円(色)に於いてあるのである。限定された有の場所(赤や青など)が限定する無の場所(色)に映された時、すなわち一般なるものが限りなく一般的なるものに包摂された時、意志が成立する。限定された有の場所(例えば、赤)から見れば、主語となって述語とならない基体(色)は、何処までもこの場所(有の場所)を超越したものであり、無限に働くもの(自ら変化するもの)とも見られるであろう。しかし意識するということは無の場所に映すことであり、この立場(無の立場)から見れば、逆に(意識されたものは)内面的なる意志の連続に過ぎない。限定された有の意義を脱しないギリシャ哲学の形相から出立すれば、何処までも質料を形相化し遂に純なる形相(イデヤ)に到達するも、なお質料が真に無となったのではない。ただ極微的零に達したまでである。質料はなお動くものとして残っている。真の無の場所に於いては、一から一を減じた真の無が見られねばならない。これに於いて我々は初めて真に形相を包む一般者の立場に達したと言い得る。極微的質料(動くもの)もその発展性を失い、真に作用を見るということができる。トーマスの如く善を知れば必ずこれを意志するという時、我々はなお真の自由意志を知ることはできない。真の意志はかかる必然をも超えたものでなければならない。ドゥンス・スコートゥスの如く意志は善の知識にも束縛されない。至善に対しても意志はなお自由を有すると考えらねばならない。思惟の矛盾は思惟としてはその根柢に達することであり、ヘーゲルの哲学においての如くこれ以上のものを見ることはできないだろうが、我々の心の底には矛盾をも見るもの、矛盾を映すものがなければならない。ヘーゲルの理念がその自己自身の外に出て自然に移らねばならないのはこれによるのだ。右の如く場所(有の場所)が場所(無の場所)に於いてあり、真の無の場所からこれに於いてある有の場所が見られた時、意志作用が成立すると考えられるならば、一般概念とは無の場所に於いて限定された有の場所の境界線と考えることができる。平面に於ける円の点が内部(円)に属すると見ることができると共に、外部(円の外)に属すると見ることができる如く、一つのものが感覚に即して限定された有の場所と見られると共に、無の場所に即して一般概念と考えられるのだ。限定された場所が無の場所に於いて遊離されていわゆる抽象的一般概念となる。一般概念の構成作用、いわゆる抽象作用には意志の立場が加わらねばならない。ここにラスクの言う如き主観の破壊が入って来るのである。
 前に言った如く、フッサールの知覚的直覚というのは一般概念によって限定された場所に過ぎない。真の直覚はベルグソンの純粋持続の如く生命に充ちたものでなければならない。私はかかる直覚を真の無の場所に於いてあると考えるのだ。無限に広がる知覚的直覚面を囲むものは、一種の一般概念でなければならない。知覚的直覚というものが考えられる時、知覚作用というものが考えられなばならない。作用というものが考えられるには私のいわゆる「作用の作用」の立場(真の無の立場)から作用自身が反省されねばならない。作用そのものを直ちに見るということはできない。一つの作用が他の作用と区別して見られるには、一つの一般概念によって限定された場所がなければならない。述語的なるものが主語の位置に立つことによって働くものが見られるのだ。知覚の水平面は無限に遠く広がると思われるが、それは無限に深き無の場所に於いて限定された一般概念の圏外に出でない。一般概念というのは有の場所が無の場所に映ったものに過ぎない。有の場所と無の場所と触れ合う所(重なった所)に概念の世界が成立するのだ。しかし単に有を超越し有がこれに於いてあると考えられる否定的無(対立的無、意識)はなお真の無ではない。真の無に於いては、かかる対立的無もこれに於いてあるのだ。限定された有が直ちに真の無に於いてあると考えられる時、知覚作用が成り立つ。かかる無(知覚作用)が更に無(対立的無)に於いてあると考えられる時、判断作用が成立するのだ。すべて作用というのは一つの場所が直ちに真の無の場所に於いてあると見られる場合に現れるのである。種々なる作用の区別や推移が意志の立場に於いて見られ得ると考えられるのはこれ故だ。有が無に於いてあるが故に、作用の根柢にはいつでも一般概念なるもの、述語的なるものが含まれている。しかしそれは単に対立的無に映されているのでなく、直ちに真の無に於いてあるが故に、遊離した抽象概念ではなく、内在的対象となる。内在的対象とは真の無の場所に固定された一般概念である。作用は必ず内在的対象を含まねばならないと考えられるが、かえって内在的対象に於いて作用があるのだ。内在的対象として限定された場所によって作用が見られるのである。真の無の場所は有と無が重なり合った場所なるが故に、作用(無)の対象(有)は何処までも対立的(作用という無に対して有として対立的)でなければならない。対立的ならざる対象を含むと考えられるもの、例えば知覚の如きものは、厳密なる意味で作用ではない。なお一般概念を以て囲まれた有の場所たるに過ぎない。未だ場所が直ちに無に於いてあるとは言われない。ただ判断作用の如きに至っては明らかにかかる対象の対立性が現れる。判断のすぐ後ろに意志がある。判断意識は有(主語)が無(述語)に於いてあることによって現れるのだ。アリストテレスの共通感覚を押し進めてカントの意識一般に至るには、有から無への転換がなければならない。無論、知覚といえどもそれが意識と考えられる以上、対立を含んでいるであろう。対立によって意識は成立するのだ。意識の野に於いて対象が重なり合うと考えられるのも、実はこれによるのである。有の場所が直ちに無の場所に於いてある時、我々は純なる作用の世界を見る。普通に意識の世界と考えられるものはかくの如き世界を意味している。しかしかくの如き世界(純なる作用の世界、意識の世界)は、なお内在的対象として概念的に限定された一つの対象界たるを免れない。内在的対象と考えられるものは無を以て縁付けられた有の場所である。あるいは対立的無(意識)によって限定された真の無の場所である。真の無の場所はなおこれ(対立的有無の場所)よりも深きものでなければならない。なおこれを超えて広がるものでなければならない。かかる場所もこれに於いてあるものでなければならない。これ(真の無の場所)に於いて我々は初めて意志の世界を見るのだ。知識的対象としては有と無の合一以上に出ることはできない。主語と述語の合一に到って知識はその極限に到達する。しかしかかる合一を意識する時、かかる合一が於いてある意識の場所がなければならない。有るものは何かに於いてあると言う時、同一なるものも於いてある場所がなければならない。同一の裏面に相異を含み、相異の裏面に同一を含むというのはかくの如き場所に於いてでなければならない。有と無と合一して転化となると考えられる時、転化を見るもの、転化が於いてある場所がなければならない。そうでなければ転化は転化したもの、すなわち或物としてそこに留まり、更に矛盾的発展(例えば、赤から非赤への発展)をなすことはできない。矛盾の発展には矛盾の記憶という如きものがなければならない。単に論理的判断の立場から見れば、それはただ矛盾から矛盾に移り行くことであろう。その統一として単に自己自身に於いて無限に矛盾を含むものを考える外はない。しかし斯く考えることはなお判断の主語を外に見ることであり、真に述語的なるもの(一般者)が主語となることではない。限定された場所(有の場所)として意識の野を見ているのだ。ヘーゲルの理性が真に内在的であるには、自己自身の中に矛盾を含むものではなく、矛盾を映すもの、矛盾の記憶でなければならない。最初の単なる有はすべてを含む場所でなければならない。その底には何物もない。無限に広がる平面でなければならない。形なくして形あるものを映す空間の如きものでなければならない。自己同一なるもの否自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むものすらこれに於いてある場所が私のいわゆる真の無の場所である。あるいは前者(自己自身の中に無限に矛盾的発展を含むもの)の如きものに到達した上、更に於いてある場所という如きものを考える要はないと言うでもあろう。しかし前者は判断の主語の方向に押し詰めたものであり、後者(真の無の場所)はその述語の方向に押し詰めたものである。内在的ということが述語的ということであり、主語となって述語とならない基体(前者)も、それが内在的なる限り知り得るとするならば、後者から出立しなければならない。後者が最も深いもの、最も根本的なるものと言い得るだろう。従来の哲学は意識の立場について十分に考えられていない。判断の立場から意識を考えるならば、述語の方向に求める外はない。すなわち包摂的一般者の方向に求める外はない。形式によって質料を構成すると言い、ロゴスの発展と言うも、これから意識するということを導き出すことはできない。我々は一切の対象を映すものを述語の極致に求めねばならない。仮にも意識するものと言うものを考えた時、それは既に意識されたもので意識するものではない。アリストテレスは変じるものはその根柢に一般的なるものがなければならないと言ったが、かかる一般的なるものが、限定された有限の場所である限り変じるものが見られ、それ(場所)が極微である限り純粋作用というものが見られるのだが、ただ完全に無となった時、単に映す意識の鏡、私の無の場所というものも論理的意義を有するものでなければならない。純なる作用の根底をなすもの、ギリシャ人のいわゆる純粋なる形相という如きものも、一層深き無の鏡に於いては、遊離された抽象的一般概念ともなるのである。我々は常に主客対立の立場から考えるから、一般概念は単に主観的と考えられるのだが、抽象的一般概念を映す意識の鏡はいわゆる客観的対象を映すものをも包んでなおかつ深く大なるものでなければならない。そしてそれは真に無なるが故に、我々に直接であり、内面的である。判断の述語的方向をその極致にまで押し進めて行くことによって、すなわち述語的方向に述語を超越し行くことによって、単に映す意識の鏡が見られ、これに於いて無限なる可能の世界、意味の世界も映されるのだ。限定された有の場所が無の場所に接した時、主客合一と考えられ、更に一歩を進めれば純粋作用という如きものが成立する。判断作用の如きもその一であって、一々の内容が対立をなし、いわゆる対立的対象(意味)の世界が見られるのだが、更にまたかかる立場をも超えた時、単に映された意味の世界が見られるのである。我々の自由意志はかかる場所から純なる作用を見たものである。これ故に意志とは判断を裏返しにしたものである。述語を主語とした判断である。単に映す鏡の上に成り立つ意味はいずれも意志の主体となることができる。意志が自由と考えられる所以である。意志に於いて特殊なるものが主体となると考えられる。意志の主体となる特殊なるものとは無の鏡に映されたものでなければならない。限定された一般概念の中に包摂される特殊ではなく、かかる有の場所を破って現れる一種の散乱である。
 以上述べた所は一般概念によって囲繞された(囲まれた)有の場所を破って、単に映す鏡とも言うべき無の場所があり、意志はかかる場所から有の場所への関係において見られ得ることを述べたが、まだ単にこれに於いてあるものに論及することができなかった。意志は真の無の場所に於いて見られるのであるが、意志はなお無の鏡に映された作用の一面に過ぎない。限定された有の場所が見られるかぎり、我々は意志を見るのだ。真の無の場所に於いては意志そのものも否定されねばならない。作用が映されたものとなると共に意志も映されたものとなるのである。動くもの、働くものはすべて永遠なるもの(真の無の場所)の影でなければならない。
【この節の終の方において述べた所は説明の不十分なる所が多い。次の「左右田博士に答ふ」の終及び特に「知るもの」を参考せられんことを望む】


 知覚、思惟、意志、直観という如きものは、厳密に区別すべきものたると共に、相互に関係を有し、その根柢にこれらを統一する何物かがなければならない。かかるものを掴むことによって、これらのものの相互の区別及び関係が明らかにされるのである。意識作用としては、これらの外になお記憶、想像、感情など多く論ずべきものがあるだろうが、今は右の四つのものに止めておく。知識の立場から見て最も直接にして内在的なるものは判断だろう。判断として最も根本的なるものは包摂判断である。包摂判断とは一般的なるものの中に特殊なるものを包摂することである。包摂するというのは、特殊なるもの(赤)を主語として、一般なるもの(色)をこれについて述語すると言うこと(赤は色である)である。包摂すると言えば、すぐ作用という如きものが考えらるのだが、かかる概念を交えないで、概念の一般と特殊ということが、すぐに包摂的関係に於いてあると言うことである。関係といえば、対立する二つのもの(主語と述語、赤と色)が考えられるのだが、二つのものが対立的に考えられるには、二つのものが共同の一般者(具体的一般者)に於いてなければならない。この意味において包摂的関係というものが関係としてもまた最も根本的と言い得るだろう。判断作用というものから時間的意義を除去すれば、その根柢に残るものはただかかる包摂的関係のみである。あるいは何らかの意味において時間的関係を入れることなくして、作用(判断作用)というものを考え得ないと言うでもあろう。しかし判断作用というのは、かかる包摂的関係を基として考え得るのだ。かかる包摂的関係から直ちに変じるとか、働く(自ら変化する)とかいうことの出て来ないのは言うまでもない。しかしかかる包摂的関係の時間上における完成として、判断作用というものが理解されるのだ。特殊なるものを主語として、これについて一般なるものを述語するとは、いかなることを意味するか。我々は斯く考える時、いつも主観客観の対立を前提としている。主語となるものは客観界に属し、述語的なるものは主観界に属すると考えている。しかしかかる対立を考える前に、主語となるものと述語となるものとの直接の関係がなければならない。概念自身の独立なる体系がなければならない。判断の客観的妥当はこれ(概念自身の独立なる体系)によって立せられるのだ。概念の体系はいかにして自己自身を維持するか。一般的なるもの(自己同一なるもの)が基となって特殊なるものを包む、特殊なるものが一般的なるものに於いてあると考えることもできれば、特殊なるものが基となって一般的なるものを持つとも考えることができる。しかし概念自身の体系としてむしろ前者を取らねばならない。後者においてはもはや複雑なる関係が含まれている。既に主客両界の対立というものが考えられ、主語となるものが外に射影されている(外に超越的である)と言うことができる。そうでなければ一が多を有することはできない。無論、一般的なるものが特殊なるものを含むと考えるにも、一般的なるものが(一般概念として考えられる以上)自己自身を超越すると考えなければならないだろう。しかしかく考えるのは、概念を考えられたものの如く見る故である。概念と意識を離して考える故である。直接には一般と特殊は無限に重なり合っている。斯く重なり合う場所が意識である。右の如く考えるならば、判断において真に主語となるものは特殊なるものではなく、かえって一般的なるものである。完全に述語的なるものの外にあるものは判断の主語となることはできない。非合理的なるものもそれが何らかの意味において一般概念化され得る限り、判断の主語となるのである。斯く考えれば、判断とは一般なるもの(自己同一なるもの)の自己限定ということとなる。一般なるものはすべて具体的一般者でなければならない。厳密には抽象的一般(赤は色であるの、赤)なるものはない。無論私が個々に判断というのはいわゆる判断作用の如きものを言うのではない。単にその根柢となるもの(包摂的関係)を意味するのである。ギリシャ人の如く形相を能動的と考えるのは、真に直接なる意識の場所に於いてのみ可能である。
 右の如く特殊と一般の包摂的関係から出立し、何らの仮定なき直接の状態においては、一般は直ちに特殊を含み、一般から特殊への傾向において判断の基礎が置かれるとするならば、一般と特殊との包摂的関係から種々なる作用の形を考え得ると思う。我々は無限に特殊の下に特殊を考え、一般の上に一般を考えることができる。かかる関係において、一般と特殊の間に間隙のある間は、かかる一般によって包含された特殊は互いに相異なるものたるに過ぎない。しかし一般の面と特殊の面が合一する時、すなわち一般と特殊の間隙がなくなる時、特殊は互いに矛盾的対立に立つ。すなわち矛盾的統一(矛盾律による統一。例えば、Aは非Aでない)が成立する。これにおいて一般は単に特殊を包むのみならず、構成的意義を持って来る。一般が自己自身に同一なるものとなる。一般と特殊が合一し自己同一となると言うことは、単に両者が一となるのではない。両面は何処までも相異なったものであって、ただ無限に相接近して行くのだ。斯くしてその極限に達するのである。これにおいて包摂的関係はいわゆる純粋作用の形を取る(例えば、視覚作用など)。かかる場合、述語面が主語面を離れて見られてないから(述語面と主語面の間に間隙がないから)、私はこれを無の場所というのである。主客合一の直観というのは、かくの如きものでなければならない。無論、右の如き意味における純粋作用は未だ働くもの(自ら変化するもの)、動くものではない。ただ述語的なるものが主語となって述語とならない基体となると言うことである。判断が内に超越することである。内に主語を持つことである。主客合一を単なる一と考えるならば、包摂的判断関係は消滅し、更に述語が基体となると言う如きことは無意義と考えられるだろう。しかし包摂的関係から押し進めて行けば、何処までもこの両者の対立がなくなるはずはない。直観というのは述語的なるものが主語となることである。私はすべて作用と考えられるものの根柢をこれ(述語的なるもの)に求めたいと思う。矛盾的対立(例えばAと非A)の対象に於いて初めて働くものが考えられるのだ。意識が純粋作用と考えられるにも、意識の根柢にかかる直観がなければならない。普通には作用の時間的性質のみが注意され、単なる物理的作用と意識作用の区別が十分に注意されていないが、意識作用においては時間的変化の背後に非時間的なるものがなければならない。無論、物理的作用の根柢にも物とか力とかいう如く非時間的なるものが考えられねばならないだろうが、両種の作用の異なる所は、意識作用に於いてはその根柢となるものが、判断の立場から言えば述語的なるものでなければならない。論理的進行と時間的変化を直ちに同一視することのできないのは言うまでもない。しかし時間的変化という如きものの成立する前に、論理的なるものがなければならない。時の根柢に矛盾するもの(AからB)に移り行くことの可能、矛盾するものの統一(Aと非Aの統一)が置かれねばならない。意識作用が純粋作用と考えられるのも、我々の意識と考えられるものがかかる矛盾の統一の場所なるが故である。無論、数理の如きものに於いても、述語的なるものが主語となると言い得るだろう。数理の統一は矛盾的統一である。しかし数理が数理自身を意識するとは言われない。論理的矛盾から意識作用は出て来ないと言い得るだろう。しかし数理の根柢となる一般者はなお限定された一般者である。限定された場所である。ただ、包摂的関係に於いての一般的方向、判断に於いての述語的方向を何処までも押し進めて行けば、私はいわゆる真の無の場所というものに到達しなければならない。無論、限定された一般を超えるという時、判断は判断自身を失わねばならないだろう。しかし具体的一般者というものをその極限にまで推し進めて行けば、これに到達せざるを得ない。アリストテレスは物理学第三扁において、無限定なるものがすべてを含むというパルメニデスの考えに対して、無限定なるものは全体と類似するが故に斯く考えられるのだが、無限定なるものは量の完成の質料として潜在的に全体であるが、顕現的に全体ではない。それは包むものではなく、包まれるものである。不可知的なもの、無限定なものが包むとか、限定するとかいうことはできないと言っている。判断の対象としては、斯く言う外ないだろう。しかし形相として限定されたものが意識された時、それが※エンテレケーヤであるとしても、なお於いてある場所がなければならない。
※ 引用 エンテレケーヤとは 

イデヤの場合はまたイデヤたることはできない。量の分割作用によって潜在と顕現と分かたれるならば、かかる作用自身を見るものがなければならない。潜在として有に包まれた無は、真の無ではなく、真の無は有を包むものでなければならない。顕現ということは真の無に於いてあるということである。主知主義のギリシャ人はプロチンの一者においてですら、真の無の意義に到達することができなかった。限定された一般者を超えると言えば、完全に知識の立場に於いて論じることができないと考えられるだろう。しかしそれは知識成立に欠くことのできない約束である。単に一般と特殊の包摂的関係に於いても、既にこの両者を包むものがなければならない。真の一般者とはかかるものを言うのだ。判断的知識の極致と考えられる矛盾的関係に於いては、明らかにこれ(一般と特殊を包むもの、一般者)を見ることができるのである。矛盾的関係に於いては、少なくも知るもの(主語面)と知られるもの(述語面)が相接触していなければならない。主語の面と述語の面がある範囲において合同していなければならない。これ故にかかる知識はアプリオリと考えられるのである。矛盾的統一の知識の対象も、対象そのものとして矛盾を含んでいるのではない。否むしろ厳密に統一されたもの、毫末も(わずかも)異他性を容れないものと言い得るだろう。最勝義(第一義)において客観的と言わねばならない。矛盾するとは述語のことである。矛盾的関係というのは判断の述語面に映されたものの間に於いて言い得るのだ。いわゆる主語面に於いては、是か非是か(Aか非Aか)の対立性を成すのである。矛盾的統一の対象にまで行き詰った時、判断的知識の立場からしては、もはやそれと他を更に包含する一般者を見ることはできない。しかしかかる対象といえども、述語可能性を脱することはできない。そうでなければ、判断の対象となることはできないのである(例えば、色と音は感覚である、など)。これにおいて我々は単なる述語面、純なる主観性というものに撞着せざるを得ない。始から主客の対立を仮定して何処までもこれを固執すればとにかく、そうでなければいわゆる客観界を包んだ純なる主観性、体験の場所というものに達することができる。かかる場所に於いて繋辞の有は存在の有と一致するのだ。客観的対象の主観と考えられる意識一般も意識であるとすれば、意識された対象と異なったものとして考えられねばならない。そして判断の立場から言えばそれは対象が於いてあるもの、述語的なるものと言わざるを得ない。これによって判断意識が成立するのだ。判断の立場から意識を定義するならば、何処までも述語となって主語とならないものと言うことができる。意識の範疇は述語性にあるのだ。述語を対象とすることによって、意識を客観的に見ることができる。反省的範疇の根柢はこれにあるのだ。従来のいわゆる範疇は一般者の求心的方向(主語的方向)にのみ見られたものであるが、これを逆の方向すなわち遠心的方向(述語的方向)においても見ることができるのだろう。判断は主語と述語の関係から成る。仮にも判断的知識として成立する以上、その背後に広がる述語面がなければならない。何処までも主語は述語に於いてなければならない。判断作用という如きものは第二次的に考えられるのだ。いわゆる経験的知識といえども、それが判断的知識であるかぎり、その根柢に(第一次的な)述語的一般者がなければならない。すべての経験的知識には「私に意識される」ということが伴わなければならない。自覚が経験的判断の述語面となるのだ。普通には我という如きものも物と同じく、種々なる性質を持つ主語的統一と考えるが、我とは主語的統一ではなく、述語的統一でなければならない。一つの点ではなく一つの円でなければならない。物ではなく場所でなければならない。我が我を知ることができないのは述語が主語となることができないのである。それでは、数学的判断の根柢となる一般者と経験科学的判断の根柢となる一般者はいかに異なるかと言うでもあろう。前者においては、上に言った如く特殊の面と一般の面が単に合同する(矛盾的統一となる)のであるが、後者においては、特殊を含む一般の面がこれ(特殊)を包んでなお余りあるのである。元来とな判断においては、述語となって主語らないものが、主語となるものの範囲よりも広いのだ。主語の方面にのみ客観性を求める判断的意識の立場から言えば、それ(述語となって主語とならないもの)は単に抽象的一般概念と考えられるだろう。しかし我々の経験的知識の基礎はかくの如き述語的なるもの、言わば性質的なるものの客観性に置かれなければならない。性質的なるものが主語となって述語とならない意義(基体の意義)を有することによって、経験的知識の客観性が立せられるのだ。直覚の形式としての空間の如きものであっても、含むと含まれるとの関係に立つ前に、すべてが空間でなければならない。数学的知識の根柢に直観があると考えられる所以である。直観というのは主語面が述語面の中に没入することに外ならない。斯く直観と考えられるものの背後においても消え失せない、対立なき対象(超越的対象)をも含んでなお余りある述語面が我々の意識界と考えられるものである。私に意識されると言うことはかかる述語面に於いてあると言うことを意味する。思惟の対象にもこれに於いてあり、知覚の対象もこれに於いてあるのである。思惟の意識と知覚の意識は異なると考えられるが、かかる区別はその対象に即して考えられる故である。知覚する私はまた思惟する私でなければならない。意識を作用と考えることすら、既に対象との関係において考えられるのだ。作用そのものすら意識されたものである。意識された作用としてすべての作用が同一の場所面に於いてある。これによって思惟と感覚が結合するのだ。意識面というのは判断の主語を包み込んだ述語面であって、斯く包み込まれた主語面が対立なき対象(超越的対象)となり、その余地が意味の世界となる。これ故に感覚的なるものすらいつも意味の縁暈(辺縁)を以て囲繞せられ、思惟的なるものの中心にはいつでも直覚的なるものがある。普通には始から主客を対立的に考え、知るということは主観が客観に働くことと考えるが故に、対立なき対象(超越的対象)というものが主観の外に考えられ、概念的なるもののみ主観に於いてあると考えられるのだが、いわゆる一般概念とは直覚的なるものの意識面に於ける輪郭であり、意味とはこれによって起こされるその意識面の種々なる変化である。あたかも力の場の如きものである。意識に於いては意味が内在するのみならず、対象も内在するのだ。志向的関係というのは意識外のものを志向するのではなく、意識面に於いてあるものの力線である。我々は普通に自同律において表される直覚面を意識面から除去して、余剰面だけを意識面と考えている。私が前に言った如く有に対する対立的無の場所をのみ意識面と考えている。これ故に直覚的なるものの背後には意識以外のものがあると考えられる。しかし直覚的なるものは自己自身に同一なるものとして、述語面の中に含まれていなければならない。
 一般と特殊の包摂関係を何処までも押し進めて行って、自己自身に同一なるものの背後にも、なおこれを超えて広がる述語面が真の意識面(真の無の場所)である。直覚も直ちにこれに於いてあり、思惟も直ちにこれに於いてある。対立的対象(意味)がこれに於いてあるのみならず、無対立の対象(超越的対象)もこれに於いてあるのだ。すべての主語面を超えてこれを内に包むが故に、すべての対象はこれに於いて同様に直接でなければならない(相接していなければならない)。種々なる対象の区別はこれに於いてあるものの関係から生じるのである。主語面を超えて述語面が広がるという時、我々は判断意識を超越すると言わねばならない。主語を失えば判断という如きものは成立しない。すべてが純述語的となる。主語的統一たる本体という如きものは消失してすべて本体なきものとなる。かくの如き述語面に於いて意志の意識が成立するのだ。判断の立場のみ固執する人には、かくの如き述語面を認めることはできないだろう。しかし意志は判断の対象となることはできないが、我々が意志の自覚を有する以上、意志を映す意識がなければならない。判断自身すら判断の対象となることはできないが、我々は判断を意識する以上、判断以上の意識がなければならない。そしてかくの如き意識面はこれを述語的方向に求める外はない。述語面が主語面を超えて深く広くなればなるほど、意志は自由となる。しかし何処までも意志は判断を離れるのではなく、意志は勝義(第一義)にて述語を主語とした判断である。判断を含まない意志は単なる動作に過ぎないのである。判断は自己同一なるものに至ってその極限に達する。かかる自己同一なるものの輪郭線を超える時、それが意志となる。それで意志の中心には、いつでも自己同一なるものが含まれている。上に言った如く自己同一なるものの周囲は意味を以て囲繞されている。対立なき対象(超越的対象)の周囲は対立的対象(意味)を以て囲繞されている。述語面が自己同一なるものを含んで更にそれ自身の領域を有する時、述語面は主語面に対して無なるが故に、それが深くなればなるほど、自己同一なるものの中に意味が含まれるようになる。無対立の対象(超越的対象)の中に対立的対象(意味)が含まれるようになる。すなわち自己同一なるものは意志の形を取って来るのだ。自己同一とは主語面と述語面が単に一となることではない。何処までも両面が重なり合っているのである。自己同一なるものがその背後の述語面に移された時、自己同一の主語面を囲繞していた意味は、述語面に於ける自己同一の中に吸収されるのである。述語面に於ける自己同一がすなわち我々の意志我の自己同一である。自己同一の外にあった意味が自己同一の中に含まれるが故に、意志に於いては特殊の中に一般を含むと考えられる。無論それはもはや特殊というべきものではなく個体でなければならない。判断的意識の面からその背後に於ける意志面に於ける自己同一なるものを見た時、それは個体となるのである。判断的意識面に於いては対象と意志は区別されるであろう。無対立の対象(超越的対象)と対立的対象(意味)も区別されるであろう。しかし自己同一の極限を超えて単なる述語面に出た時、これらの区別は消滅して同等となると考えることができる。単なる意識我の立場に於いては、感覚作用も思惟作用も同様に意識される。ここに随意的意識の世界が開かれると共に意味と対象の直接なる結合も可能となるのである。斯く一旦述語面に於いて意味と対象が両ながら直接となった後、述語面に於いて対立的対象(意味)と無対立的対象(超越的対象)はいかなる関係に於いて立つか。述語面に於いての統一とは何を意味するか。述語面に移された自己同一とはいかなるものだろうか。単に知識的に言えば、既に主客同一であって、更にそれ以上のものを考えることはできないだろう。しかしいわゆる主客合一とは主語面に於いて見られた自己同一であって、更に述語面に於いて見られる自己同一というものがなければならない。前者は単なる同一であって、真の自己同一はかえって後者にあるのだ。直観とは一つの場所の面がそれが於いてある場所の面に合一することであるが、斯く二つの面が合一すると言うことは単に主語面と述語面が合一すると言うことではなく、主語面が深く述語面の底に落ち込んで行くことである。述語面が何処までも自己自身の中に於いて主語面を有することである。述語面自身が主語面となることである。述語面自身が主語面となるということは述語面が自己自身を無にすることである。単なる場所となることである。包摂的関係に於いて、特殊が何処までも特殊となって行くということは一般が何処までも一般となって行くということでなければならない。一般の極致は一般が特殊化することのできないものとなるのである。すべての特殊的内容を超越して無なる場所となることである。主語と述語の判断的関係から言えば、これを単に主客合一の直観と言うのだ。これ故に無対立なる対象(超越的対象、個体)の意識は意識(主語)が意識自身(述語)を超越するのではなく、意識(主語)が深く意識自身(述語)の中に入るのである。これを超越するというのは、対象的関係のみを見て意識自身のの本質を考えないからである。意識の本質を主語面を包んで広がる述語面に求めるならば、この方向に進むことが純な意識に到達することである。その極致に於いて、述語面が無となると共に対立的対象(意味)は無対立の対象(超越的対象、個体)の中に吸収され、すべてがそれ自身において働くものとなる。無限に働くもの、純なる作用とも考えられるのだ。これ故に意志はいつも自己の中に知的自己同一を抱くと言うことができる。主語の方向に於いて無限に達することのできない本体が見られる如く、述語の方向に於いて無限に達することのできない意志が見られるのだ。そしてその極、主語と述語の対立をも超越して真の無の場所に到る時、それが自己自身を見る直観となる。斯く述語をも超越するということは無論知識を超越するということでなければならない。しかし述語が主語を超越するということが意識するということであり、この方向に進むことが意識の深底に達することであるとすれば、知識の立場に於いて我々に最も遠いと考えられるもの(真の無の場所)が、意志の立場に於いては最も近いものとなる。対立的対象(意味)と無対立的対象(超越的対象、個物)の関係は逆となると考えることができる。「或者がある」「或者がない」という二つの対立的判断に於いて、その主語となるものが完全に無限定として無となれば、ヘーゲルの考えた如く有と無が一となると考えることができる。そして我々はその総合として転化を見る。かかる場合、我々は知的対象として主語的なるものを求めればただ転化するものを見るのみであるが、その背後には肯定否定を超越した無の場所、独立した述語面という如きものがなければならない。無限なる弁証法的発展を照らすものはかくの如き述語面でなければならない。
 包摂的関係を何処までも述語の方向に押し進めて、その極限において意識面に到達する。主語面を超えてこれを内に包むものが意識面である。感覚的なるものと言えども、それが知的対象として考えられるかぎり、その背後に一般的なるもの、すなわち述語的なるものがなければならない。かかる述語的なるものが主語となる時、広い意味において働くものが考えられるのだ。そしてかかる意味において働くものは我々の意識に最も直接なるものと言い得るのである。これ故に一般概念の限定なくして働くものを考えることはできない。我々は判断の方向(主語→述語)を逆にすること(述語→主語)によって働くものを考え得るのだ。我々の経験内容が種々に分類され、概念的に統一されるに従って、種々なる作用(例えば、赤の作用、青の作用など)が区別される。そして種々なる一般概念が更にその上にも一般概念的に統一される(例えば、色)に従って、作用の統一(視覚作用)というものが考えられる。かかる一般概念的統一の方向を何処までも押し進めて行けば、遂にすべての経験内容の統一的一般概念に到達するであろう。かくの如きものが物理的性質でなければならない。共通感覚の内容とも言うべきものだろう。フッサールの知覚的直覚というのはかくの如き意味において一般概念によって限定される直観に過ぎない。更にかかる限定を超えて述語的方向を押し進めれば、知覚的なるものを超えて思惟の場所に入る。この場合においても意識は知覚的なるものを離れるのではない。知覚的なるものは直覚的なるものとしてこれ(思惟の場所)に於いてあるのである。ただその余剰面において単なる思惟の対象という如きものが見られるのだ。いわゆる自覚的意識とは、かくの如く知覚的なるものも、思惟的なるものも直接にこれに於いてある場所である。自覚的意識面とはあたかも対立的無の場所に当たるであろう。我々が普通に意識面と考えているものはこれ(自覚的意識面)である。しかし我々はなお一層深く広く、有も無(対立的無、意識)もこれに於いてある真の無の場所というものを考えることができる。真の直観はいわゆる意識の場所(対立的無の場所)を破って直ちにかかる場所に於いてあるのだ。対立的無の場所(意識)は限定された場所として、なお主語的意味(一種の有)を脱することができないから、すべて超越的なるものを内に包摂することはできない。直ちに直観的なるものはかかる場所(対立的無の場所)をも超えたものでなければならない。いわゆる感覚的なるものも直観的なるものとして、その根柢はいわゆる意識面(対立的無)を破って真の無の場所に於いてあるのである。真に直観的なるものとしては、感覚的なるものは芸術的対象でなければならない。場所が無となるに従って対立的対象(意味)は無対立的対象(超越的意味)の中に吸収されて、対象は意味に充ちたものとなる。かくの如き直ちに直観の場所すなわち真の無の場所に於いてあるものがいわゆる意識の場所、すなわち対立的無の場所に於いて見られる時、それが無限に働くものとなる。そして直観の場所(真の無の場所)はいわゆる意識の場所よりも一層深い意識の場所であり、意識の極致であるから、内に超越的なるもの(自己同一なるもの)を見ると考えられるのだ。しかし逆に直観の場所(真の無の場所)からこれを見れば、(自己同一なるものは)これに於いてあるものが対立的無の場所(意識の場所)へ投げた自己の影像に過ぎない。かくの如く直観の場所(真の無の場所)から見た時、働くものとはこれに於いてあるものの自己限定として意志作用である。そして直観的なるものの於いてある場所、直観の述語面に於いてあるものを知識面から見れば無から有を生じる無限の作用と見られ、無(対立的無)もこれに於いてある直観面から見ればそれが意志である。直観面(真の無の場所)は知識面を超えて無限に広がる故に、その間に随意的意志が成立するのだ。判断とは一般の中に特殊を包摂することであり、変じるものは相反するものに移り行く。変じるものを意識するには、相反するものを含む一般概念(類概念。色など)が与えられていなければならない。かかる場合、一般概念(色)が意識面(述語面)に於いてあり、特殊なるもの(赤いものなど)が対象面(主語面)に於いてあると考えられる間は、働くものを意識することはできない。ただ、対象面が意識面に付着した時、すなわち一般的なるものが直ちに特殊なるものの場所となった時(赤が色に於いてあると判断された時)、働くものが見られるのだ。対象面が意識面に付着するということは対象(主語)が判断するもの(赤)となり、意識(述語)が変じるもの(色)となることである。しかし対象面と意識面、主語面と述語面が単に一つとなってしまえば、働くものなく、判断するものもない。かかるものが見られ得るかぎり、述語面が主語面を包むものでなければならない。そして判断意識の性質からして何処までも斯く考えるべきである。変じるものが相反するものに移り行く(働く)ということは述語として限定することのできない何物か(色)があり、これによって述語となるもの(赤や青など)が限定されると共に、その物はまたすべてについて述語となることを意味する。主語的に言えばそれは個体というべきものであり、述語的に言えばそれは最後の種というべきものであろう。述語が主語を包むという考えから言えば、述語面(色)が自己自身を限定することであり、すなわち判断することである。これ故に述語面(色)が限定されるかぎり働くものが考えられる。判断の矛盾を意識する述語面に於いてのみ、真に働くものが考えられるのだ。矛盾的統一(赤や青など)の述語面(色)に於いてはじめて述語面が独立となるのである。単に限定された述語面は判断の根柢とはなるが、働くものとなることはできない。働くというのは主語面(赤や青など)が述語面(色)に近づくと考えられる如く、また述語面(色)が主語面(赤や青など)に近づくことである。述語面(色)が主語面(赤や青など)を包んで余地あるかぎり働くものとなる。働くとは主語面(赤や青など)を包んで余りある述語面(色)が自己の中に主語面を限定することである。包摂的関係を述語面から見ることである。これ故に一つの包摂的関係はその主語面を包んで余りある述語面からは意志であり、その主語面に合する範囲においては判断であり、述語面の中に含まれた主語面においては働くものとなるのだ。しかし述語面が自己を主語面に於いて見るということは述語面自身が真の無の場所となることであり、意志が意志自身を滅することであり、すべてこれに於いてあるものが直観となることである。述語面が無限大となると共に場所そのものが真の無となり、これに於いてあるものは単に自己自身を直観するものとなる。一般的述語がその極限に達することは特殊的主語がその極限に達することであり、主語が主語自身となることである。

 以上論じた所は多くの繰り返しの後、遂に十分思う所を言い表すことのできなかったのを遺憾とする。特になお直観の問題には入ることができなかった。ただ、私は知るということを従来の如く知るものと、知られるものの対立から出立する代わりに、一層深く判断の包摂的関係から出立してみたいと思うのである。

左右田博士に答ふ

 哲学研究第百二十七号に掲載せられた左右田博士の論文を読み、私は近頃初めて理解あり権威ある批評を得たかに思う。今間を得て、私の考える所を述べ、更に博士の高教を乞いたいと思うのであるが、詳細に私の考えを述べるのは今後の論文に譲りたい。「場所」の終に於いて、私は多少従来と異なった考えに到達し得たかと思う。無論、それは他から見て何らの価値もない私の幻覚に過ぎないかも知れぬが、私は今後しばらくその立場によって、私の思想を精錬し発展して見たい。今はただ私から見て博士の批評によって起こる根柢と思われるものに対して、私の考える所を述べて見ようと思う。

 私はまず知識とはいかなるものかを問題としてみたい。知識を問題として、これについて何事かを明らかにすると言えば、それは既に知識である。眼は眼を見ることはできないと言えば、それまでであるが、私は我々が知識というものの中において、少なくとも種々の種類があり、種々の次位を区別し得ると思う。まず客観的対象を認識するということと、主観的作用を反省するということは、同じく知識と言い得るとしても、同一の範疇に属する知識ではない。ある意味においては、むしろ相反する立場によって成立する知識とも言わねばならない。主観的作用を反省しこれを知るということは、なお何らかの意味においてこれを対象化すると言い得るかもしれない。反省的知識の対象としてこれを認識するとも言い得るだろう。しかし批評哲学の知識という如きものに至っては、更に一層高い立場の上に立つものと考えざるを得ない。同一の立場に立つ知識を以て、同一の立場に立つ知識を反省し批判することはできない。知識が知識自身を反省するということは、知識が知識自身を超えて何処までも深い立場(高次的立場)に立つということでなければならない。斯く知識に種々の次位が認められ、最後に知識自身を反省し批判する知識も知識と言い得るならば、それはいかなる意味において知識と言い得るか。批評哲学の立場においては、更に何らか高次的なるものが加わって来なければならないとするならば、それはいかなるものだろうか。
 理論理性によって知るということと、理論理性が自己自身を反省する(自覚する)ということは同一でない。避くべからざる循環(循環論証。証明すべき結論を前提に用いる論法)と言っても、避くべからざる循環と知った時、それは単に同じ所に還ったということではない。同じ所にいただけでは、そこに還らなければならないということを知ることはできない。我々が何か考えれば少なくも形式論理の形式に当てはまらなければならないのは言うまでもない。しかしそう言ってしまえば、すべての知識は同一になってしまう外はない。しかも知識は単なる形式論理の形式によって成立するものではない。内容との結合によって客観的となるとはカントも力説した所である。批評哲学といえども、それ自身の内容を持っていなければならない。知識の形式を批評するという時、既に形式が内容となっている。無論、論理の形式以上の形式があると言うのではない。しかし形式によって考えるということと、形式自身の自省ということは同一ではない。論理の形式を内容として考える知識は、また論理の形式によって成立すると言っても、それが空虚なる詭弁に終らざるかぎり、そこに新しい知識の意味がなければならない。自覚も知識であると言っても、単に対象を認識するという知識と同一立場の知識ではない。批評哲学の知識が既に単なる対象の認識以上の立場(単なる対象の認識よりも高次的な立場)に立つことが許されるならば、かかる立場は何処まで深め得、何処まで以上は深めることができないだろうか。いわゆる知識を批評する知識の立場、すなわち自覚的立場はそれ自身の積極的立場を持っていなければならない。そしてその立場は単に形式によって対象を構成するという知識の立場ではない。我々の真の自覚とはいかなるものであるか。自覚は自覚自身の内(自己自身の中)に深く反省して見なければならない。批評哲学の知識はこの立場の上に立てられるのである。斯く言えば、更に自覚を自覚する知識の立場がなければならないではないかと言われるかもしれないが、かかる疑問は自覚を対象的知識と同一と考えるから起こるのである。自覚において深く自覚自身の中に反省するということは自己自身の外に出ることではない。自覚には深浅と種々の段階を考えることはできるだろう。しかし自覚の自覚という如きは空虚なる言辞に過ぎない。
 カントは数学や純粋物理学がいかにして可能なるかを明らかにした。しかしこれらの対象的知識を批評する批評哲学そのものの立場を明らかにしていない。理論理性によって認識するということと、理論理性そのものの自省と相異なることが許されるならば、理論理性自身の自省の拠って立つ立場とその形式が示されねばならない。批評哲学はいかなる立場によってその一般妥当性を要求するか。体験は認識以前と考えられるが理論理性の自省そのものが既に体験の一種ではなかろうか。自覚ということは単に心理学的事実ではない。単に心理学的事実としては自覚の意識は出て来ない。私は自己を形而上学的存在と考えることすら、自覚の意識と矛盾すると思う。カントの後に出たフィヒテやヘーゲルの哲学が形而上学に陥ったという非難は何処までも弁護することはできないが、また単にこれをカント以前の形而上学に逆転したと考えるならば、早計たるを免れない。


 知るということは一様ではない。私は知るということに、少なくとも根本的に相反する二つの方向を区別しなければならないと思う。一つは対象認識の方向であり、一つは自覚の方向である。同じ対象認識の方向と言っても、限定的判断(一般なるものが先ず与えられ、これによって特殊なるものを包摂する判断。例えば、赤は色である)による自然界の認識と、反省的判断(特殊なものがまず与えられ、これに対して一般であるものを見出す判断。例えば、これは赤である)による合目的的世界の認識は、既にその認識形式を異にしていなければならない。後者は既に自覚的形式の方向に傾いたものである。まして心理的現象界の認識、更に進んで歴史的世界の認識という如きものに至っては、これらも一種の対象的認識と言っても、更に一層自覚の形式に近づいたものでなければならない。これらの立場の推移は単に同一の方向を進めたものではなく、新たなる立場を加えて行くのである。一々の場合に立場の超越があると言うこともできる。しかし超越と言っても、知識の外に出て行くということではない。すべてが自覚の中に包まれているのである。
 自覚というのは、知るものと知られるものが一であると言う様に、対象的に認識することではない。自己同一というのは、対象的に自己を同一として認識するということではない。もし斯く考えれば、自己というものではなくなるのである。同一ということと自己同一は一つ(同じ)ではない。真の自己同一の意義は、私が従来の論文において言った如く、作用の自覚【作用の作用】の方向に求めて行かねばならない。そして更に作用ということを判断意識の立場から「働くもの」において論じた如く考え得るならば、真の自覚の意識は述語的一般が無となること、すなわち真の無の場所に求めなければならない。これらの点に関する詳論は他日に譲りたいと思うが、述語的一般が対立的無(有に対立して考えられた無、意識)として限定され得る限り、なおいわゆる知識的自覚に属するが、更にこれを超えて真の無の場所に到る時、意識的自己を忘すると考えられると共に、自己自身の直観として真の自覚に到達するのである。cogito ergo sum(我思う故に我あり)のsum(我)を存在と考えるならば、自己を対象的に形而上学的存在と見ることであり、それは真の自己というものではなくなる。カントの意識一般(純粋統覚)という如きものは、これ(対象的認識の方向)に反し自覚的意識の自己反省の方向において見られるものであることは言うまでもないが、単に客観的対象界の総合統一の意識としての意識一般は、なお徹底した自覚ではない。この立場を超えれば、知識はないと言われるかもしれないが、それではカントの批評哲学は何であるか。意識一般を超えて対象的認識の意味の知識が成立し得ないことは言うまでもないが、カントの批評哲学もまた意識一般の立場において構成されたものとは言われまい。
 我々の意識の自覚的方向は、意識一般の立場に止まるものではない。その最も深い底は私のいわゆる真の無の場所たる直覚的自覚にあるのであるが、その中間において意志的自覚を見ることができる。意志的自覚は判断的自覚よりも深く、これを内に包んだものである。対象的認識の方向において意志を認識することはできない。意志の意識を完全に否定するならばとにかく、仮にもこれを認めるならば、これを対象的認識の方向においてするのではなく、自覚の奥においてするのでなければならない。我々の自覚の奥に意志的自覚の立場を見ることによって、対象界に心理的意志を認識することができるのである。心理学的現象界、歴史の世界を客観的に認識するというのも、かくの如く自然界認識の立場(対象的認識の立場)よりも一層深い立場(意志的自覚の立場)を自覚の底に見出すことによって可能となるのである。後者の立場(意志的自覚の立場)をも意識一般というならば、意識一般にも種々の意味がなければならない。意識一般は、意志的自覚の方向に自己を深めることによって、種々の対象界を見ることができるのである。
 我々が意志することを知るというから、否直観するということをすら知ると考えねばならないから、理論理性が最高であると言うならば、知識という語の意義の問題とならねばならない。そういう場合の知るということ(自覚的立場における知るということ)は、意識一般によって対象を認識するということ(対象的認識により知るということ)とは違うのである。そういう意味の知るという立場は、知識が知識自身を自省する立場であってかかる意味における知るという中には、意志することも、直観することも含まれてくる。それは判断意識というものではなく、我々の自覚的意識の立場において深く反省されたものでなければならない。意識を対象とする意識でなければならない。意志するというから直ちに作用(意志作用)ということと同一視されるが、意志ということは、意識の外から働くということでないのみならず、内から働くということでもない。自覚の一様相である。かかる自覚の立場から、判断的知識に対して意志の優位が考えられるのである。更にその上に直覚というものも認めねばならないのである。


 以上述べたように、知るという中にも、私は種々の立場の区別をしたいと思う。カント哲学では知るというのは形式によって質料を統一することであると考える。これを対象的認識という。認識するというには認識主観というものが考えられねばならない。カント哲学ではこれを意識一般という、しかし意識一般の立場において構成することと、かかることを反省することは別でなければならない。また同じく知識を反省すると言っても、種々の知識について、単にその対象的形式を明らかにして行くということと、認識作用そのものの内(自己自身の中)に反省して行くということは違う。カントの意識一般という如きは、後者の意味において自覚の純化したものである。カント以上になおいかに純化して行っても主観という意義が残らねばならない。認識主観そのものと対象的形式、すなわち形式そのものは区別することができる。かかる区別は何処から起こって来るのであるか。これを区別する主観はいかなるものであるか。それがまた論理的主観であるとするならば、そういう論理的主観と論理の形式はいかなる関係において立つか。例えば肯定と否定を統一するものは何であるか。それ(論理的主観)はまた論理的形式によって認識するとは言われまい。それは論理的認識の限界であると言われるかもしれないが、限界ということは一層高次的なる立場を認めることによって可能となるのである。始から知るということと、知ることを知るということの区別を明らかにしないため、かかる自家撞着を生じるのである。
 意識一般というのは我々の主観を極限にまで押し進めたものでなければならない。完全に心理的主観の意義を没却したものでなければならない。無論それは存在するものではない。しかし主観の性質的差別は極限に至っても消え失せるとは言われない。そうでなければ論理的規範意識と倫理的規範意識と区別することもできない。元来両者共に我々の自覚の意識から出立したものと考える外ないが、その極限に至って各自別個の主観となるのであるか。主観を何処まで押し進めて行っても、主観とか意識とかいう意義を脱することはできない。仮にも主観とか意識とかいう意義を脱することのできないかぎり、主観と主観との関係が極限に至る故を以て変じると考え得るであろうか。対象認識の論理的主観を何処まで押し進めても、意志主観がその下に入って来るとは考えられない。判断主観の下に意志主観が従属する様になるとは考えられない。意志主観及びその対象界をも包むと考えられるものは、実は判断主観という如きものではなく、主観そのものすなわち自覚という如きものではなかろうか。一体、知識は単に形式によって構成されるのではなく内容との結合によって成立するのである。かかる結合はただ自覚の立場においてのみ可能である。同じく所与と言っても知識の種類によって異ならねばならない。時間、空間、因果という如きものは、ただ自然界の所与の範疇に過ぎない。作用の方面において、理解力と知覚を結合するものは自覚である。しかし右の如き所与(知覚的所与)による対象界(自然界)の中に意志の対象界は入って来ない。意志の対象界が構成されるには、異なった所与がなければならない。例えば、人と人が互いに直感する感情移入の如き直接所与がなければならない。そしてそれは自然界の所与たる知覚とは異なったものでなければならない。
 自覚という語はすぐ心理学的と考えられるかもしれないが、一体心理学的とはいかなることを意味するのであるか。もし意識自身の自省という如きことをも心理学的と言われるならば、知識があると言うことから出立するというのも心理学的ではなかろうか。私の自覚というのはいわゆる心理学的自覚を意味するのではない。意識自身の自省をいうのである。心理学的自覚という如きものはこの立場(意識自身の自省の立場)において見られるのである。斯く言えば直ちにそれ(自覚)が宇宙の自覚的精神という如き形而上学的実在であるかの様に考えられるかもしれないが、自覚は超越的に存在するものではない。超越的に存在するものなら、それは自己意識というものではない。意識を心理的と限定すれば、それより外のものは皆超越的となるかもしれないが、それでは知識があるという如きことは、何処から出て来るのであるか。知識があるということから出立して考えられた認識主観が心理的ではない、形而上学的ではないと言い得るのは、心理的主観を超越して心理的認識作用の根拠となるが、しかもそれは意識を超越した形而上学的存在でないと言うことでなければならない。意志自由の意識というのも単に心理現象として考え得るものではない。そして自由の自覚なき意志は意志ではない。意志主観は心理的意志現象を超越し、後者(心理的意志現象)はかえって前者(意志主観)によって成立するものでなければならない。しかも意志の自覚も何処までも意識に内在的でなければならない。神の意志は私の自覚的意志ではない。認識主観というものが単に知識の形式という如きものでなく、仮にもそれが主観とか意識一般とかいう意味を有するかぎり、知識自身の自知(自覚)というものがなければならない。知識があるということは知識の自知(自覚)ということを含んでいなければならない。無論それは私の知識があると知る、という如き心理的自覚とは離すことができるであろう。しかし知識があるということは単に対象があるということでなく、否真理自体があるということでもない。知識があるというには、主観を入れて来なければならない。かかる主観が意志をも対象として知り得るというならば、それは自覚的でなければならない。単に論理的なる認識主観であるならば、その眼界に意志は入って来ない。一体、真理自体があるということも単に対象自体があるということとは違うのである。まして誤謬という如きことは、否意味ということすら、判断主観の自省ということなくして考えられないのである。
【私は対象化された心理的意志を判断主観の上に置くのでもなく、また内から働く神秘的能力を意志と考えるのでもない。判断主観よりもなお一層深き主観を意味するのである。自覚についても同様である〈不完全ながら既に「自覚に於ける直観と反省」や「意識の問題」にも論じている〉。知るということが単に心理学的に成立しない如く、単に心理学的に考えては、意志や自覚も成立しないのである。主観という意味を深く考えられるならば、かく考えねばならぬと思う。意志は単に働くものでない。働くことを知るものである。自己は単に存在するものでない。存在することを知るものである。認識主観の外にあるのではない。認識主観がこれに於いてあるのである。知るということを知るのも認識主観だと言われれば、私はただ語義の問題だと思う。直ちにそれを判断主観の如くに考えるのは当を得ない。それならば自覚の自覚、判断の判断のまた判断という如く際限がないではないかと言われるかもしれないが、それは単なる空論に過ぎない。我々は零の零を考え得ざる如く自覚の自覚という如きものを考えることはできない】


 内容なき思想は空虚であり、概念なき直覚は盲目であると言ったカントは知識の客観性を内容と形式の統一に求めた。感覚の制約ということはカントの重要視した所である。然るに今の西南学派の人々は深くこの点を顧慮していない。カントの純粋統覚は単に論理的主観という如きものではない。所与の範疇たる直覚の形式によって与えられた内容と結合したものでなければならない。コーヘンは“Kants Theorie der Erfahrung(カントの経験論?)”においてこの点に着眼した。これ故に思惟意識そのものの自省から生産的思惟の考えに至り、遂に感覚をも思惟によって要求されるものとして、オン(存在。有)に対するメー・オン(非存在、非有)と考えた。私は何処までもコーヘンの考えに同意するものではないが、斯くしてこそ構成的思惟(生産的思惟)としてのカントの純粋統覚の意味は徹底し得ると思う。然るにリッケルトの如く考えるならば、構成的主観としての意識一般の意義は失われ、これに代わるにボルツァーノの真理自体の如きものを以ってせられ、意識一般は単に判断意識という如きものに狭められた。いかにして超越的価値なるものが我々の思惟に対して当為となるのであるか。対象自体という如きものが何故に我々に真理として承認されなければならないのであるか。真理などいえば言うまでもなく、価値というも既に主観的意味を持っているのではないか。単なる判断の形式に対しては、内容は無関係でなければならない。何故に完全に主観を超越したものが判断作用の目的として主観を制約するのであるか。もし範疇的に構成されたものが判断の対象となると言うならば、範疇的に構成するものは何であるか。それがカントの意識一般の如く構成的、少なくも総合的統一的主観の意義を有するものでなかったならば、カントのコペルニクス的回転の意義は失われてしまうではないか。
 厳密に対象自体という如きものから出立すれば、意識一般との結合が困難となり、何処までもカントの立場を徹底して行けば、構成的主観を認めねばならない。しかもかかる構成的主観と単なる判断主観は直ちに同一なるものではない。構成的範疇と反省的範疇と異なる所以である。然るに何によって両者はともに主観ということができ、相互に相関係することができるのであるか。かかる主観と主観の内面的関係を求め得るには、深く我々の自覚的意識の内に省みる外はない。判断的意識も自覚的意識の一面である。しかしその全体ではない。まして自覚そのものではない。自覚はいわゆる主観の主観、いわゆる意識の意識でなければならない。限定されたある一つの主観に対して、これを包む全主観によって構成されたものが客観的対象界として対立するのである。カントが経験界の構成的主観と考えたものは、知覚と思惟の総合的主観であった。判断主観は自己を包む全主観の対象界に知識の客観性を求めねばならないのである。自己の目的を見出さねばならないのである【私がかつて直観と反省の統一たる自覚を基として論じたのもかかる考えに外ならない。心理学を基礎とするとか、形而上学を説こうとしたのではない】。
 カントの形式主義は単に判断意識の形式を説いたものではない。カントは所与の原理を説いている。そして両者(判断意識の形式と所与の原理)の統一として客観的知識を構成するものを、純粋統覚たる知的自覚に求めた。斯くして真にいかにして知識は可能なるやの問題に答え得ると思う。リッケルトの認識論はただ、知識の構成的原理としての判断意識を明らかにするに止まる。知識の客観的根拠として極力対象の必要を説くも、それはただその必要を説くのみである。ただ対象にぶつからねばならないと言うに過ぎない。所与の原理というものは顧みられていない。かかるものを論じることが、すぐに心理学的になるとか、形而上学的に陥るとか考えているようである。無論知識の特殊的内容を説明するのは認識論の外に出ることとなるであろう。しかし客観的知識が内容との結合によって成立するとするならば、所与の原理の根拠が明らかにされねばならない。然らざれば真に客観的知識の構成原理を明らかにし得たとは言えない。知覚が直ちに知識でないことは言うまでもないが、無内容なる判断もまた知識ではない。カントの経験界について言えば、知覚作用と言うものがかかる所与の原理となるのである。客観的知識の範疇は、この場合、思惟と知覚の両作用を統一する主観の形式として明らかにされるのである。それ(思惟と知覚の両作用を統一する主観)がカントのいわゆる意識一般であって、私が作用の作用として自覚的と考えるものである。かかる意味の主観の立場において、客観的対象が範疇的に構成されているということができ、形式と質料の対立が考えられるのである。作用としての知覚(所与の原理)の構造を反省することなくして、いわゆる所与の範疇という如きものを明らかにすることはできない。単に判断意識の内から対象にぶつかるというだけでは、かかる範疇(所与の範疇)は出て来ないのである。かかる客観的知識構成の原理として知覚作用の構造を明らかにすることがあるいは心理的と考えられるかもしれないが、判断意識そのものを自省して知識の構成を論じることが、既に単なる対象的認識の立場ではなく、作用の意識の立場ではないか。知ることを知るのも、知ることであると言っても、前の知るということと、後の知るということは、知るということの意味が異なっているではないか。判断の形式のみを考えれば、同じでもあろう。しかし単に判断の形式に当てはまるということが知るということではない。作用的意識の反省の立場を、判断意識の反省にのみ限らねばならないという理由は何処にあるか。理論理性の自省である認識論は単に判断意識の自省ではなく、知識自身(所与の原理)の自省でなければならない。これを単に形式的なる判断意識に限ろうとするのは die blosse dogmatische Beschrankung der Erkenntnistheorie(認識論の単なる独断的な限定?) ではないか。

 カントは所与の原理としてただ知覚作用というものを考えた。いわゆる自然界の知識構成としてはそれでよいのである。思惟の範疇と直覚の形式の結合によっていわゆる経験界構成の先験的原理が与えられ、かかる経験の所与なくして徒に推理を進めることは、認識の限界を超えるということができる。知覚の所与によって明らかに自然科学的知識の限界は限定されるのである。しかしこの場合、形式と内容を統一して、知識の客観性を樹立する認識主観は何であったか。カントの意識一般は単なる判断主観ではない。単なる判断主観の立場においてかかる統一(知識の客観性を樹立する認識主観)を説くことは不可能である。単なる形式的判断主観を超越的なる対象界の統一にまで押し進めて行っても、その性質が変わらないのである。同じ袋をいかに内から押し広げても同一の袋たるを免れない。カントはかかる統一を知的自覚(純粋統覚)に求めた。カント哲学の真髄はここにあると思う。私はカントのこの立場に立って深く自覚的主観の意義を考えてみたい。我々の自覚というのは作用と作用の直接結合の意識である。これ故に自覚において、判断(作用)と知覚(作用)が直接に結合すると言い得るのである。もし我々の真の自覚を斯く考えるならば、自覚的意識の立場において所与の原理と考えられるものは、単に知覚的意識にのみ限定し得るであろうか。作用の意識としては、意志の意識も知覚の意識と同様に直接である。意志によって与えられる直接の意識内容がなければならない。かかる意志的意識の所与は知覚によって与えられるものではない。例えば、衝動という如きものであっても既に知覚ではない。ましてリップスのいわゆる感情移入の対象界という如きものは、知覚によって与えられるものではない。無論知覚が直ちに概念的知識と言い得ざる如く、意志が直ちに概念的知識ということはできない。しかし知識の客観性が単に判断の形式によって立せられるのではなく、直接所与の内容との結合によって立せられるとするならば、直接所与の内容の異なるに従って認識の形式も異なって来なければならない。知覚的所与との結合によっていわゆる自然界が構成されるならば、意志的所与との結合によって、これと異なった対象界が構成されなければならない。いわゆる文化の世界という如きものも斯くして構成されるのである。単なる論理の形式によって、異なった対象界は構成されない。意志の所与が少なくとも知覚の所与と同様に直接と考えられるが故に、自然科学に対立して、別の経験科学として文化科学が立せられるのである。カントの意識一般は思惟と知覚の結合であった。これを知覚の結合から自由にするのは、私の同意する所である。しかしこれ(意識一般)を単なる判断主観とするならば、客観的知識の主観たる意味は失われてしまわなければならない。
 右の如く意志的体験も知覚と同列的に所与の意識として、判断主観に対して質料を与えると言うのみならば、判断主観が最高の位置に立つものであって、意志の優位という如きことは何処から出て来るかとも言い得るであろう。単に形式的なる判断主観の立場に立ち、客観的知識の認識主観の立場に立たないなら、対象はすべて一様に価値とか当為とかいうものであって、その間に何らの区別もできないであろう。知識は形式と内容の区別によって成立し、両者統一の主観が真の認識主観であるとするならば、この立場において即ち私のいわゆる自覚的立場において、単なる形式的判断主観と所与の意識がいかなる関係に立つかを明らかにすることができなければならない。判断意識と知覚の関係は意志と判断意識の関係に同一ではない。判断主観が知覚に結合するということと、意志に結合するということは、判断主観そのものの立場から見ても同一ではない。限定的判断作用(赤は色である)と反省的判断作用(これは赤である)が区別される所以である。言わば一つは対象を前に見、一つは対象を自己の背後に見るのである。一は自己の前から与えられ、一は自己の背後から与えられるのである。知覚的内容というものは一般概念的に限定されたものであるが、意志的体験の内容は論理によって限定されるものではない。かえっていつもこれ(論理)を破るものである。これ故にカントの如く認識主観を判断と知覚の結合に限定すれば、意志の内容という如きものは知識の内に入って来ない。文化科学という如きものでも厳密なる意味においては知識ではなくなる。単に判断意識の内に閉じこもって内容との関係を顧慮しなければ、二種の科学が同様に見られるかもしれないが、判断的知識の本質が限定された一般概念の上に立つという見地からすれば、自然科学と文化科学は同列的ではない。私はカントの認識主観の意義を判断主観に狭めることによって、知覚との結合から自由にするのではなく、むしろこれ(認識主観の意義)を広めることによって文化科学をも客観的知識と考えたいのである。すなわち所与の原理を知覚に限るということから認識主観を自由にしたいと思うのである。所与の原理は異なるも、形式と内容の統一たる認識主観の下において、両者(自然科学と文化科学)共に経験科学と言うことができ、共に客観的知識と言って差し支えない。しかし所与の原理の異なるが故に概念的知識としては同位的ではない。真の認識主観を単なる判断主観ではなく、カント自身の考えた如く形式と内容の統一の主観とするならば、所与の原理と共に認識主観の意味が変わって来なければならない。知覚と思惟の統一たる知的自覚(純粋統覚)なくして自然界が成立しない如く、意志の自覚なくして意志の対象界は成立しない。意志の自覚なくして、文化科学の根本概念なる個性の概念も成立しないと思う。そして意志の自覚は知的自覚と同じく直接である。否かえって一層深い自覚である。我々は自覚の立場を深めて行くことによって、一層深い対象界を見得るのである。単に判断主観の立場のみに立っていれば、すべてその外から与えられるものは神の所為とでも考える外はないのである。知覚的所与ということすらも神為という外はないではないか。所与の範疇というものは何処から成立するのであるか。カントの物自体を知覚の根柢に考えられねばならない超越的対象の意味に解するならば、それは排除すべきではなく、かえって認識構成に欠くべからざるものでなければならない。私が意志の優位を説くと考えられても、それは情意に基づく信念の如きものを以って客観的知識の上に加えようと言うのではない。そういうことは一度も考えたことはない。私の考えでは、意志的体験は知覚のそれの如く直接の所与である。しかもそれは知覚より一層具体的なる所与であって、知覚的所与の範疇に入って来ない。私は今知覚と意志の意識的構造について詳論する暇はないが、知覚の内に意志を包むと言い得ないが、意志の内には知覚を包むと言うことができる。意志の対象界(文化の世界など)はいわゆる自然界よりも一層深い認識主観によって構成されると考えるのである。無論意志の体験そのものを思惟の形式と内容の結合たる認識主観の立場において対象化することはできない。その所与が意志的であっても、認識主観が判断意識との結合を条件とせねばならないかぎり、意志そのものをこの立場(判断主観)において認識するとは言い得ない。この意味において意志は完全に知識を超越すると言うことができる。我々のいわゆる自覚の意識というのは思惟の形式と経験内容の統一である。かかる自覚的統一の根柢にはかえって意志の意識がなければならない。意志の意識なくして知的自覚(純粋統覚)は成立しない。カントの純粋統覚がフィヒテの事行に到らねばならなかったのもこれ故である。単にそれが形而上学に堕したとのみ考えることはできない。知的自覚は意志的自覚に於いてあるが故に、意志的所与が知覚的所与より深きものと考えられるのである。我々の自覚的立場を深めて行くに従って、いわゆる自然界以上の対象界(文化の世界、歴史の世界など)を見ることができる。ただ我々の自覚は無限の深底であり、自覚の意識そのものをも失う所に、真の自覚があるのである。自覚の意識の存立せられるかぎり、なお認識主観の意義を有し、何らかの意味において対象界が見られるのであるが、これを超えれば、完全にいわゆる知識の領域を脱して、直観の世界に入る。そしてそこに真の自覚が現れるのである。私はかくの如き意味の直観を知識の極限として、概念的知識ではないが、真の知識と考えると共に、知識成立の根本条件とも考えるのである。


 以上の考えは「自覚に於ける直観と反省」以来、既に私の抱く所である。カントの純粋統覚を形式と内容の統一によって、知識の客観性を樹立する真の認識主観とするならば、それは単なる直覚的主観でないと共に、単なる論理的主観であることもできない。かくの如き総合統一の主観を求めれば、我々の自覚の外ない。自覚においては、考えるものと考えられるものが無条件に一であるのである。我々はすべての客観的知識の根柢をこれに求めざるを得ない。この点において私はフィヒテが“Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre(科学理論全体の基礎?)”の始において、Erster, schlechthin unbedingter Grundsatz(第一の、絶対無条件の原則?)として事行Tathandlungを考えたのは、カント哲学の深い見方と言わざるを得ない。フィヒテの言う如く、それ(真の認識主観?)は意識には現れない、また現れることもできない、しかしすべての意識の基礎となるのである。認識ということもこれによって基礎付けられねばならないのである。
 知的自覚とは思惟と直覚の総合、いわゆる知識の形式と内容の統一を意味するに外ならない。かかる統一の純なる形式的言表が「私は私である」Ich bin ichであるのである。それは心理学的でもなければ、形而上学的でもない。認識論がこれによって基礎付けられるのである。認識主観の意義を蔵せざる自覚はない。いわゆる心理的自覚というのは、かかる意味における自覚(知的自覚)が内容的に限定されたものに過ぎない。あたかも思惟は単に心理的ではないが、限定された判断作用として心理的と考えられるのと同様である。ある意識の範囲内において思惟と内容の統一が見られるかぎり、心理的なる知的自覚が考えられるのである。リッケルト派の認識論者は先験心理学的反省によって抽象的思惟の主観(判断主観)を許しながら、何故に具体的思惟の主観たる自覚的主観をを真の認識主観としてこれを認めないのであるか。知識があると言うことは、知的自覚によって可能なるのである。認識論が真に知識の成立を明らかにしようと思うなら、かかる自覚(自覚的主観)の問題に入って行かなければならない。かかる問題に入り込むことが、すぐに形而上学に陥ると考えられるかもしれないが、上にも言った如く形而上学的実在として自覚というものが考え得るであろうか。自覚的主観は何処までも内在的でなければならない。内在的でない自覚的主観という如きことは自家撞着である。かくの如き自覚の背後に本体という如きものを考えるならば、それは形而上学に陥ると言ってもよい。しかし自覚の背後にかくの如き形而上学的本体が考えられるならば、自覚の自覚たる所以は失われなければならない。フィヒテの自覚といえども、決してかくの如き意味において形而上学的ではない。リッケルトの様に認識主観を形式的な判断主観に限定するならば、それ以外のものはすべて超越的(形而上学的)と考えられるかもしれないが、斯く言うならば、形式と内容の統一たるカントの純粋統覚という如きものも超越的主観と言わねばならない。知識の客観性の根拠すら十分に説明できない判断主観に限定して、それ以上に出ることを許さなければ、一種の独断的認識論と言われても致し方ないではないか。カントが形而上学として排斥したのは、我々の経験界を構成する範疇を、知覚的所与なくして超経験界に押し進めることであった。私はかかる意味において、形而上学的に陥ったことは一度もない。フィヒテ以後の哲学もかかる意味においての形而上学ではない。フィヒテはカントの先験的演繹の問題に深く入ったのではなかったか。カントの認識主観を深く考えるならば、かかる問題に入るのは自然の勢である。フィヒテは思索の翼に乗り過ぎたと言うこともあろう。また私は単にフィヒテの立場に拠るものではない。しかし認識主観として自覚の問題を深く考えて行くことが、直ちに形而上学に陥ると言うことは、リッケルトの如く一脚的認識論を固執しない限り、言い得ないことである。カントに還れと言われるなら、カントに還ってもよいが、リッケルトのカントではなく、カントのカントに還ってなお一層考えてみたい。
 真の認識主観は思惟と広義における直覚の統一でなければならない。真の知識は形式と内容の統一にあるのである。かかる主観はリッケルトの言う如き単なる形式的判断主観ではなく、自覚的主観でなければならない。カントも知覚と思惟の統一をこれに求めた。フィヒテに至っては更にこの点を深めて事行の考えに到達した。私は今フィヒテ以後のドイツ唯心論の批評に入り込む暇はないが、何処までもカントの認識論的立場を維持して形而上学に陥るを避けるには、認識主観としての自覚の意義を失わないことを務めねばならない。自覚の背後に存在的自己を考える如きは、形而上学に陥るのは言うまでもなく、これ(自覚)を純なる作用と考えるのも既に認識主観の意義を失う恐れあるを免れない。フィヒテの働くことが知ることである(事行)というのは、無論内在的自覚の深い意義を言い顕したものではあるが、客観界の構成的主観としてのカントの認識主観の意義を徹底した結果、その主観的判断主観の意義を失う如き傾を生じたのではなかろうか。無論、フィヒテの我は(判断主観による)反省的思惟をその契機として含むものであろう。しかし客観的思惟(構成的思惟)に主観的思惟が含まれると考えられる時、それ(客観的思惟=構成的思惟)は客観的精神として形而上学的傾向を帯び来る嫌を生じるを免れない。意識の背後には何物をも考えられない。何物かの上に立つならば意識ではない。意識は何処までも直接でなければならない。何らかの意味において対象化されたものは意識ではない。心理学的意識の如きは意識されたものに過ぎない(意識されたもので意識するものではない)。事即行にして無限の過程と考えられるフィヒテの事行は、客観的思惟(構成的思惟)としての自覚の構成作用を言い表すに十分であろう。そしてそれが自覚的なるが故に反省作用という如きものをも含むことができる。しかし真に直接なる反省的意識そのものを含むということはできない。純論理的ではあるが、動的なる過程という如きものが考えられる時、既に対象化されたと言うことができる。これ故にかかる立場から厳密に論じるならば、真の意志の自由という如きものは出て来ない。我々に真に直接なる反省的意識は、かかる意味における作用的なるものをも超えて、無限に深い奥に還らねばならない。無論フィヒテは既に事行の立場を超えて、シェルリングに近い知的直観の立場に進んだと言うことができるであろう。しかしシェルリングの知的直観であっても主客合一と考えられるかぎり、なお対象的意義を脱し得たということはできない。
 これにおいて私は従来認識論の基礎となっている知るということを問題とせざるを得ない。常識的には、まず心と物が相対立し、知るというのは心の働きと考えられる。かかる考えの極めて素朴的なるは言うまでもないが、認識論者といえども、洗練しているとは言え、徹底的にかかる考えを脱却しているとは言えない。かかる考えに対して十分に批評的であると言えない。主客の対立を前提として、知るということを主観の構成作用と考えるのは、なお作用という考えの垢滓が完全に拭い去られたとは言えない。無論、作用といっても、何らかの意味において時間的なるもの、主観と言っても、何らかの意味において実体的なるものは、何処までも洗い去られたであろう。しかし認識主観というものを、何処までも押し進めてみた所で、その性質が根底的に変じる訳ではない。つまり我々の認識作用の内に含まれている対象的関係の方面を、極限にまで押し進めたと言うに過ぎない。完全にこれ(認識主観)を超越すれば、主観という意義もなくなるのである。これ故に私は全く従来の考えを棄てて、純真に判断意識そのものの自省から出立してみたいと思う。判断意識から出立して、主客の対立がいかにして考えられ、知るということがいかなることを意味するかを明らかにしてみたいと思う。判断作用というものから出立すれば、なお碎いて考えるべき作用という概念が何処までも残されるのである。かかる考えからして私は一般の中に特殊を包摂するという包摂判断から出立した。そしてアリストテレスの基体τὸ ὑποκείμενον(主語となって述語とならない本体)の考えに基づいて、すべて客観的なるものを主語となって述語とならない第一本体に求めた。私はこの概念によって判断的知識の基礎となる客観的なるものすべてを、最も広義にかつ明瞭に定義し得ると思う。(判断作用による)肯定否定ということから出立すれば、客観的なるものを価値と考えるべきであろうが、それは判断作用を基とした考えであるから、かかる考えを去って、判断に客観性を与えるものは、アリストテレスの如く主語となって述語とならないもの(基体)と考える外はない。アリストテレスの第一本体など言えば、またすぐに形而上学的と考えられるかもしれないが、単に右の如く考えられたヒポケーメノン(基体)に何ら形而上学的意味はない。以上の如く客観的なるものを主語となって述語とならないヒポケーメノン(基体)に求めると共に、私はこれに反し主観的なるものを述語的方向に求めた。すなわち述語となって主語とならないものを意識と考えた。私のいわゆる場所とはかかるものを意味するに外ならない。プラトン学派におけるイデヤの場所という語に基づいたものである。右の如き考えから、判断というのは特殊なるものが一般なる場所(意識)に於いてあると言うこととなる。そして述語となって主語とならない超越的場所の立場からして、それは知るということとなる。これが知るということの根本義である。知るということを作用と考える立場からすれば、知るということは形式によって質料を総合統一することと考えられ、主観とはその統一者という如くに考えられるのであろう。しかしかくの如き考えはなお主客相対立して、働くとか変じるとかいう考えの残瀝を洗い去ったものではない。かくの如き考えはなお主観を対象的に見ているのである。作用という如き考えをいかに純化して行っても、一種の範疇を極限にまで進めたということとなる。真の認識主観は私のいわゆる超越的場所という如きものでなければならない。すべてを包むものでなければならない。いわゆる主客の対立もこれに於いてあるものでなければならない。
 右の如く包摂判断の述語面が述語となって主語とならないと考えられた時、それが私のいわゆる場所として意識面であり、これに於いてあるということが知るということであると言うのが、私が「場所」の論文において到達した最後の考えである。種々なる知るということの意義及びそれぞれの対象界は、この場所の意義によって定まって来るのである。場所が何らかの意味において判断の述語として限定され得るかぎり、すなわち一般的なるものが限定されるかぎり、我々の意識面において判断的知識即ちいわゆる知識が成り立つことができる。これを超えれば直観の世界に入る。私の真の無の場所というのはかかるものを意味するに外ならない。作用という考えは「働くもの」において論じた如く、ある限定された述語的一般者が判断の主語として考えられ得る場合において成り立つのである。更にそれ(作用)が述語となって主語とならないと考えられた時、すなわち単に限定された場所と考えられた時、それは意識面となる、故に意識面は、常に作用を包んだものである。具体的一般者(主語となって述語とならない本体=作用)を包む反省的一般者が意識面である。意志作用というのは、述語的一般者によって限定されると言い得る最後の場所、すなわち最後の知識の場所において、かかる場所をも超えた真の無の場所に於いてあるものを見たものである。真の無の場所に於いてある主客合一者、即ち自己自身を見るものが、カントの意識一般の対象界という如きものに映されたのが意志である。故に知的自覚の底には意志的自覚が見られ意志的自覚の奥には自己自身を見るものがある。論理的に言えば、完全に意識一般の立場を超えたもの(対象化され得ないもの)、即ち自己自身を見るものが、意識一般の立場において述語を持つ時、意志という如きもの(意志という述語的一般者)が考えられるのである。
 判断的知識が成立するには、いつでも、その根柢に何らかの意味における一般者がなければならない。純粋に思惟による知識と考えられるものには、明らかに限定された一般者がある。例えば幾何学においては空間という概念がそれである。これをその学問のアプリオリと言ってよい。「働くもの」において論じた如く、意識一般の立場によって成立すると考えられるいわゆる経験界の知識においても、それが判断的知識と言い得るかぎり、その根柢に一種の一般者が考えられねばならない。しかしこの場合における一般者は、幾何学における空間の如き意味において、限定されたものではない。例えば、経験界構成の根本的範疇として、時というものについて考えてみよう。時は単に直線的なものではない。アウグスチヌスが過去も未来も現在に於いてあると言った如く、時の背後にも一般者がなければならない。しかし時の背後に考えられる一般者という如きものは、積極的に考えられるものでなく、消極的に考え得る一般者である。我々の知識はいつでも現在から出立する外はない。かかる場合、特殊(現在)が一般(過去と未来)を含むと言ってよい。コーヘンの生産点という如きものも、かかるものを意味するのである。ただかかる一般者に於いてあるもの(過去と未来)も、判断的知識と考えられる所以は、現在との関係において消極的であるとは言え、限定され得る一般者が考えられるからである。しかしかかる否定的一般者(過去と未来)をも超越した時、真に判断的知識を超越したと言うことができる。これ以上は意志とか直観とかいういわゆる超概念的知識の世界に入るのである。一般と特殊の関係から言えば、特殊的方向を何処までも押し進めて行き、時の如きものにおいても、既に特殊が一般を含むと言い得るが、その一般者(時の一般者)はなお否定的に限定し得るもの(否定的一般者)であるから、更にこれをも超えた時、真に特殊が一般を内に包むと言うことができる。即ちいかなる意味においてでも、仮にも概念的に限定し得る一般者ならば、(特殊が)これを(一般者を)内に包むと言うことができる。意志は自己の中に自己の否定(限定)を包むものである。しかしかくの如き限定的一般者(否定的一般者)を超えてこれを内に包むと言うべきものであっても、なお我々はこれ(特殊、時)を意識に於いてあると言うことができる。何故なら、我々の意識というのは、上に言った如く述語となって主語とならない超越的述語面という如きものを意味するからである。我々の概念的知識が特殊化されて行くに従って、一歩進んだ特殊は前の一般的なるものを内に包んで行く。最後にいかなる意味においても仮にも概念的に限定し得られる一般的なるものが完全に(特殊の)内に包まれても、なお判断の主語述語の関係から真の無の場所というものが考えられる。即ち真に思慮分別を絶した、真に直接なる心というものが残るのである。かかる場所に於いてあるものが真に直接的なるものである。自己自身を見るものである。かかる無の場所というものが、何らかの意味にて一般概念的に限定される限り、一種の意識面が限定され、これにおいて概念的知識の世界が成り立つのである。判断的知識と直覚は、かくの如く場所の関係において連結している。後者は真の無の場所、即ち場所そのものであって、前者はその限定されたものである。これ故に直覚的なるものが判断的知識に入り来ると言うことができる。無論直覚的なるものが、そのままにて判断の中に入り来ると言うのではない。場所が限定されるかぎり、これ(限定された場所、概念)に映じるのである。故に判断的知識はいつでも抽象的なるを免れない。真に具体的なるものは直覚的として、真の無の場所に於いてあるのである。真の認識主観というのは、かかる意識の場所という如きものでなければならない。私は前に認識主観に種々の階段があると言ったのは、これによって明らかにすることができる。カントの認識主観はなお限定された場所に過ぎないが、真の無の場所に入るに従って、意志の世界、直覚の世界が見られるのである。意志の世界と直覚の世界の区別については、我々が直覚的と考えるものは、最終の無の場所たる真の無の場所に於いてあるのである。意志はなお全然カントの意識一般の立場との関係を脱却しない。意識一般の場所と真の無の場所との間には、種々の階段を考えることができる。種々なる無の場所があるのである。合目的的世界から心理学的対象界(作用の世界)、心理学的対象界から歴史的世界という様に、漸次にいわゆる意識一般の立場を包んで最後に自由意志の世界に至る。遂に自由意志の世界をも超越した時、完全に意識一般の立場を脱却して真に直覚の世界に入る。この場所に於いてあるものは、全く知識の意味を失って、意識一般の対象界においては、ただ表現として見られるまでである。
 以上述べた如く、私は判断意識を根柢として、これから出立したいと思う。しかし私の判断意識というのはリッケルトのそれと同一ではない。リッケルトの判断意識というのは、まず主客の対立を考え、知るということを作用と考える心理学的見方を基としたものである。そしてその認識主観というのは、カントの認識主観から所与の原理を除去して、単に形式的に考えられたものである。私はこれに反し知的作用という如きものの根柢に横たわる作用という如き考えを除去して、作用という如きものが、すでに対象化されたものと考え、知るということをなお一層深く広い意味に解して、意志の意識、直覚の意識をもその内に含めたいと思うのである。普通に知的作用と考えられるものは、上に言った如く、意識一般の対象界と意志、直覚の世界の間に見られる心理学的対象界における一つの特殊なる場合に過ぎない。私の場所というのは、単にいわゆる一般概念という如きものではなくして、特殊が於いてある場所である。対象を内に映している鏡の如きものである。かく言えば、鏡と対象が別のものと考えられるかもしれないが、一般が特殊を自己自身の限定として、これを自己の内に成立せしめると共に、特殊に対しては何処までも一般そのものとして特殊とはならない。(一般が)単に特殊がこれに於いてある無なる場所と考えられた時、自己の中に自己を映す鏡となるのである。我々が普通に用いる映すと言う語の根柢にもかかる考えが含まれていなければならない。
 カントの認識主観については、リッケルトの如き考えに反して、むしろカント自身の考えを維持したいと思う。ただカントも主客の対立を基とし、知るということを作用と考えることから出立したのに対し、なお一層深く広い立場から出立したいと考えると共に、カントの如く所与の原理を単に知覚に限りたくない。フィヒテによって創められたドイツ唯心論的傾向については、私は今日のカント学派と称している人々の様に、単にこれを形而上学的として、無理解に排斥するものではない。ただ今日の私にはその客観的思惟(構成的思惟)の方面を基として、主観的思惟をその一面とのみ考えた所に、形而上学的傾向があると考えられ、私は何処までも判断意識の立場を離れないで、具体的一般の背後にも場所として抽象的一般を考えることによって、認識論的立場を維持したいと思う。それがdie blosse metaphysische Ubertragung der Erkenntnislehre(知識理論の単なる形而上学的変説?)と言われるなら致し方もないが、単にリッケルトの如き立場以外に出ることを形而上学的と考えられるなら、私はむしろ好んで光栄ある形而上学者の名を冒涜したい。


 以上は私の思想の根柢に対する博士の疑問に対して、私の立場を明らかにしたものである。私の無の場所というのは、場所という如きものを対象的に考えて、それが有であるとか無であるとか言うのではない。それが有であるとか無であるとかいう様に述語することは、それを対象的に見ることである。かくの如く論じられ得るかぎり、それは私のいわゆる場所ではない。博士がかかる疑問を提出されるのは、始から私の場所というのを形而上学的と定めておられる為ではないかと思う。私の場所というのは判断的知識の由って成立する一般者という如きものであって、それが具体的一般者と考えられるかぎり、なお主語的であり、対象的であるが、上にも言った如く、仮にも判断的知識が成立するかぎり、具体的一般者の背後に反省的一般者がなければならない。判断としては、述語面は何処までも主語面を包むものであり、客観的思惟の背後にも反省的主観がなければならない。かくの如き何処までも判断的知識の背後に見られねばならない述語面という如きものが、私のいわゆる場所であって、それはカント学者の認識主観に相当するものと言ってよい。ただ、従来の考え方の如く主観を統一点という様に考えないで、包容面という様に考える点において異なるのである。これについて、それが有であるとか無であるとかを論じるのは、認識主観について、それが有であるとか無であるとかを論じると同様である。私が無の場所というのは、一般概念として限定されないという意味に過ぎない。真の無のまた無がないかという如き質問に対しては、私は答ふる所を知らない。私は単に無の概念を弄しているのではなく、述語面を意識面と考え、概念的に限定することのできない最終の述語面がいわゆる直覚的意識面であって、これに於いてあるものを自己自身を見るもの、いわゆる主客合一なるものと言うのである。直覚のまた直覚がないかと言われても、私はその意味を解することができない。

 終に臨んで、博士が貴重なる時を割いて、蕪雑なる私の論文を精読せられ、その犀利なる批評によって、私の為に多大の刺激を与えられたことを感謝せざるを得ない。私の如きは日暮れて途遠きもの、博士の好意に報ずる所以のものを知らないが、希くば我学界、※千金死馬の骨を買はんとせられる博士の志を空しくせざらんことを。
※ 引用 死馬の骨を買うとは 


知るもの


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