無題

怠そうに携帯を弄っている繁華街のメイド服、2人組のねずみ取り、路上に放置されたままの轢かれた猫。タクシーの窓から頬杖をつき見慣れた夜を眺めている。何もしない時間は好きではない。気を抜けば、年々肥大化した憂鬱との睨めっこが始まる。携帯がバイブレーションで通知を知らせる。顔も思い出せないキャバ嬢の営業ラインは、どことなく痛々しい。だが、そんな連絡にも僅かながら慰められる自分を見つける。また心に煤が溜まる。煤は巨大な闇となり憂鬱を栄養する。繁華街の喧騒を抜け、前方横断歩道をママチャリが通り過ぎる。チャイルドシート付きで、スーツの男性が汗を流しながら漕いでいた。閑静な住宅街に移り住んでからは、テレビをつけながらでないと眠れなくなってしまった。

数年前、まさしく俺はスターだった。地響きのような歓声を纏って打席に立ち、名だたる投手の球を外野席にいる球児のグラブまで届けてきた。夜は蝶達へ大金を振りまいて、羨望の眼差しを恣にしてきた。しかし、永遠に思えた栄華も終わりを迎える。27の9月に肉離れを起こし、シーズン中の休場を余儀なくされた。その間に甲子園でドラマを作った高卒ルーキーや、コツコツトレーニングを積んだ2軍叩き上げが表舞台を飾り始めた。リハビリを終え球場の土を踏んだ時、俺には野球しかないと強く再確認させられた。照明塔は俺を陰から掬い出し、歓声は俺を俺たらしめた。大きく息を吸い込むと、ファンの期待が肺細胞から動脈血へと溶け混んで全身に力を届けた。復帰一振り目は、本調子ではなかったものの十分な鋭さを携えていた。しかし、復帰後2週間経ったころ、俺は脇役を自覚させられた。スタジアムはとっくに新しいスターを受け入れていた。

なんとか食らいつこうと無茶を重ねた俺の身体は、30を超える頃には軋んでいた。人柄だけの年長者は、ヘラヘラした困り顔で「寄る年波には勝てないな」と漏らしていたが、その真意を痛感させられる日が来るとは思わなかった。リハビリ通院で御守り代わりと処方を受けた安定剤は、月を追うごとに減りが早くなっていく。ゴツゴツとした無骨な手のひらに、記号的刻印の打たれた白い錠剤を載せる。口に含み、気の抜けた缶ビールで胃袋へ流し込む。遠い記憶、地方の女が「部屋の乱れは心の乱れ」と鼻を鳴らして力説していたことを思い出し、自嘲的な笑いが出た。部屋の明かりを落とす。安いバラエティ番組に背を向け目を閉じる。少しずつ笑い声が遠くなっていく。

デパスを飲んで寝ると決まって悪夢を見る。試合中に足に激痛が走る夢、堕ちたスターと題を付けられ新聞の一面を飾る夢、空になったデパスのシートを人に見つけられる夢など、この頃は多彩になってきた。目が覚めた後のじっとりとした嫌な汗にも頭痛にも慣れてしまった。つけっぱなしのテレビに映るニュースキャスターに目をやる。5年前に取材の帰りがけに連絡先交換をして、食事に行ったっきりの女子アナだった。完璧な微笑みでスタジオに運ばれたスイーツを食レポしている。テレビを消して朝の支度を始めた。

試合前のフリーバッティングを終えると、誰かに背中を叩かれた。
「おい、どしてん最近、前より顔硬なってんで。」小林だった。現役時代からの旧縁で現在は打撃コーチを務めている。
「いや、そんなことは」
「いーや、硬すぎる。いっぺん鏡みてみ。」野球選手は30を越えれば皆、身体のどこかに不調を抱えているものだ。俺の場合ならば足だ。足の痛みを覚えるたびに選手としての死を意識する。なんら特別な話ではない。振り返らずに、会釈し立ち去ろうとする。
「お前、そんなんやから赤特 山ほどつけられんねん。」
「だから2つだけです。」強い口調で返し思わず振り返ると、小林はニヤニヤしていた。
「やっぱ気にしとんやな。」赤特とは、パワプロでの悪影響のある特殊能力である。俺の気を引きたい時、小林はここを突いてくる。
「まあ今夜あけとけや、ええとこ連れてったる。」小林の目を覗く。
「ただ"三振"したらお前の奢りな」"三振"は俺の赤特のひとつだった。踵を返そうとすると後ろから、嘘やんかあ、と聞こえてきた。

4打数1安打、三振はなく、ゲームも無事勝利を収めた。お立ち台には無失点に抑えた先発投手が立っている。ひとあし先に片付けを始めると。
「今日、悪くなかったやん。」と小林が声をかけてきた。
「ありがとうございます。」と返す。
「おうおう。さっきの話忘れてへんやろな。まあええわ、シャワー浴びて早よいこ。」子供のようにソワソワしている。その後の試合後ミーティングの最中にも、小林はただ深く頷くだけで何も話さず、バレないように掛け時計をチラチラ見ており、心ここに在らずなのはすぐにわかった。ミーティングが終わり出口へ向かうと、小林が手配したタクシーがちょうど到着した。相変わらずの遊び人っぷりを発揮していた。

「小林様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ。」店内の黒服が手招くままに、小林の後を追う。黒と金で統一された、よくあるラウンジだった。久々に味わう空気感に過去がフラッシュバックする。それなりに賑わった店内の中央、誇示するように派手に散財していた自分を見る。
「ケイちゃん、待ってたよ!」女の甲高い声が現実に引き戻す。ワインレッドのレースドレスを纏った女が、小林へ上目遣いを向けている。 売女の媚びへ鼻の下を伸ばす妻帯者は見ていられない、そう思った。
「これでもトモちゃんに会いたいな思って急いで来てんでえ。なあ嶋中。」こちらを向いた小林へ冷ややかな視線を送る。
「ちゃうやんか、ほんでチアキちゃんおる?」小林は女へ向き直る。
「ちゃんといるよ!てかケイちゃん浮気するつもりなの!?」
「ちゃうちゃう、この男がチアキちゃんに会いたい言うて聞かんねん」トモちゃんと呼ばれている女は、小林を去なしながら、退屈している俺の様子を窺っている。パーテーションの裏側、半個室の卓へ案内を受ける。純白の際どいドレスを着た女が跳ねるように駆け寄ってくる。

「ご指名ありがとうございます。チアキ、と申します。今日は楽しく飲んでいってくださいね。」自分の武器を理解している女。万人に受ける癖のない顔に、完璧に自然な笑顔を浮かべている。緻密に造られたマスクの下から太客になりうるかを見定められている、そう思えた。
「はじめまして、嶋中さん。小林さんからお話は伺ってますよ。」
「そうですか。」
「はい、可愛らしい方だと。」チアキは含み笑いを込めて言った。いまは駆け引きめいたやり取りを楽しむ元気はない。激励の席を用意してくれた小林への恩も感じていたが、興味が持てないこと、太客にはなれないことはチアキへ早々に伝えるのが得策なように思えた。いまこの瞬間にも加速度的に疲れていく思いだった。チアキにだけ聞こえるように小さくため息を漏らし、こう続けた。
「チアキにとってこの仕事は天職だね。」
「ん?どうして?」
「まず頭の回転が早い、それに演技掛かった演技をしない。男がどうすれば喜ぶかを知っている。」ただしそんなことをしても俺は入れ込まない、という皮肉のつもりだった。チアキは小林やトモちゃんの方へ視線を逃さず、答える。
「そうかしら。」
「あとは、肝が据わっている。」舞台の裏側での不義理を告発するように言った。大人気ないと思われかねないが、居心地の悪さは痛み分けだ。
「ふふふ。」チアキの噴き出した笑みへ思わず眉を顰める。機敏を悟られないようグラスを呷る。
「ごめんなさい、嶋中さんったらあまりに小林さんが話してた通りの方だったから、つい。」空いたグラスを見て、さっきと同じ水割りを作り始めた。目を細めて控えめに笑う横顔を見る。純粋で楽しそうなように自己演出が出来ている。水割りを作る手際は悪くなかったが、手が覚えている、というほどではなかった。作り終えたグラスを両手に持ち、こちらへ向き直す。
「どうぞ。」受け取り一口分を口に含む。
「そういえば私、手相が見れるのよ。左手を出して。」グラスを置くのを待って、彼女は切り出した。右脇の彼女に対し半身で向き合う形になり左手を差し出す。ゴツゴツとした大きな手、この手が映えるのはダイヤモンドの中だけだ。ダイヤモンドのリングが映えそうな、半分くらいの白く長い指がそれを触診する。割に短く切り揃えられた健康的な色の爪には好感が持てた。
「うーん、この手はね、寂しがり屋な割に素直じゃない感じがする。頑張り屋でプライドが高いから人にも言えず、誰も見ていないところでパンクしてる。」彼女の親指が、散在する硬結したマメをなぞる。無機質な錠剤ではない、温かみのある人の指が手のひらを這う。心地は妙に良かった。
「他には…何か分かるのか?」言い終えて意図せず、触診は延長した。
「そうねえ、あっ!これは…。」ゴクリと唾を飲み込む。
「赤特が山ほど付けられる運命にあるわ。」チアキは言い終えてすぐ笑った。俺自身もそれを聞いて吹き出してしまった。占いは見透かされたのではなく、小林の入れ知恵であることに、断片的なぎこちない関西弁で気付く。安心半分、落胆半分で少し脱力する。優しくマメを撫で続ける彼女の指は、慰めているようだった。

それから俺は3杯のウーロンハイを空にした。お互いに人となりや状況を話し合った。4杯目が空になる頃に唐突に酔いが回り始めた。元々酒はあまり強くない上に、人と飲む酒は久々だったからかもしれない。
「少し酔ってきたかもしれない。」
「うふふ、まだまだだねえ。」悪戯に笑う。語尾がやや伸びている。
「ダメなんだ。酔うと話せなくなってしまう。」呼吸に同期して体幹が揺れる。口を突いて出た言葉に驚く。俺は彼女と話していたい、楽しいと感じていたのだ。
「それは困るねえ、チェイサー、これ、飲む?」
「ありがとう。」受け取り、グラスの水を一口で飲み下す。酔いは変わらない。
「大丈夫?お疲れみたいだねえ。」
「ああ、でもお陰で少しマシになった。」俺の顔を心配そうに覗く彼女の目は少し潤んでいる、そう見えた。
「そっかあ。そういえばね…」そう切り出し彼女は他愛ない近況を話し始めた。こんな面白いことがあったんだよ、と言わんばかりに目まぐるしく表情が切り替わる。微笑ましく見守るしか出来ない俺を見ても、楽しそうに話を続ける。口を挟もうにも酔いに言葉が出てこない、そんな事情を知ってか知らずかのマシンガントークに、心から救われた。パッと話が止まり、こちらを見つめている。さすがに話さなすぎだと思われたのか、何か気の利いた言葉を、と考えていると、片目を閉じた中途半端な変顔を見せてきた。半秒後に、下手くそなウィンクを披露してくれたことに気づいた。
「ウィンク?」
「そう!私、ウィンク下手でさ。」照れ笑い混じりにそう言う。彼女の光に包まれる。眩し過ぎて卑屈さすら覚える。
「良い子だね。」心から出た言葉だった。微笑みというよりも、ニヤニヤしていると言う方が正しいかもしれない。えへへ、と言っていた。隣にいる小林の声が遠くに聞こえる。
「なんで野球選手の服がドクロとかばっかりでダサいか分かるか!?いつも選手人生の終わりを憂い取るからドクロの服とか着てまうねん!ほな、サッカー選手は?って?知らん。野球の方が陰気なんちゃう、知らんけど。」いつもの調子だった。

それから間も無くお開きとなった。小林が結婚する前は明け方まで遊んでいたことを考えると、多少は落ち着いたのかもしれない。帰りがけ、チアキに声をかけられた。千秋と書かれた名刺に手書きで連絡先が書かれていた。「あ、あと、ちょっと待ってて」と小走りでバックヤードへ消えた。程なくして戻り、今度はB5サイズの紙を手渡された。保護猫カフェと書かれており、自宅から2駅の距離だった。千秋は、オーバーに周りを見渡して顔を俺の耳元へ近づけた。
「昼はここで働いてるの。遊びに来てみて、きっと気に入ってくれると思う。」それだけ伝えると1歩引いて、お見送りの体制になっていた。帰りのタクシーで酔っ払っている小林を宥めながら、1人困惑していた。

それから数日後に久々の1日休みを作った。午前中からタクシーに乗り込み、例の保護猫カフェへ向かった。保護活動をする愛猫家とは、日本で一番浸透しているだけの宗教の原理主義者だ、改めてフライヤーへ目を通し思う。大通りから路地に入り、古ぼけた雑居ビルの前で降車した。スナックや雀荘の入った特徴のない雑居ビル。色褪せた肉球が描かれた案内が2階を指している。エレベーターへ踏み込む。連絡先の書かれた名刺を失くしてしまったせいで、あれ以来彼女と連絡は取れていなかった。今日、彼女が出勤日でなければどうしようか、本当にここで働いでいるのだろうか、そんな可能性が今更になって頭をよぎる。エレベーター降り口すぐの注意書きへ目を通し、躊躇しながら脱走防止の二重扉をスライドする。ソファやゲージ、棚が並ぶ一室中央で、キャットタワーへスマホを向けていた千秋を見つけた。長い髪はひとつに纏めており、猫のロゴがプリントされた赤いTシャツを着てデニムを合わせていた。当然だが、夜の顔よりずいぶん爽やかな出立ちだった。
「いらっしゃいませ〜、あ、嶋中さん!」
振り返り、俺に気づくや否や、表情がパッと明るくなる。眠たげで無愛想な猫たちとは対照的だった。
「本当に来てくれるなんて思ってませんでした〜。連絡もなかったし、来てもらえて嬉しいです。」彼女は目を見開き、瞳の光を強めた。その表情が見れただけで、来てよかったと思った。口角1つあげるだけでも良いのに、自分の顔が作った表情は伏し目がちで不自然なまでの愛想笑いだった。つくづく卑屈な男だと思った。料金案内を受け、1時間滞在分とワンドリンクの代金を支払う。千秋がウーロン茶を取り出しに行く間に、バレないようおつりを保護活動の募金箱に投入した。ペットボトルのウーロン茶を受け取った。
「その箱、そこにおもちゃがあるから好きなの取ってね。」プラスチックのボックスケースを指差し、手作りのおもちゃを俺に選ばせた。楽しそうに、ニコニコしている。
「おっ、お目が高いですねえ。」青いビニールテープを割いて作られた手作りのおもちゃを選ぶと、得意げな顔をしてみせた。ひっそりと救いを得るたびに、皮肉にも急激に心は渇いてゆく。目の前の彼女は、そんなことを知る由もない。自然な笑顔を作ろうとすればするほど、表情がぎこちなくなる、そんな錯覚に苛まれる。立ち尽くした俺を、彼女はソファへ誘導する。
「ここで座って待ってて。ちょっとだけ電話してくるね。」そう言い残し、彼女はバックヤードへ姿を消した。彼女を目で追う視界の片隅を茶色い猫が横切る。気がつくと反対側の足元に首輪の付いたグレーの毛並みの猫がいた。左手に持ったおもちゃに釣られてきたようだ。振り子のようにおもちゃを左右に揺らす。グレーが目で追う。身体のバネを使って獲物を取ろうとしている。飛びつくタイミングに合わせ、おもちゃを引く。俺の存在などお構いなしに、おもちゃに夢中になっている。顔から背へ沿わせるように青いマウスを走らせると、仰向けになり腹を見せた。こうやってこいつも食い扶持を稼いでいるのか、と思った。
「ごめんね嶋中さん。せっかく来てくれたのに。」バックヤードから、千秋が帰ってきた。
「いや、いいんだ。そういえば、千秋はもうここに勤めて長いのか?」
「あー!私ね愛希っていうの、寺田愛希。もう少しで店長がここに顔出すんだって。絶対に千秋って呼ばないでね。」やや食い気味に、胸のネームプレートを見せながら話す。秘密を共有するような顔を近づけた説得に、思わず頷いてしまう。白掛かった茶色い毛の猫が、おもむろに膝の上でくつろぎ始めた。
「なんだっけ。ああ、もう4年になるかな。」牛乳パックで作ったような小さな椅子へ掛ける。すぐに数匹の猫が駆け寄る。撫でる姿は、バザーに募る子供の相手をする教会のシスターのようだった。昔から猫が好きでなんとなくで始めた保護猫活動が興じ、ここに勤め始めたのだと。何かのために生きるなんて、主体性のない奴らの綺麗事だと思っていた。しかし、目を見開いて話す愛希を見て考えを改めさせられた。膝上の猫が振り返りもせず、床へ降り立つ。今度は私が、と愛希が尋ねる。
「猫ちゃんやワンちゃんを飼ったことはあるの?」
「ないんだ。母親が動物嫌いで。」自分はそうではない、興味はある、というポージングを込めて周りの猫を見渡しながら返答する。
「そうなんだね。」微笑みながら愛希は言う。愛希の後方の窓際、日差しが洩れたプラスチックボックスの上で、ボーッとしている猫を見つけた。こちらのことも認識しているようだったが、我関せずという顔で窓の外へ視線を移して、ゆっくりと瞬きをした。陽を浴びて毛並みがキラキラと光っている。見惚れた俺に嬉しそうな愛希、わずかな沈黙が流れる。
「ふふ、猫は自分のうつしである。」得意げな顔でこちらを見ている。俺はその顔が好きだった。
「好きな言葉なの、一緒にいると猫ちゃんが自分になったり、自分が猫ちゃんになったりする。ここにいると本当にそう思うの。」照れるようにそう補足した。思いついたようにこう切り出した。
「そうだ!これ、サービス。」ポケットからスティック状のキャットフードを取り出し、こちらへ差し出した。
「ごほん、全ての猫はチャオチュールの虜である。愛希。」楽しそうにしている。俺は封を切り、部屋の隅へ歩き出す。大きな目は警戒の色を強めたが、チャオチュールのことも気になるようだった。ボックスの上で澄ましていた猫の前に差し出した。心はチュールにしか許していないぞ、とでも言うように、歯を剥き出した顔を近づけてリズミカルに舐めとる。可愛いというより、獣を思わせた。よく見てみると、耳の先がV字に欠けていた。
「ヤングは首輪ないでしょ、店猫じゃないの。里親募集中の子で。」保護猫としてここに来るまでの、この猫の運命を想像した。その日から、ヤングが俺の部屋にやってくるまではすぐだった。

ヤングはいつもプラスチックボックスの上を陣取り、愛希とやり取りをする俺のことを真っ直ぐに見ていた。愛希に照らされて、濃くなる影を見抜いては退屈そうにあくびをした。愛希によく思われたいという下心を別にすれば、俺がヤングを家に迎えたことに大した理由はなかった。家に来てすぐのころは、フードを皿に盛っても隅から動こうとせず、仕事から帰宅したら平らげている、そんなことが続いていた。しかし、いつの間にか我が物顔で部屋を彷徨くようになり、部屋を散らかし始めた。物を置かないように片付ける癖がついたのもそのくらいからだ。おびただしい数のビールの空き缶も姿を消した。食べ終えた後の食器は、特にすぐ片付けるようになった。猫が人の食べ物を摂取すると腎臓病になるのだと、愛希に強く脅されたからだった。次第に、構えと言わんばかりに擦り寄るようにもなってきた。普段は軽薄さも浅ましさも全て見抜く目で俺を見ているクセに、その時だけは目を細めて自分を撫でない罪を告発してくる。布団へ潜り込んでくるようになる頃には、安定剤を取り出すこともなくなった。ヤングとの日々は、愛希といる時間の笑い話にも化けた。チームメイトからも丸くなったと言われ、穏やかに日々が過ぎてゆくようになった。あの日までは全ては順風満帆だった。

通い慣れた雑居ビル前でタクシーは停車する。他の猫の匂いを持ち帰るとヤングが嫌な顔をするから、愛希の元へ顔を出すのは週に1度、愛希の出勤する木曜日のみに留めていた。いつもと同じようにブザーを鳴らし入店するも愛希の姿はなく、数度顔を合わせたことのある店長がいた。50歳前後、小太りのいかにも優しそうな男性だ。ヤングの引き取り以来の顔合わせだった。
「いらっしゃいませ。あ、嶋中さん、お久しぶりです。」
「あれ?今日は寺田さんはいないんですか?」気がかりが口をついて出てしまった。
「聞いていませんか?本人から。寺田はつい先日、退社致しましたが。」血の気が引いていくようだった。開いたままの口を見て、店長は何かを察したように視線を落とした。なぜ辞めたのかを聞こうとも考えたが、何も言わずに去ったことが何よりのメッセージに思えた。
「あの、また来てくださいね。ヤングは幸せに暮らしていると寺田から聞いていました。様子を話しに、また来てください。」優しさを踏み躙ってしまわないように、返事をして踵を返した。タクシーの車内、例のラウンジへ電話をかけてみようとも思ったが、少し考えてやめた。

強烈な喪失感に、心がざらついてゆく。今までにだって別れは経験してきた。その全てから立ち直って、俺は今日を迎えている。しかし立ち直るまでは、目に映るものが全て無意味に思える。いつものことだ。妙に片付いた部屋、新たに潰れた左手のマメ、それに棚の上で浮かぶ2つの目玉。後ろめたさは見透せても、心に積もった煤の底まではお前にも見えないだろうと、皮肉を浮かべた。脱力のままベッドへ身を任せる。大したことじゃない、また元に戻っただけだ、そう思った。

気がつくと、すぐ近くで呼吸する音が聞こえた。目を開くと、ほんの数センチの距離にヤングがいた。様子を伺うように俺の顔を見下ろしていた。俺が目を逸らして大きなため息をつくと、前足で俺の額を踏んづけた。ヤングへ視線を戻すと、何かを成したように前足を下ろしてその場に丸まった。あくびが出た。もう一度目を閉じた。

荷解きにひと段落がつき、床に座り込んだ。携帯を取り出してみても、気分を上げるような通知はない。顔を上げると、開けていない段ボールがまだ3つも残っている。いっぱい捨ててきたはずなのにな、とため息を吐く。
「今日はもう、頑張らないぞ。」独りごちる。冷蔵庫からビールを取り出し、リビングのソファへ掛ける。一口飲み下し、なんの気なしに、テレビを付ける。
「お、愛希、野球なんか見るのか。」野球中継にチャンネルが合っており、春の川の水面のように煌めいた観客席が映し出されていた。後ろからの呼びかける声に振り返る。変えてもいいよ、と口から出る前に、言葉は続く。
「嶋中かあ、ムカつくんだよなあ。ここ、っていうとこで打ってくるんだよ。見ててみな。」ウキウキした話し声。思わずテレビを注視する。そういえば試合中の嶋中さんを見たことはなかったな、と思った。水を得たようにプレイする内野陣が守備位置に戻り、バッターボックスの嶋中さんを固唾を飲んで見守っている。深く被った帽子から、嶋中さんの鋭い目線が見え隠れする。さっきから4球も投げ込まれているのに、ピタリと動かない。
「さあ、バッター追い込まれました。」アナウンサーが言う。嶋中さんがゆっくりと瞬きをして、不敵に口角を少し上げた。

2022/02/28

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