紫煙の鰻

 大輝は背中を少しだけ丸めて、小さなため息を吐いた。大輝のため息は今日だけで何度目かだった。しかし、有希は大輝に苛立ちや失望するようなことはなかった。2人だけなら落ち込んでいる時にはとことん落ち込むという、この夫婦の間での取り決めごとがあったからだ。とはいえ、大輝のその姿を、白紙のままの宿題を片手に、登校を強いられている子供のように有希は思った。
 大輝の背の、黒いナイロンのリュックには、つい30分前に受け取った不妊治療経過報告書が入っている。それこそが「白紙のままの宿題」の正体で、3日後に有希の実家への報告を控えていた。

「緒方さん、ええ、検査の結果なんですが、奥さんの方には特に言うことはないです。問題は、旦那さん、あなたの方ですねえ。治療内容は、」
 結婚から1年を過ぎても妊娠することはなく、受診したクリニックの無遠慮そうな白髪の医師は、焼けた声で事務的に2人へそう告げた。医師は上半身を全て革椅子の背に預け、鼻にかかった丸眼鏡の上縁から2人を交互に見つめる。頭のキレそうな隣のベテランの看護師が、小気味良い音で電子カルテへ「精子無力症」と打ち込んでいる。
 なんでも運動機能の乏しい精子が多く、高熱を出した経験があればなりやすいのだと、顕微鏡を通した映像とともにその医師は説明した。うっすら流れているオルゴールが、大輝からいくらか現実感を奪った。
「運が悪かっただけでこれから頑張っていけば良い」
「希望を捨てずにいれば、きっと良い事として返ってくるよ」
有希のためにと用意していた慰めの言葉を、いくら反芻してみても気分は安らぐことはなかった。まさか自分が、その思いこそが高慢であることに気付き、むしろその場から消えてしまいたい衝動に駆られた。帰りがけのエレベーターの扉が閉じた時に有希が、私じゃなくて良かったあ、と溢してくれたおかげで、なんとか今日まで大輝は治療を続けられていた。

「お腹空いたしご飯、先食べよ。」クリニックの帰り、2人は実家への手土産を買いに京阪モールへ向かった。人でごった返す環状線に揺られ少し疲れた有希は、昼食を提案した。
「そうしよか、どこいこ。」ひと通り落ち込んだ素振りを見せたが、大輝の横顔にはまだ影が残っている。
「せっかく京橋まで来たし、久しぶりに紫煙行こおよ。」大輝の左手を少し強く握り締め、腕を揺さぶるようにしながら、有希は言った。
 紫煙とは、京橋駅からすぐの鰻飯屋のことで、婚前の夏に一度だけ訪れたことがあった。鰻は大輝の好物であったが、有希は紫煙にちょっとした思い入れがあった。
 大輝と向かい合って鰻丼を食べているとき、大輝と結婚生活を送る情景がパッとイメージとして彼女の頭に広がったのだった。普段より小さなユーモアを絶やさず、週末は適当な映画を鑑賞する。記念日は慎ましくも酒で祝い、寂しい事が起こったらドーナツで心を癒す。芯から凍えるような風が吹けば、大きな鍋に2人で具沢山の粕汁を作る、息遣いさえ感じられる鮮やかなイメージだった。未だ経験していないモンタージュが脳裏をよぎった瞬間、この人と夫婦になってもう一度ここに来たい、という小さな望みが生じた。
 改札を出て京橋に降り立ったとき、その小さな望みを思い出した。あの時得たイメージの幾つかは既に現実になっていることにも気付いた。小さな望みを叶える日は今日かもしれない、と有希は思った。
「いいなあ、行こか。」大輝が答えた。有希は、大輝の頬の筋肉の緊張が、少しだけ解れたような気がした。

 駅前の広間では様々な人種が、各々の目的地へ歩いていた。小柄な有希はその合間を縫うように、大輝の半歩先を歩いた。献血車の隣をすり抜け、高架をくぐる。先に、色褪せた紫紺の暖簾を見つけたのは大輝だった。
 2人であることを伝え、カウンター奥のテーブルへ掛ける。注文を終えて互いに目を合わせたとき、大輝がほんのわずかに目を見開き、少しだけ首を傾けた。漂う香ばしい匂いに我に帰るまでのあいだ、有希はその些細な表情の変化を眺めていた。

 鰻が運ばれてきた。有希の前には特鰻丼ときも吸、大輝の前には蒲焼と白米、きも吸、鰻巻き、鰻ざくが並んだ。蒲焼はお頭付きで、有希の記憶と違わないご馳走だった。
 有希はまず、お吸い物を口に含んだ。淡白だったが、記憶のものよりずっと味わい深かった。味が変わったというより繊細な味を感じ取れるようになったのかもしれないと思った。茶色に光る鰻を米と頬張る。小骨のザラついた繊維と柔らかな白身の繊維は舌の上で分離しないまま、脂を纏った食塊となり喉元を滑り降りた。蠕動のまま消化器を潜り、小腸の襞に沈着するという空想。特別な食事のとき、有希はいつもこの空想をする。低血糖気味の全身に力が漲るのが分かると、空想は実感に変わっていく。
 この空想と実感は、今日という日が明日を生きる支えになる、有希にとって希望の裏付けだった。
 有希は大輝の方に目をやると、順調に目の前の鰻を消費していた。穏やかかつリズミカルに鰻を口に入れていく。箸先の先端1.5cmだけが脂で光っている。綺麗な食べ方だと思った。前のようにこれからのイメージが沸くようなことはなかったが、その代わりに、自分で実現したい未来を作っていかなくては、と有希は思い直した。大輝は視線を送る有希に気付き、微笑みで返した。

 道を引き返し、駅前の京阪モールのドアを開き、入り口すぐのエスカレーターに乗った。お歳暮・ギフトコーナーの表示に従い歩いていたところ、惣菜屋の裏から小さな体が飛び出し、有希の体にぶつかった。
「ごめんなさい。」2人が声をかける前に、女の子は謝った。小柄な容姿だけでは小学生にも満たないようにも見えた。有希は驚きのまま大きく目を開き、大輝と見合った。大輝は女の子に目線を合わせるようしゃがみ込み、声をかけた。
「ごめんね、大丈夫?」
「ああ、大丈夫です。」人見知りしない物言いは見た目より、ずっと年長な印象を持たせた。
「怪我も、ない?」身の内にある穏やかな優しさを、そのまま体現出来るところは大輝のすごいところだ、と有希はいつも思う。
「はい、大丈夫。」
「お母さんとは、はぐれたん?」
「ううん、逃げてきてん。」何かの事件のような響きは、女の子が浮かべた含み笑いによってかき消された。2人はまた丸い目を見合わせ、有希が理由を尋ねた。
「ちょっと困らせたろうかなと思って。」下唇を突き出し眉を顰めて、怒っているということを顔で分かりやすく表現した。頬の筋肉が少し緊張している。困惑する母親を想像し、愉快だったのかもしれない。
「寂しくはないん?もう会えんくなるかもしれへんよ。」有希は諭すような物言いで、不安が大きくなるように焚き付けた。背けた顔を素早く有希へ向け、たしかにそうかもしれないと、言わんばかりに少し俯いて目を泳がせ始めた。
「ふん、でもぜったいママの方から探しに来るまで、戻らへんもん。」アニメのキャラクターのように、また顔を背けるが、心細いのかしきりに顔や髪を触っている。
「じゃあ、僕達のお買い物についてきてくれる?プレゼントを買いに行くんだけどね。」大輝は悪戯っぽく言う。有希はその様子をじっと見つめている。
「仕方ないなあ。」女の子はパッと顔を明るくさせた。大輝は先ほどとは違った微笑みを、有希に投げかけた。

「今日はね、映画を見る予定だったの。お母さんとお父さんと。でもね、お母さんのお化粧のせいで、時間に間に合わなくってね、でもね、全然謝ってくんないの。お父さんもさ、怒らないでニコニコしちゃってさ。」女の子を真ん中に、3人で手を繋いだ。有希はこの小さな手のひらが、一人前に怒っている様が可笑しくて仕方なかった。微笑ましい光景と、大輝の温和な相槌はあまりに調和していた。
「ねえ、聞いてる?」
「大丈夫、聞いてるよ。」
「今度もね、遠足があってね。それを伝えたらお母さんたら、」
 彼女の軽快な話ぶりは皮肉たっぷりで大人顔負けだった。母親の豊かな感情を、目まぐるしい表情と声色で演じる。時に喜劇役者の演じる独裁者であり、秘密を共有する親友であり、鋭敏な観察者である顔を使い分ける母親、彼女は語り手としてもその小さな分身であることは想像に容易かった。ただそんなことよりも、これからどんな顔をして彼女のお母さんと会えば良いのだろうと有希は考えた。
「そういえば、このお菓子ね、弟が好きなの。」風月堂のゴーフルのショーケースを前に彼女は言った。有希の好きな菓子でもあった。
「へえー、弟くんもいるんだね。」
「1つだけ下のね。気難しいだけなんだけど、クラスではモテるんだって。ほんとよく分かんないけど。」
「へえ、弟くんの名前はなんて言うの?そういえばお姉ちゃんの名前も聞いてなかったよね。」有希が彼女の方を見たとき、彼女の姿はそこにはなく、繋いでいた小さな手のひらは大輝の人差し指に変わっていた。有希と大輝は彼女がいないことにほとんど同時に気付いた。顔を見合わせ、互いに目を丸くした。

 3日後に、2人は有希の両親への挨拶を済ませた。
 それからほどなく有希の身に子供を授かった。

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