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浅い眠り

「私はねえ、銭湯が好きなんです。人がまわりにいる中で1人でいても、それがごく自然で。今日みたいに冷えた日は特に良い、でしょう?」自分と横並びに座る痩せた老人は、膝の先を見つめながら言う。褐色の肌に灰色の口髭が目につく。石苔のように顎に張り付いている。無口な男だった。俺に必要以上に気を遣わせまいと話しているのだと思った。男は色の褪せた紺のウィンドブレーカーを着込んでいる。深い皺の寄った口元に近づけた、左手指のタバコを上手く咥えられずにいる。きっと手が悴んでいるのだろう。冷たい風は地を這い、服の繊維をすり抜ける。
「少し、分かるかもしれません、銭湯ではありませんが。知らない土地のオフィス街が好きなんです。知らない土地のはずなのに、背景と同化しているのか誰も僕を気に留めないんです。」流れる海氷の上を歩くように、一言一句を確かめながら話した。「ホテルのロビーも、そうかもしれません。一度深夜の2時くらいまで座っていたことがあって、その時はさすがに摘み出されましたけどね。」皮膚の弛んだ口角が少し持ち上がった。鼻で小さな音を鳴らした。柔和な笑みを浮かべ、遠くを見るように顔を上げた。淡く黄色に濁った眼球、その瞳孔が開く音が聞こえたような気がした。男の眼球は若い頃のままなのではないか、光を携えた瞳を見るとそう思えた。その眼球の持つ意味は、少なくとも歳月では変わらない。この眼球に見合う若い横顔を想像しようと試みる。迎えた朝の数は皮膚深くに沈着した色素、限界を知る知性は曲がった背中だ。想像してはみたものの、永遠に近い時間を処理出来ずにいる。男の目、その先を見る。

 半球状の黒い監視カメラと目が合った。動揺し、唾液で咽せる。無機質に笑うカメラを睨みつけた。パイプ椅子に背を預け、口を開けて眠ってしまっていたようだった。足先の冷えで目が覚めた。
 時計は2時を指している。待機室から小窓を覗き、ガソリンスタンド場内の様子を窺う。4本の電灯が全域を照らしている。人工的な眩い光が設備を鮮やかに存在させている。背景はターコイズの水彩インクを浴びたように輪郭があやふやになっている。端に寄せた軽バンの下からネズミの小さな影が走る。どこかに巣があるのかもしれない。運送のトラックが場内に乗り上げ、ネズミが走る向きを変える。ハイビームのタクシーが通る。向かいのローソンは、煌々と光る青い看板を掲げている。変わり映えのない景色、変わり映えのない仕事は退屈だ。脳細胞までが客を待つスタンドと共に止まってしまうような気がして、欠伸を噛み殺す。トラックドライバーは静電気除去パットに触れ、ノズルを給油口に差し込んだ。給油許可ボタンを押す。
 携帯のメモ帳を開き、孤独な老人の夢を覚えている限り書き留める。初めて見る夢ではなかったが、その詳細はほとんど残っていない。見た目や言動、自分の感情、すぐに書き始めないと忘れてしまうからだ。その夢から覚めたあと、背筋が伸びるような思いだけが空っぽの胸中にぽつんと残っている。きっとその孤独な老人は、自分でその胸中を埋めるべきだと教えてくれているのだろう、といつも思う。
 夢の記録はいつしか密かな趣味になっていた。突拍子なく展開されるストーリーは読み返す価値があると思えるほど、面白かった。特に自分の頭の中で作られたものである、というのが良かった。時に気付いていない自分を発見することもあった。海底深く潜る探査船は前方わずかしか照らすことが出来ないように、少しずつ時間をかけながら断片的に自分を探査する。これは、ある種の冒険譚だった。子供の頃に夢について調べ、記憶の整理であるというのが定説であることを知った。自分の夢まで窮屈なものにしてしまいそうな、退屈で何も変化することがないこのスタンドからの風景が好きではない。

 すいません、詰所の入り口から声が聞こえた。夢の記録に熱中し気付かなかったが、スタンドに黒いクラウンが停まっていた。後部座席に人が乗っており、そこからも男性の大きな話し声が聞こえる。何を話しているかまでは分からない。
「あの、すいません。」車内からの声よりは若い声だ。
「はい。どうされましたか?」上着を着て、応対する。控え室のドアを開けると真っ黒のスーツを着た若い男が立っていた。髪は茶色で短髪、ネクタイに柄は無く真っ黒に染め上げられている。喪服姿であった。
「トイレをお借りしたくて、それと、給油の仕方を教えて頂きたいんです。」同年代の若者らしい腰の低い物言いだ。入り口すぐ隣のトイレを案内すると、男は駆け足で車に戻り、中年の酔っ払いをトイレに誘導した。覚束ない足取りだった。汚さず使ってくれれば良いが、と思った。代金を預かり、待機室の給油許可ボタンを押す。トイレからは大きな音で、何かを吐いている音が聞こえる。若者の代わりに何食わぬ顔で給油ノズルを手に取った。自走しない車、携行缶などへの給油は犯罪です、と表情のない女性の声で案内が流れる。どうやらトイレで吐いている中年が元々のドライバーであったが飲み始めてしまい、若者が代わりに運転を務めたようだ。もう困りましたよ、と笑いながら若者は誰かへの電話口に声を吹き込む。目元が穏やかで、人の良さそうな表情を作る。同情を口にしても良かったが、あくまで事務的に対応する。それが深夜のガソリンスタンドバイトにふさわしく思えたからだ。
 中年がトイレから戻ってきた。足取りは幾分マシになっており、着ていたスーツにも汚れはないように見えた。「おお悪いなあ。」と中年は締まりのない赤ら顔に薄ら笑いを浮かべて若者に言う。
「本当ですよ、気をつけてくださいね。」若者は間延びした声で返答する。怒りではなく、心配のニュアンスが込められている。この歳の年代は水を飲んで顔を洗えば酔いが覚めると考えているところがある、もっとガツンと強く言った方が良い。指定量の給油が終わった。ノズルを締め、給油口を閉じた。酔っ払いは後部座席から若者へ何かを語りかけている。不明瞭な音だ。若者は運転席へ乗り込みエンジンを掛けた。窓を開け、ありがとうございました、とこちらへ会釈をした。鯨、と断片的に車内のラジオが聞こえた。大阪の淀川に迷い込んだ小鯨のニュースだろう。小さく頭を下げてクラウンを見送った。詰所へ振り返ると見慣れぬ老婆と目が合い、思わず身を竦める。淡いピンクのジャージに赤い柄物のカーディガンを羽織っている。肩から下げた黒いポーチが膨らんでいる。
「あの。」

 老婆はとぼとぼとした足取りで、1歩ずつ近付いてくる。スタンド端の灯りを一身に蓄えた目は意味ありげに濡れているが、緊張したように力んでおり眉間と目尻に皺が寄っている。眉毛はない。口は驚いたように半開きになっている。髪は細い。まだらに色素の抜けた毛の一本一本が脂を纏っており、頭皮に張り付いている。目元にほくろがある。首元から白いレースの下着がのぞいている。ジャージはピンクではなく日に焼けた赤で、カーディガンはペルシャ絨毯だった。
「盗まれたの、私のお金。」ツンとした尿臭が鼻を刺す。「頭元に金庫を置いてるの。50万円くらい貯金してたの。でも、起きたら全部無くなってて。泥棒が入ったんだわって。」険しい表情で話している。毛玉と埃に塗れたペルシャ絨毯が揺れる。「5000円、貸してほしいの、お腹が空いてて、」目を一瞬だけ足下に落とし、再び視点をあげ俺の目を見て迫った。怯みそうになる。
「家族は近くにいないんですか?」
「息子が2人、でも電話は出ないの、ここ数ヶ月。」
「警察は?」
「もうしたわ、でも、もうかけたくない。」
「じゃあ息子さんの電話番号教えて下さい。こちらかけてみますよ。」
 老婆は長男の名前と電話番号を言った。ハルタマサヒコという名だった。老婆をその場で待たせ、事務所の固定電話からハルタマサヒコの番号を打ち込んだ。はい。太い吐息のような声だった。電話のベルを聞くまで、寝ていたようだった。母親を名乗る人物を保護していることと所在を伝えると、隠すこともなくため息をつき、1時間後に迎えにいく、と答えた。1時間も老婆を匿わなくてはならないのかと、ため息をつきたいのはこっちだと思った。老婆に、長男が1時間後に迎えに来ることを伝えた。でもお金が、でもお金が、とあたりを見回してソワソワしている。詰所のパイプ椅子に座らせ、1時間後に到着するので息子さんに相談してください、と伝えた。落ち着かない様子に口調が強くなってしまった。少し後ろめたくなり、老婆に詰所で待つように説明し、俺は待機室に戻った。
 携帯電話を見ると、中途半端に書かれた夢の記録が表示された。覚えている範囲で追記し、大方は完成した。しかし大事なことが思い出せなかった。夢の中の男は、俺の記憶の誰を意味しているかがどうしても思い出せなかったのだった。

 携帯電話で暇を潰していると、詰所からガチャガチャという物音が聞こえた。扉を開ける。老婆が必死に鍵のかかったレジを開けようとしていた音だった。
「なにしてるんですか?」
「あんたが盗ったんでしょ、お金!」黒く沈んだ瞳は閉ざした心を直感させ、まず意思疎通を諦めた。据えた臭いが詰所に立ち込めている。驚きが先行し呆然と眺める。開くことのないレジとがむしゃらに格闘する姿を見て、驚きがスッと消える代わりに苛立ちと怪訝が後味として残った。時計を見る。約束の時間まで、まだ20分待たなくてはならない。待機室へ戻り、大きく深呼吸した。尿臭を含んだわずかな空気を体内に入れてしまった。苛立ちは電話口でため息を漏らしたハルタマサヒコへ向いた。自分の財布から1000円札を取り出して、老婆へ手渡すことにした。
「私は盗ってません、が、お腹が空いたんですね。これで、コンビニで何か食べるものを買ってきて下さい。」老婆は腰を屈めて、ありがとう、ありがとう、と繰り返し1000円札を受け取った。横断歩道を渡るのを確認し、換気扇のスイッチを入れた。慣れたはずのガソリンの匂いが少し新鮮だった。老婆はビニール袋を下げて帰ってきたが、中身は5食入りのチキンラーメンだった。夜食として買っておいた菓子パンを手渡した。美味しそうに食べている。まだお腹が空いていたのか、チキンラーメンを乾麺のまま食べ始めた。俺はボロボロとした食べこぼしを、諦めながら眺めた。

 結局ハルタマサヒコが現れたのは、そのあと更に40分後だった。白のポルシェのフロントライトが場内を照らし、様子を伺うと運転席の窓が開いた。ハルタマサヒコは小肥りの中年だった。窓から片手を上げこちらへ合図する。黒髪を七三に分けていて、窪んだ細い目の下の余った皮が威圧的だった。黒のダウンジャケットの襟から灰色のボタンダウンシャツが覗く。運転席から降りることなく、母は、と言った。苛立ちを隠すことなく口元を歪めている。あちらです、と詰所を指さすと、連れて帰ります、と答えた。あくまで車から降りるつもりは無さそうだった。詰所の老婆に、お迎え来ましたよ、と声をかけた。本当にありがとうね、と老婆は穏やかな表情を浮かべるが瞳は変わらず暗い。帰りもお腹が空くといけないので、と言いチキンラーメンの袋の1つを開封して手渡した。ありがとう、ありがとう、と老婆は右手で受け取った。そのままハルタマサヒコの元へ案内し、後部座席へ乗せた。では、それだけ言いポルシェは発車した。車内でポロポロ落としながらチキンラーメンを食べるさまを想像し、ざまあみろ、と思った。待機室へ戻り、1000円を返して貰わなくてはいけないことを思い出した。わざわざ1000円のためにリダイヤルからハルタマサヒコに電話をかけようとは思わなかった。

 足元に冷えた空気が溜まった夜明け前、見慣れたショートの2トントラックが場内に入ってきた。白い車体の荷台に、褪せた紺のシートを被せてある。その車は水曜日と日曜日以外はいつも5時半ちょうどに現れる。中に乗っているのは煤けた作業着の小柄な中年だ。髪は薄くカマキリのような顔をしている。俺が初めて夜勤に入った日には既に常連となっており、少なくともその日からは欠かすことなく利用している。騒がしかった夜勤も残り2時間半で終わる、そんな平穏を運んできてくれる。同時にこの時間から少しずつ客足が増え始める。気を引き締めなおす。彼を見送ってから洗車機に電源を入れるのが日課だった。
 その男はエンジンを止めた。車を降りて肩をすくめ、白い息を両掌に吐きかけてから、指の動きを確かた。現金を機械に入れて、パットを触る。黒いフリースのネックウォーマーを鼻まで引き上げ、後輪の横の給油口にノズルを差し込む。俺が許可ボタンを押すと給油が開始する。管の中が液体で満ちる感触を掌に受け、男はレバーを引いた。肩で息をしている。小さな背中を丸めている。男は監視カメラ越しにこちらに一瞥した。目が合ったような気がした。既視感を覚えた。胸と腹の境目から甘いものがスッと波のように広がった。波は内側から皮膚の壁に当たり、鳥肌で全身が染まった。男の目は年相応に老けていた。色は白く、小さく丸めた背中は恥の表情を浮かべている。しかし直感は既に拭いされない確信に変わっていた。夢の中の男だ、と思った。スタンドへ出て、男に話しかけようと思った。話題はなんでも良かった。いや、銭湯のことがいいだろう。恥を浮かべる背を軽く叩いてやろうと思った。上着を手に取り、さりげなく詰所の扉を開いた。男と目が合う。何を話そうか、何を切り出そうか、掻き回すように頭の中を探る。男は目を丸くして固まった。手元に目を遣る。荷台のシートから小さく覗く携行缶にガソリンを注いでいた。爪の隙間には黒い汚れが溜まっている。
「言ってくれたら、」自分の口から出た言葉を止める。男の驚きの表情はみるみる恥に染まっていく。脂ぎった白い首筋は淡い赤に塗り替えられていく。俺はその場に立ち尽くした。男は小さく震えながらノズルを返し、波打つ携行缶のキャップを締めた。ガソリンの匂いを孕んだ風を起こしてエンジンをかけ、俺の隣をすり抜けた。
 程なく近隣で小さなボヤがあったが、出火元は家主の寝タバコだったそうだ。以来、5時半の男が現れることはなかった。何も起こることなく平穏な日々が続いたが、俺だけは薄い透明の膜のようなものの中に取り残されていた。孤独な老人の夢を見ることはなくなった。携帯のメモ帳を開き、孤独な老人は何を見つめていたのかを必死で思い出そうとした。何が男の目を老けさせたのか、何を恥じていたのか、何のためにガソリンが必要だったのかを考えた。孤独な老人は5時半の男であり、俺自身でもあったのかもしれないと思えた。もし俺なら、喪服の中年と若者に、老婆といけすかないポルシェに、5時半の男とショートの2トントラックに、ガソリンを撒いて火をつけるだろう。俺は何故そうしないのか、孤独な老人の夢を何故見たのか。探査船は消えた老人の分まで孤独に回遊を続ける。怒りのために粟立つ背の皮にも、燃やし尽くせと自ずから固くなっていく拳にも耳を貸し、それでもと目を張り五感と知性を振り絞る。たとえ革命前夜であったとしても煽られることなく、海底のカプセルの中で酸素の限り火を小さく灯し続ける。詩人のように鼓動に揺れる臓器を感じることに集中する。
 男はいまだ、西の海を見つめている。目印すらも流れていくような荒く冷たい海だったが、男は毎日小さな発見をした。跳ねるイルカや水面近くを飛ぶ海鳥。晴れた日は白い波が泡になり、嵐の日は落雷が不確かな水面に反射した。迷い込んだ鯨は男の目印になった。しかし程なく、幼いまま死んでしまった。大きなコンクリートが結び付けられて、暗い海の底に沈んでいった。男の視界は、鯨の血肉と同じ色をした空と海でいっぱいになった。男はいまだ何かを目印に西の海を見つめている。海から目を離さない限り、男の目は歳を取らない。
 やや、西に傾いた日で俺は目覚める。さあ、夜勤の支度をしなくては。

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