餃子好きな女は孤独を運ぶ

 参考書を捲る教室中の音が、森雄一の丸まった背中にしんしんと積もっていく。米沢操も、単語帳をめくりそれを目だけで追っている。宮崎航はそれらをまるで意に介さずヘラヘラと笑い、イチゴジャムパンをどこからか持ち出した1リットル紙パックの牛乳で流し込んでいる。森雄一はシーチキンマヨネーズのおにぎりを一口齧る。上顎に乾いた海苔がピタッと引っ付く。水を口に含む。正面のホワイトボードには、英語13:00~14:30、と書いている。
「今までに食べたものの中で一番おいしかったのって、なに?」宮崎航は、携帯電話に目を落として、言う。口角には歪みがあり、愉快そうであったが、森雄一にとってはむしろ不謹慎な印象を持たせた。妙に離れた目の尻は垂れており、一層、言動にだらしなさが際立っている。
「なんですか、急に。」森雄一は冷ややかな視線を送る。長い付き合いではなかったが、目的もなく、突拍子もなく、状況を考慮することもなく、話しかけてくる人物であることを森雄一は知っていた。もちろん、話題に生産性もなく、といった具合だった。
「なんかないの、ナポリで食べたマルゲリータとかさ、文化祭前日に遅くまで残って食べたカップ焼きそばとかさ。マンチで食ったシュークリームとか。そんなんないん?」顎を引き上げ、森雄一の目を見て、言った。退屈そうな口ぶりであったが、新人カウンセラーのように、誠実に話題と向き合おうとしているようでもあった。ただ、宮崎航という人物においては誠実な態度であればあるほど嘘くさい、と森雄一は思った。
 米沢操は重たい前髪の奥の目を、手元から上げようとはしなかった。口元では風を切るような小さな音で何かを唱えている。もちろん英単語であろうが、魔女が呪文を唱えている姿を連想させた。
「そうですね、熱が出た時に母親が作ってくれた卵粥かもしれません。」本当はなにも思いつかなかった。母親は料理が不得意であり、粥に卵を溶いて作っていたのはむしろ父親の方だった。さらに森雄一自身、食べさせてもらった記憶はなかった。病気がちな妹の口へ、ふーっと冷ましながら匙を運んでいる父親の背中だけが、ビジョンとして頭に残っていた。でっち上げた嘘を流暢に話し、張り付いた海苔を舌でこそぎ落とそうとする。うまく剥がれない。
「ふーん。えらいええ話やなあ。ほんで、操ちゃんは?」
 巨大なエアコンは静かなエンジンのように唸り続けていて、暖気と共に部屋の乾燥を加速させる。換気のためにわずかに開けられた窓では、カーテンが細く膨らんでいる。教室の空気は冬の澄んだ風に少しずつ塗り替えられていくが、一度ティッシュペーパーのように乾いた肌が潤いを取り戻すことはない。米沢操は呪文を唱えるのを中断し、私は、と切り出した。
「私は、餃子、ですね。父が作ってくれた餃子。」米沢操は、顔を上げずに答える。ページを捲る手を止め、視線を部屋の隅に送った。記憶の歯車を逆に回しているのだと、森雄一は思った。新しい記憶の定着に集中していた脳は、古い記憶を呼び覚ますためにギアを入れ替える。歯車を止めるほどの話題ではない。しかし、参考書を開かず惰性の輪に加わる自分も同じく哀れだと、森雄一は思った。

「へえ、餃子。いいね、餃子。」宮崎航はいつもの調子を崩さない。左の手のひらで意味ありげに顎をさすり、言葉を吟味するフリをする。
「中学2年のときに、友人の、綾ちゃんのお父さんが亡くなったんです。進行性の病気で、最後には自分で座ることも出来なくなってました。仲良かったんですよ。」表情一つ変えない告白に、宮崎航の顔を見た。正確には、聞き出したお前の責任なんだぞと、責め立てるような視線を送ったつもりだった。気に留める様子もなく、宮崎航は表情のない顔で米沢操の目を見ている。
「綾ちゃんの家に遊びに行くと、いつも綾ちゃんのお父さんは家にいて、出迎えてくれました。最期まで気の良い、明るい人でした。綾ちゃんも綾ちゃんで寂しい思いはさせたくないと言って、お父さんのベッドに突っ伏して寝て、学校へ行くって生活でした。無理が祟って体を壊してからは、吹奏楽部も途中で辞めていきました。
 ある日、綾ちゃんのお父さんの訃報が届きました。私はお母さんと一緒にお葬式に出席しました。私はわんわん泣きました。が、綾ちゃんは気丈にも泣かずにじっと静かにしてました。印象的だったんですよ、とても。
 帰ったら、父は、私の好物の餃子を作ってくれていたんです、少し不格好でしたけどね。餃子が焼ける音を聞きながら、母と喪服を脱ぎました。綾ちゃんを置いて、一足先に日常に帰っている、そんな気分でした。身は日常においても、気持ちは綾ちゃんと一緒にいたいと強く思ったことも覚えています。
 焼きあがった餃子はところどころ破けてはいましたが、美味しかったんです。少しニンニクが効きすぎているのも分かりましたが、それでも美味しかった。一口食べるごとに少しずつ無意識に抑圧していた思いが浮かび上がって来たんです、自分の父親じゃなくてよかった、と。安心と罪の意識に揺れました。両親にはその背徳感が伝わらないように、美味しいよ、と言いました。」米沢操は朗読を終えた読み手のように単語帳をぱたんと閉じた。「一番美味しかった食事、その時のことを思い出しました。少し、飲み物を買ってきます。」

 最後の科目を終えた時には外は暗く、靄がかかっていることに森雄一は気付いた。予報外れの雨が降っていた。受験者は解答を受け取り、思い思いに教室を出ていく。森雄一と同じく、空の様子をうかがっている者もいた。ややオーバーサイズの黒いダッフルコートに身を包み、仏頂面で携帯電話を操作する米沢操もその一人だった。
「ずーっと考えててんけどさ、俺は今までに一番美味しかった食事って思いつかへんねん。」視界の隅から、うーん、と唸っている宮崎航が現れた。
「自分から言っといて、ですか。」試験をまじめに受けろよ、とも思ったが突っかかる気力は起こらなかった。
「せやねん。だから聞いた、ともいえるけど。」宮崎航は左手に折り畳み傘、右手に蝙蝠傘を持っていた。右手の蝙蝠傘を森雄一と米沢操に差し出し、帰らないのか、と聞くように小首をかしげた。米沢操は前髪の下、切れ長の目、その眼球だけを動かし、宮崎航を捉えた。
「駅まで迎えに来てくれることになってるんです。」
「ほな、駅までやな。」
 宮崎航は折り畳み傘を、森雄一は米沢操とともに蝙蝠傘を差し、駅へ向かった。駅までは受験生が長蛇の列をなしていた。イヤフォンを差し涼しい顔で歩く男子生徒や、当てのないおしゃべりに興じる女子3人組、口をだらしなく開いて顎を浮かし、虚空を見つめて歩く宮崎航。その誰よりも、同じ傘の中で隣に立つ女の考えていることが分からなかった。なぜいつも宮崎航の軽口に応じるのか、なぜいま同じ傘に入っても良いと思ったのか、なぜさっき友人の父の死の話をしたのか。紅色の学校章入りの、ボストンバッグを両手で小さく肩に担いでいる。見下ろせる高さの頭頂部からは限りなく暗い茶髪が伸びており、毛先はビル風に煽られた木の葉の軌跡のように乱れていた。
 米沢操は、駅前のバスターミナルを、あれ、と指さした。指の先には白い軽自動車がぼうっと浮かんでいた。あと20メートルくらいのところで米沢操は走り出し、後部座席のドアを開ける前にぺこりと会釈をした。森雄一が呆気に取られている横で、宮崎航は手を振っていた。慌てて同じように手を振り、じっと眺める。ドアを閉じるまでの間、車内灯が点いていた。12月の雨より冷たい光だと思った。運転席では男の顔が見えた。
「あの子、なんであんな話、したんですかね。」
「うーん。操ちゃんにとっては、隠すほどのことでもなかったんじゃないか。」想定しない返答に、思わず宮崎航の横顔を覗く。駅改札の光が、横顔にくっきりとしたシルエットを作っていた。宮崎航は、なんかさ、と続けた。
「なんかさ、俺が惹かれる子って、あんまり共通項ないんよな。年上、年下とかさ、明るい、おとなしいとかさ。ただ最近、1つだけ見つけてん、それが餃子が好きなこと、やねんな。餃子好きな女は孤独を運んできてくれんねん。まあ分からんやろ。」冗談で言っているわけではないことは分かった。ただ、森雄一には、それ以外は分からなかった。
「餃子、ですか。」
「そう、餃子。」
「でも、それって、人を好きになると孤独感を際立って感じるってことなんじゃないんですか。餃子はなんというか、まあ結果論というか。」宮崎航はうーん、と少しの間考え込み、そうなんかなあ、と小さく漏らした。森雄一は少し後悔した。足先の冷えを感じ、スニーカーが濡れていることに気付いた。

「実は、卵粥、食べさせてもらった記憶ないんです。僕も今までで一番美味しかったもの、思いつかないんですよね。」
「そうよな、急に聞かれても、って質問やもんな。受験終わったら美味しいもん食べに行きたいなあって、世界史解いているときにふと思ってん。」
「なるほど。」
「ほな、一番好きな食べ物は?これはあるんちゃう。」
「うーん、ピザポテト、とかですかねえ。」真剣に考えた森雄一の隣で、宮崎航はケタケタと笑い、ピザポテト好きは良いやつかもな、と言った。

 受験を終えたあと、森雄一は彼らと顔を合わせることはなかった。米沢操が友人の父の死を語った理由は、いまだに分からない。いまとなっては、確かめるすべもない。

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