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Delirium

 彼女と初めて話したのは、北海道にいる友人宅での留守番中でのことだった。通話アプリで適当に見繕ったどこにでもいる大学生の女といった風情で、特徴といえば地図を見るのが好きなことと、俺と同じく海が好きなことくらいだった。名前をツツジといった。
 当時、俺は3年勤めた病院を辞めた直後だった。小さな鳥籠のようなコロナ病棟の殺伐とした勤務から逃れられ、ようやく羽を伸ばせるということで日本中の各地に旅行に行っていた。その時の関心ごとはといえば、旅の醍醐味を知りたいということだった。見たことのない景色を見たい、食べたことのない食べ物を食べたい、会ったことのない人と会いたい、そんな気持ちを取り戻して、土地を愛することの出来る人間になりたかった。しかし、どんな場所も乾いた心を持つ者には者には何ら変哲のない道として映るだけであった。俺は日本中のどこへ行こうとも世界の広さすら感じることが出来ず、移動は全て逃避に成り下がった。
 その点、彼女には街を愛する心があった。2.3度目の通話で彼女が俺の地元である須磨に来ることが決まった。須磨は海のある街だけどそれ以外には特にあまり何もないよ、と言うと彼女が、じゃあ私が須磨を案内するよ、と返してきた。地元の人間が地元の外の人間にガイドしてもらうというそのみっともない自分が面白く、俺は2つ返事でお願いすることにした。
 彼女は「泡の行先」を甚く気に入っていた。どこが好きなのかと幾ら尋ねても、明瞭に返事をしてくれることはなかった。感想を教えてくれない理由について問うと、それは私のポリシーによるものだ、と明かした。彼女はギターで曲を作り、人に聞かせることをしており、自身の曲について人に感想を述べられた時、自身の狙いと違う感想だと嫌になる、と話した。作品には十人十色の感想がありどんな感想でも受け取っていたい、という俺の考えとは真逆の考え方だったが、それはそれで良いと思えたのは彼女の並々ならぬ思い入れの籠った話し方に依るものだったと記憶している。しかし、何となくこの物語を気に入った理由を俺は憶測出来た。
 泡の行先は、人魚の悲恋の物語である。この身を捧げてもいいと思えるくらいの人間と恋に落ちるが結ばれることなく、せめてもという祈りも通じず不条理な運命の中で命を潰えるという物語なのだが、彼女は人魚への憧れに似た殉身の願望を持っていたのではないかと思えた。
 危険の多い場所で身を潜めながら、醜い姿を隠すように陽の光の届かない深海で静かに生きる。時には他人を騙すようなことをしても生き残る意思を持ち、自らで行先に小さな光を灯すチョウチンアンコウ。人魚が思い描くチョウチンアンコウは、拙くも駆け落ちのメタファーとして書いていたつもりだった。しかし、どんなに切なる希望でも祈りが何かを成すことはない、そんなことを思って書いた。

 約束の20分前には、須磨駅に着いたという連絡があった。緊張している、というメッセージも添えられていて、緊張に値する人間ではなかったと落胆させてしまわないか心配になる。
 須磨駅は線路をまたぐ陸橋のような形で建造されており、その2階の橋床に当たる部分に改札がある。改札を出て右を向くと、ようこそ須磨海岸へと書かれた看板と手摺の付いた踊り場があり、そこからすぐに砂浜が眺められる。波打ち際から数十メートルの距離に舗装された道が東西に走っている。あまり綺麗な海岸ではないが慣れ親しんだ海だ。踊り場から砂浜を見渡す。階段を降りるとベンチがあり、遠目でもはっきり目立つくらい黒く、背の曲がった女が座っていた。着いたよ、と連絡を入れると、その女が首だけでこちらを向いた。階段を降り一歩ずつ近寄る。首をもたげてこちらを見ている。
「ごめん、おまたせ。」
 眩しいくらいの快晴だったが、彼女の纏う黒い衣は一身に光を吸収している。布の縒れにできた大きな皺が縦の朧気なラインを作り、却ってその黒に存在感を与えているような感じがある。黒髪のウルフカットは死体を隠す草葉のように顔の輪郭を覆い隠し、ややオーバーサイズで身体のラインが分からない黒のワンピース、背丈を変える黒の厚底ブーツ、チラリと見える白い靴下というコーデに猫背な出立は、ファッションの趣味の他にも自分の見せたくないところを隠したいという現れの印象を感じさせた。異様な光景ではあれど似合っているのも事実だった。不安そうに肩掛けバッグのベルトを両手で握りしめている。目を合わせると、頬に力こぶが出来るくらい口角を上げ、ニマっとした笑顔を作った。緞帳のように綺麗に口角が吊り上がる。ダークな色で塗られた薄い唇の隙間から矯正している並びの良い歯列が覗く。一重の目は虹彩すら黒かった。
「ううん、大丈夫。」ふり絞るような小さな声で言う。
 彼女がサーチした古びた喫茶店に入り、お互いに紅茶を注文した。彼女は何杯も砂糖を入れて最後には溶けきらなかったドロドロの液体を啜っていた。舗装された道を進み、防波堤を歩くことにした。彼女は先細りするコンクリートの道を猫背のまま厚底ブーツで器用に進んでいく。
「ほら、防波堤歩きたいタイプだから。」
 防波堤に座り込み、彼女はその足を投げ出した。気持ちよさそうに天を仰ぐと、首筋に小さな喉仏が見えた。規則的に波の砕ける音が鳴る。絶えず小さな波が跳ねていて、陽の光を反射しキラキラと光っている。彼女はスマホをかざし風景を捉えている。丁寧に千切った綿飴のような雲が高い空に浮かんでいて、遠くに望む丘にまばらに影を落としている。更に遠くの山肌は空の青が色移りしてしまっていて、海岸線がどこまで伸びているかよく見えない。砂浜の方で男の太い声がした。誰かを呼ぶ声のようだったが、発語は不明瞭で聞き取れない。彼女はいまだスマホを構えている。覗き込むと画面は真っ暗で、液晶越しに彼女と目が合った。一重の目を糸にして悪戯っぽく笑っている。本当に楽しそうだった。
「ギター持ってこようか迷ったんだよね。」
 小さな声に、彼女の顔の高さに耳元を合わせて聞く。聞きたかったな、と岡山の向こうから在来線に乗って来た彼女の苦労に目を塞ぎ言う。
 駅までの帰り道、俺は所在なさげに下げられた彼女の手を取った。意外にも大きく健康的な手と指をしていた。ネイルは成されておらず爪も切り揃えられている。彼女から握り返されることはない。少し力を入れて握ってみる。さっきより彼女の指先からは力が抜けていく。罪悪感を煽られる。少し歩き、こういうのは付き合ってからじゃないとダメ、関係がすぐ終わってしまうから、と彼女は手を解いた。そっか、とだけ返事し手をポケットに入れる。ゴムのような無機質な感触が掌に残っている。今日がない人間に明日はないんだ、と心の中で言い返す。その時訪れた半秒の沈黙を、列車の音が塗りつぶした。

 解散したあと彼女は、小さな黄ばみ地のノートに書かれた泡の行先の感想を送って見せてくれた。結末が穏やか、彼に殺されるが人魚の血肉は村の名主にぱくぱく食べられてほしい、と箇条書きで感想は纏められていた。赤いペンで丸字、ノートの空いたスペースにチョウチンアンコウのイラストが描かれていた。その中に、なんか腑に落ちる、というものがあった。翌日以降、ほとんどリアルタイムだった連絡の返信は鳴りを潜めた。
 フラれることには慣れていたから、さほどショックは受けなかった。ただ、SNSを交換してしまっていたせいで、彼女の動向が嫌でも目に入ることになった。彼女のタイムラインには、恐らく俺と思われる話と別の男と断定出来る話が混じっていた。露骨に感情の波が文面に現れていて、初めての経験でひどく動揺した。あの冬を思い出しそうだ!、腹パンちて、防波堤一緒に歩いてくれてありがとうね…、陰キャすぎる、殺されたい、最後まで被害者でいたいから殺されたい、ハァハァハァハァハァ、連絡は途絶えていたのに彼女の感情だけがつらつらとタイムラインに上げられ、なにか汚されている気分になった。愛憎の感情を彼女に持ってから、ようやく彼女が激情を抱えた人間であることに気付いた。思えば予兆はあった。俺の過去の恋愛遍歴を聞きたがり、聞くと犬のストレス反応のように短く断続的な呼吸を繰り返した。死にゆく人魚にシンパシーを感じていたのも、その1つかもしれない。
 気分と関係を取り繕うように通話の機会を作ったが、彼女の声色は熱を失っていて、俺は胸を締め付けられるような思いになるばかりであった。名残惜しさと居た堪れなさで通話の切り際を探っているとき、彼女が切り出した。
「最近、恋をしてね、そのことで曲を作ったの。」
 なんでもない内容のことを話していて、突然切り出された話題だった。複雑な感情にどんな顔をして聞けばいいか分からなかったが、幸い通話口で顔は見えない。端末のマイクに音を拾わせるように俺に音源を届けた。粗が聞こえなくて良い、ということだった。澄んだ旋律を奏でる穏やかなギターの上に、よく知ったものとは違う繊細な歌声が乗る。浅い呼吸、離れた手の気まずさ、消えそうな光、音が不明瞭で断片的にしか歌詞が聞き取れない。もしかしたら、という疑念が頭に浮かぶと一瞬でその考えに取り憑かれてしまった。既に1つの考えに固執してしまって働かなくなっている脳と、ストレートな感情を吹き込まれて詰まってしまいそうになる胸。やはり彼女は作品への感想を欲しておらず、聞かせると満足して電話を切った。思考と感情とは、行き場なく循環を伝って全身を巡り、自家中毒のように肉体が熱を帯びたのが分かった。数十分の放心のあと、もう一度聞かなくてはと思いリンクを送って欲しいと連絡した。返信は明け方だったが、すぐに音源を確認した。曲にタイトルはまだ付けられておらず、デモとだけ振られていた。透明な言葉選びでありながら、らしさを孕んでいる歌詞は儚げで美しい。真っ暗闇に染まった波打ち際のように不可侵な心を想像し、元より彼女に返せる感想などないことを知る。俺はこの歌が自分に向けられたものであるかもしれないと考え、ついぞ振り払うことも盲目的に信じ込むことも出来なかった。

 彼女は俺に知らしめた限りで3つのSNSアカウントを持っていた。1つは俺の知っていたもので、もう2つは独立国家と永遠という名でそれぞれ別の男を囲うためのアカウントだった。いずれも仰々しい名だが、ここは私と貴方だけの独立国家だ、私と貴方の間に流れる時間は永遠だ、という安い口約束が由来のようだった。彼女は1人に真剣になれるような人間を選ぶことはなく、当然ほどなくし独立国家は崩壊し永遠の時も終わりを迎えるのだが、その愚痴は俺のタイムライン上にも垂れ流された。常に被害者面をしていて、隠そうともしない生傷が痛々しく映った。
 とにかく莫大なエネルギーを彼女は宿していて、彼女自身が管理しきれないそのエネルギーをコントロールしてくれる、更に過剰な何かを求めて彷徨っているように見えた。村上龍の言葉を借りれば、過剰な何かを必要とする人間は言葉による救済を拒否しているのだが、彼女はその傾向が顕著にあった。鯨の歌のように響く心の声が海中深い腹の底から絶えず響き、彼女はその声に苛まれるように大きな二枚貝のようなセンチメンタル、もしくは音楽に逃避していた。生傷塗れの彼女のセンチメンタルは咽返る程の色気を発していて、踏み躙られることを待っている。期待通りに踏み躙ら無ければ、彼女の目が俺を捉えることはない。そう思った。

 彼女はギターをジャランと鳴らして、この音好きとか、この音不安になるねとか、音感覚的な実験を続けている。音は少し割れていて、時折プツリと音が途切れる瞬間もあった。何かコードを確認して知らない曲のリフを機嫌良く弾き始めた。就活のリストを作らなきゃなんだけど初任給は22万以上じゃなきゃ嫌だとか、永遠を約束した彼が連絡を返してきたとか、須磨で会った日の日記を見せろとか、サークルの先輩の挙動が社不だとか、一昨日マッチングアプリで出会った男がボディタッチをしてきて私のこと好きすぎるだろと思ったとか、夏にも男の子と会う約束を5件しているけどそれまでにこの彼と付き合うことになったら断らなくてはいけないのではないかとか、ポロンポロンと弾きながらギター相手に呟くように言い続けている。そうだね、とか適当な相槌を打ちながら俺は緩やかな去勢、虫の叫声の手直しを行っていた。俺は昨夜の夢に彼女が出てきたことを話した。サウンドクラウドやSNSを全て辞めてしまってギターも捨て、リクルートスーツに身を包み就活をこなしている彼女が俺に呆れた視線で一瞥し、その後振り返ることなく歩いていく夢だった。
「自分よりダメだと思っていた奴に突き放されてショックだった?」
 ようやく首をもたげた様子で、彼女は少し笑って聞いてきた。
「そんなことは思ってないよ、ほんとに。」
 俺の言葉に彼女は反応を示さず、幾つかのコードで弦を鳴らし独特の間を作った。
「そういえばさ、泡の行先で歌を作りたいんだよね。だから一緒に歌詞を考えよ。」またギターに言い聞かせるように言う。けれど嬉しい提案だった。
 ノータイトルのデモには最近、破片、というタイトルが付けられていた。破片のリンクから遡って聞いた彼女の曲は一様に美しく、その殆どが男との別れの曲だった。そして、彼女の詩は全て彼女の喪失感や憂鬱にピントが合わせられていて、それ以外の男達やその他事象は魚眼レンズを通した風景のように本来の形を失っていた。故に少女性が強く透明度は高かった。他を疎かにするくらい自身の内面にフォーカスを当てることは、俺には出来ないことを知っていた。羨ましいという感情が何よりそれを裏付けていて、だから俺は執筆を選んでいるのだと妙に腹落ちした。
「実はもう、ちょっとコードも考えてるんだよね。」と言い、穏やかなループを奏でた。言われてみれば波間に漂うような長閑さと郷愁があり、何処か不安な要素をも孕んでいるメロディだった。「私はキスするシーンを最後に持ってきたいと思ってるんだよ。」
「うーん、いいと思うよ。」少し考えながら、間延びした声で答えた。
「返事、適当じゃない?」やはりまた、顔を持ち上げて言った。
「うーん、なんかさ。こう、幕切れの予感を感じながらも駆け引きを進めるある種のシーソー的な会話を、波に揺られる小舟のように描写出来たらそれがいいと思うんよな、ずるいなあ、っていうセリフが俺にはあの物語のクライマックスなんかなあと思えてて。」彼女は少し考えこんだ。
「真剣に言われると言われたで返事できない。」と彼女は少したじろいで、笑いを雑えた自己卑下をするように言った。
「なんかさ、魚に感情移入すんのが得意なんやな。人魚の話に強い思い入れを持ったり、釣られた魚が焼かれてしまう歌を書いたりとさ。」以前、徳島県産ねぶと、318円と書かれたラベルが貼られている、十数匹の鮮魚がぎゅうぎゅうに詰められたトレーの写真が送られてきたことがあった。たった数百円ぽっちでこんなにも詰められて命の重さを考えちゃった、と添えられていた。その時のことも思い出した。
「うわあ、イジるなよー。」と、少し恥ずかしそうに彼女は笑った。
「いや、俺は生まれ変わったら魚になりたいとずっと思ってるから、その気持ちは少し分かるなって。」
「ふーん、でも分かる気がする。群れて泳ぐ魚じゃなくて深海魚がいい。」
「そうだね、たしかに。そういえば最近、ツツジの影響でバンドのサウンドを聞くように戻ってきた。」前を勢いよく泳ぐ彼女の影響を隠せない俺は、生まれ変われば群れを成して生きる魚になるかもしれない、と自嘲気味に思った。直近の履歴に残っている幾つかのアーティストの名前を挙げた。高校時代に聞き親しんだ懐かしい名前たちだった。
「いいことだ。アップルミュージックある?ちょっと待ってて。」そう言ってギターを置き、挙げた好みに合わせた即席のプレイリストを作り始めた。
「そういやさ、こないだアップした2304XXって読んでくれた?」何か不平等な感じがして聞いてしまった。
「読もうと思ってはいるけど、読んでない。家では読もうという気になれないし、電車の中では音楽を聴いてるから。学校でも何かしらしてるしね。」本意のようではあったが、それだけに不平等感を強めてしまい、大人げなくも少し鬱屈した気持ちになった。
「その中でも読んでいるシーンがあるんだけど、過剰なものを必要とする人間は言葉による救済を拒否しているという文言があって。ツツジと話すたびにいつもそれを反射で思い出してしまう。」いつか、私が心穏やかにするときなど音楽に触れている時間以外にはない、と吠えられたことがあった、その時のことも思い出した。「意味のない安い口約束で永遠だとか独立国家だとか言うけど意味がないことを知っていて、結局ツツジは行動しか見ていないし信用していない。」目敏い獣のように。
 それは俺の書いたものを読んでくれないことへのささやかな抵抗の意味も含まれていた。黙っているには少し悲しかったのだ。だからと言ってどうすることも出来ないのだが。
「まあ俺にはツツジのことは分からないけど。」
「ううん、よく知ってるよ。」知ったような口を利くなとムキになりそうなものなのに、と少し意外に思った。「内側のことならよく知ってるよ。でも、外面を知らないんだ。」不可解な言葉に、ん?と返した。
 大学でのツツジのことならどうせ根暗なんやろ、それくらいわかるよ、と首元まで上がってきていた。
「今度ね、岡山の軽音楽生の大会があって、それに出るんだ。人数分の迫力もあるし投票制だからツテの多いバンドとかの方が強いからまず無理だと思うんだけどね。もし、万が一、決勝に上がったら見に来てよ。」もし、万が一、と強調するように言った。
「うん、分かった。もし勝ったら、何かの予定を蹴ってでも行く。約束するよ。」
 その後しばらくして、村上龍映画小説集、在庫切れ、と表示された本屋の在庫検索の液晶の写真と、予選を1位通過して決勝に勝ち上がった報告があった。

 路地にある雑居ビルの4階に位置するライブハウスまで螺旋階段を上っていく。影から飛び出した学生らしき女の子2人組とぶつかりそうになり、ああ、と声を漏らす。女の子たちは首だけで会釈をし、風を起こしながら階下へと降りて行った。肩掛けカバンのベルトを思わず握っており、ひとり苦笑いしてその手を解いた。
 会場の扉を開き、受付に彼女と自分の名前を告げる。チケット料金を支払い、掌大の投票用紙とドリンクチケットを受け取った。くじ引きの結果で出順はトリに決まったよ、場所わかる?、どのくらいに着くの?という少し前の連絡に既読をつけないまま放置していた。というのも、彼女にも友人関係があるだろうし、これからアクトを控えているのに俺からの連絡で気を使わせては申し訳ないなというのと、今日は透明人間でいたいというのがあったからだ。手土産の洋菓子を受付に預けるか少し迷ったが預けないまま、メインフロアへの分厚い扉を開いた。終わった後、少し話す時間が作れたらいいなと思ったからだった。
 既に女性ボーカルの3ピースバンドが曲を演奏していた。暖色のスポットライトに照らされながら、オシャレな歌詞なんて書けない、そんな私を愛して、という訴えをボーカルは続けている。バーカウンターの前ではいくつかのグループが談笑していて、フロアの半分くらいは人で埋まっている。バーカウンターでドリンクチケットをレッドブルに換えて、フロアへ潜る。不思議とその場で浮いたような気分にはならなかった。皆がステージに夢中になっているというよりも、各個人が仲間内にしか関心を寄せていないのが分かったからだ。俺のことを明確に認知したのは受付とバーカンのスタッフのみだ。ステージ左脇のスピーカー前を陣取り、背を壁に預けてバンドのアクトとフロアの様子を見ていた。バイトを飛んだ、アイツと喧嘩した、でも君さえ居れば、というようなことを歌っている。
 歪んだエレキギターの音は破壊衝動を刺激する。音自体の持つパワーなのか、中高生の頃の記憶に結びついたものなのかは分からない。中高生の頃にあった健全な破壊衝動は、強い抑圧の下でいつしか声を上げることもなくなった。若くして人の視線を浴びながらステージに立つことは立派であるという率直な思いに微塵の嫉妬心が混じると、胸中を中心に身の内側を黒いものが染めていく。
 彼らのアクトの持つ主張は完璧だった。不安定な日々を生きる不完全な人間に完璧な主張などある訳がないのに、である。歌声や演奏は本物で彼らの人生だって本物であるが、彼らが提示する価値観は借り物だと俺は思えた。また同時に、俺自身も何かを模倣する存在であると考えた。あまりに彼らのアクトは完璧で、完全に理論武装されたプレゼンを見ているようだった。破壊的なエネルギーを撒き散らしながら何物も壊すことのないアクトに、俺は再び自分を見るような気分になった。俺にしか書けないものを書いていないのならしなくても良い。そう考えるや否や急に死にたくなった。正確には死にたくなったというより、死なない方が良いと思えていた理由が消え失せてしまった。俺は、生々しく血の通った本物の感情と、いつしか植え付けられたであろう虚構の価値観が、それぞれ独立したまま潮流のように観客たちの隙間をすり抜けていくのを見た。最前列の数人が頭の高さで拳を振り上げてリズムを取っている。舞台後方ではパーテーションに腕を預けた前傾姿勢でステージを注視していたり、腕を組んでいたりしている人がいる。フロアにできた2つの潮流の境目をゆっくりと滑るように鯨が地ならしのように低い声を上げながら回遊している。一過性の譫妄のようだった。潮流の作る渦の中心に、胸の前くらいで小さく右拳を振り上げるツツジがいた。彼女の顔を見るのは、マッチングアプリで会ったという男とのツーショット写真が送り付けられて以来だった。彼女から見つからないように少しだけ人陰に身体を隠すようにした。ステージに夢中になっている横顔を見つめている間に、バンドのサウンドが盛り上がりを作り、アクトを終えた。ありがとう、とボーカルが言った。
 ステージは暗転しフロア後方のお立ち台で実行委員がインタビューしている。ステージでは次の演者のための準備が進められている。フロアを回遊する鯨が高い声で歌いだした。筋の入った腹を見せるように身を翻しながら、老人のような疲れた目で虚空を眺めている。怖くなって思わず、目を逸らした。先ほどのバンドボーカルの女の子が次のライブの宣伝をして、投票お願いします、と話を締めた。潮流の中心に目を遣るも既に彼女は居なかった。
 次のバンドが登場したときも鯨は低い声で唸り声をあげ続けていた。フロントマンはモップを被ったような髪型で上下に迷彩のセットアップを着こんでいた。一曲演奏したあと、観衆が見守るなかでゆっくりチューニングを合わせた。静まり返ったフロアに軽く弾かれた弦の小さな音が響き、皆が次の曲を待っている、というような時間を作った。引き込ませる演出を巧みに使うフロントマンにまんまと乗せられてしまい、俺は少し苛立った。その後も熱狂に身を任せるロックンロール原理主義者といったパフォーマンスをした。セイブザクイーンより俺を救ってくれ、ロックンロールの夜明けだ、ロックンロールは最高のダンスミュージックだ、ユノウ?、とMCしている。快楽主義的なフレーズで出来た歌詞に時折、美しい日本語辞典に書いてありそうな言い回しも散りばめられている。フロアは熱狂に当てられて加熱していくが、やはり鯨は依然低く唸り声をあげている。演奏が終わりステージが暗転した。再び鯨が歌いだした。耳鳴りのような声だ。緊張状態にあった観衆達が弛緩し、最前列の密集は疎らに散らばった。思いおもいにスマホを見たり、仲間内で談笑している。
 インタビューしている間、ステージでは忙しなく黒子が蠢いている。俺はスマホでタイムテーブルを確認した。次はツツジだった。暗転しているステージの中央には既にツツジが立っていることが視界の隅で分かった。何気なく顔を上げ一瞥を送ると彼女と目が合った。黒いノースリーブのワンピースから伸びた手を小さく振って見せた笑顔は、暗転しているとはいえステージの上でも映えるくらい美しかった。安心と親しみの込められた笑顔だった。位置を認識されていたことへの驚きと美しさにたじろぎ、思わず下を向いてしまった。いつの間にか沈黙していた鯨が足元をすり抜けていて、その目を意図せず見てしまった。表情はなく虹彩は闇色で深い。動揺に呼吸が荒くなる。ゴム質のようなその身に無数の傷が付いている。鯨は俺を無視してフロアの回遊を続けた。手を伸ばすことさえ出来ない破壊衝動とやらは偽物だ。彼女のステージが始まった。
 水面越しの陽の光のように青い照明を両斜め後方から受け、彼女はシルエットになってボヤっと光っている。表情がよく見えない。少し後ろで、おしゃれ、という女の声が聞こえた。おしゃれではない一面を俺は知っている。ただ、知っているだけ。安心と親しみの笑顔やその他の記憶、鯨の告発が脳裏に張り付いていて、彼女の部屋に置かれたただのぬいぐるみになった気分になった。
 神秘的なステージの中、彼女は振り絞るようにマイクへその小さな声を吹き込んだ。時に悲しみから自分を奮い立たせるように、沸騰してしまいそうなくらいの胸の熱を込めるように、積年の悪態をこの上なくチャーミングに吐くように。それらを表情の見えないなかで歌声で表現した。それらは俺の良く知る曲だった。半同棲していた元カレとの関係の終わりを描いた「鍵」、独立国家を共に建国した男の背中を想って歌われる「天使」。全ての曲は彼女の個人的な体験に起因して作られていて、その内情を俺は知らされていた。それなのに、彼女の歌声はステージのプレイを通して、幽玄さで以って抽象的な響きを得て、俺の中の思い出の1つひとつを拡散させた。拡散した思い出がキラキラした小さな光になって潮流に取り上げられていく様子を見ていた。過熱寸前までかき鳴らされるギターの音色と声色の持つ感情の行方を、フロアの人々は見守っている。固唾を吞んで、というよりは目と耳を奪われている。そして、砕けた心の切っ先をいじらしくも相手の心にも突き立ててやろうという「破片」、これが最後の曲だった。調光により目元だけがチラリと見える。目を瞑っていて、さながら祈りを捧げるような表情だった。歌い終えられたとき俺の持っていた思い出は全て拡散していて、破片は俺の曲ではないことを悟った。
 気付けば胸は空っぽになり、肉体はぬいぐるみに変えられていた。投票券はコチラで回収しています、とフロア後方で実行委員が言うのが聞こえる。鯨は役目を終えたのかもう現れない。いや、俺にはもう見えなくなってしまっただけだった。動けないまま暗転したステージを見つめていると、インタビューが始まった。本当にキュートでした、とインタビュワーが彼女にコメントする。対し、ありがとうございます、と答えている。ぬいぐるみに投票券などないと思うと急に笑いが込み上げてきた。俺はその場を後にすることにした。

 2日後に、泡の行先のサビが出来たことと、ライブの日の日記を読ませて欲しいという連絡があり、電話をかけた。これから美容院のために家を出るところだと寝起きのような枯れた声で返事があった。同率票で3位だったことの報告があり、彼女はまた独立国家の彼と連絡が取れるようになった話をした。俺は相槌を打つのみで何を言いだせばいいか考えていると電話が切れた。手が当たってしまったという釈明のボイスメモを聞き、耐えられなくなって俺は彼女の連絡先を削除した。その後SNSを通して何故ブロックしたのかというメッセージがあり上手く伝える方法が分からず、そうした方がいいと思ったから、と返し、彼女側からも拒絶を受けた。

 この一連を書くにあたり、眠っていた彼女への強い思い入れを叩き起こすようにした。書きながら居眠りしてしまった時は、ついさっきまですぐそこに彼女がいたような錯覚を覚えてしまうくらいだった。
 俺は祈りの本質を嫌う。祈りはやはり何かを成すことはないのに、あまりに美しいからである。もう会えない誰かを強く思い続けることは、祈りに他ならない。彼女の美しさの根底には祈りがある。彼女のことをふと思い出して作品集を覗いたときに、海中から陽の光を望みながら死にゆく鯨の作品が追加されていた。最後に忘れないでねという文言があり、彼女らしい美しい詩だと思った。俺は愚かにもまた、泡の行先の詩と切り離して考えることが出来なかった。俺はこの文章に、彼女に何があっても音楽を続けて欲しいという強い祈りを込めてしまった。ツツジにはツツジの歌を歌い続けて欲しい。
 傷つけて申し訳なかった。死ぬまで会うことが無くても、俺は君のことを忘れることはない。

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