見出し画像

スティル・アライブ!

 10年前のある夏の日、祖父に宛てた手紙を書いて、それを納棺した。内容は覚えていないが、感謝を込めたものだったと思う。物心ついた時から祖父はジェイ、祖母はバービィと呼ばれていた。2人とも純日本人で、本名はエイイチとリョウコである。ちなみに伯母はカクと呼ばれていた。おじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれることに抵抗を感じ、この愛称で呼ばれ始めたと聞いた。手紙の書き出しも多分「親愛なるジェイへ」とかそんな感じだった。手紙を書くというのは自分のにとって、ある種の儀式だった。死後は霊魂のみとなり極楽や地獄へ導かれる、とは当時から到底思えず、その手紙もジェイへ感謝を伝える意図はなかった。当のジェイは生前から「死んだ後に人間は仏になるが、俺は神になる」と意気込んでいた。

 文章を書き始めて1年が経ち、死をテーマにしたものを数多く書いてきた。漁師町の葬式の話、娘に先立たれた魔女の話、愛する人魚の命を捧げた男の話、友人の父の死を語る女の話。自分の死と他人の死には意味の上で、交わることのない大きな隔たりがある。正確には「親しい他人の死」を経験した人物の話を書いてきた。私にとって「親しい他人の死」はジェイのものだけだった。「親しい他人の死」を見つめることは、場合によっては自分の死に向き合う以上の意味を持つことがある。その気付きを書き残しておきたい。
 「他人の死」は職業上の理由で、以前より身近なものになった。病院で、さらに言えばコロナの感染病棟で、働いているせいだろう。
 病院では患者が亡くなることは珍しいことではない。一刻を争う劇症的な経過の末に息を引き取るというイメージを持つかもしれないが、それはごく一部だ。病気が治ることと体力が回復することは別物である。治療による衰弱が原因で新たな病気に罹り、結果亡くなってしまうというケースの方が体感として多い。患者にとって病院は暗く孤独で、否が応でも病気と向き合わされる場所である。それは家族にとっても変わらない。
 初めて受け持ち患者が亡くなった時のことも覚えている。呼吸器疾患の40代の女性だった。幸い、事切れる前に家族は到着した。弟と小学生の娘だった。夫は死別していた。心電図に大きく表示される脈拍の値が一段階ずつ小さくなるたびに、娘は涙ぐみながら大きな声で、お母さん、お母さん、と呼びかけ、体をゆすっていた。私にできることは、廊下でその様子を見守っていることだけだった。見守っているのが心苦しく目を逸らしたくなったとき、他の部屋でナースコールが鳴った。小走りで駆け付けると認知症の患者が、向こうでうるさく叫んでいる人がいるから静かにさせてきて、と言ってきた。平衡感覚を失うような体験だった。異様な空間に来てしまったと思った。心電図モニターが遠くまで聞こえるようなアラームを鳴らし、駆け付けると脈拍は0を表示していた。死亡確認のために当直の医師にコールした。体を揺すっていた弟は赤い目をこちらへ向けて駆け寄り、強くて綺麗で、自慢の姉だったんです、僕が小学校の時に守ってくれたんです、いじめてくる奴らの前に立って守ってくれたんです、と私の手を握って言ってきた。返す言葉は探しても見つからず、伏せてしまいそうな目を上げて頷くことしか出来なかった。私の様子を見てその弟は、言っても、しょうがないですよね、すみません、と言い私の手を放してその場を離れた。今でも目に焼き付いている苦い思い出のひとつだ。
 私の働く感染病棟では、先週だけで7人の患者が亡くなった。なかには100歳近い患者もいたが、身の回りのことは自分で出来る若い患者もいた。ニュースで報じられる死亡者数は、ただの数字ではないという意味は目の前で事が起こって初めて理解できる。病棟は面会客を基本的に断っており、危篤状態になるまで直接面と向かって会うことすら出来ない。隔離中の死亡者はジッパーの付いた透明のビニル袋に入れられて、さらに上から納体袋と呼ばれる持ち手のついた銀の袋を被せられ寝台車に迎えられる。見送った後のことは知らないが、恐らく家族がその皮膚を直接手で触れることは2度とない。

 ジェイの死に直面したときのことは、ある種印象的でよく覚えている。それなりに懐いていたし、最後の数年間は同じ屋根の下で暮らしていた。死因は癌だった。診断がついてから持ったのは数ヶ月間だったが、それは幸いなことだったとも言えるかもしれない。入院してからの様相は、それ以前とはほとんど別人だったからだ。
 ジェイは、昔気質でエネルギーに溢れた部分と知的で穏やかな部分の対照的な要素を持っていた。ロマンスグレーの髪を撫でつけたオールバックで、スーツを好んで着ていた。本棚にハードカバーの難解な思想書を並べ、引き出しには若い頃の友人達の写真とチョコレートのアソートボックスを入れていた。煙草はセブンスターを吸い、黒のディアマンテに乗っていた。私が幼いころは近くの公園まで一緒に散歩し鳩にパンくずをやってくれていた。散歩中には聞き馴染みのない童謡の節で替え歌を作って聞かせてくれた。日曜日と祝日は日本国旗を家の門に立てかける習慣があった。右翼的な活動はしていなかった、と思う。
 ジェイの生まれは戦時中で、いわゆる焼け跡世代に当たる。幼少期に家族を失ってから青年期までを天涯孤独に過ごし、神戸の街の中心に小さな海運会社を興した。その後、バービィと出会い、古くからの友人との三角関係の末に、お前が俺と一緒にならないと言うなら俺は神戸の街から去る、というプロポーズでバービィを射止めた。一説では麻雀仲間から巻き上げたお金で家を建て、さらに3人の子どもを育てた。おおまかに書いてみただけでも波瀾万丈な人生を送っていることが分かる。しかし、ジェイは人生を自慢げに語ることはなかった。事実、これらはバービィや会社仲間などすべて当人以外から聞いたものだった。私にとってはごく自然に、当然のものとしてその場にいる普遍的な祖父だった。そして私もごく自然に普遍的な尊敬の念をジェイに向けていた。今でも当時から一貫してその感情は変わらない。ごく自然な祖父というものが、どれだけ有難いものかを知り、むしろその尊敬は強まっている。
 ある日からジェイの右頬にコブのような塊ができ、それは日に日に大きくなっていった。町医者でただの粉瘤であると診断を受けた後、コブは大きくなるばかりでなく表情や顔貌を変化させた。それからのセカンドオピニオンでコブは頬粘膜癌であると診断された。長年にわたる喫煙が原因だろうとのことだった。その後も右頬のコブは大きくなった。その様相はまるで病の象徴であり、垂れ込める暗雲のような不吉さを孕んでいた。治療内容はまだ子供である私には伏せられた。事の重大さは大人たちの反応で理解できた。どんな治療をするのか、どんなことがこれから待ち受けているのか、と大人たちを問いただして聞くことも出来ただろう。それをしなかったのは、無意識的に目を逸らしたかったからかもしれない。
 入院する少し前、ジェイにディアマンテで駅まで迎えに来てもらったことがあった。心地よい沈黙の間を小さな音量のラジオが流れていた。紳士的な運転をするジェイのディアマンテに乗るのは嫌いではなかった。その日は助手席に乗り込んだ。家まで10分の大きな上り坂で信号待ちをしているとき、突如車がよろけるように後退し後ろの車に衝突した。思わずジェイの方を見た。癌で爛れていない側の顔は虚ろな目をしていたが一瞬で焦りに染まり、ジェイはサイドブレーキを引いた。バックギアでアクセルを踏んだのではなく、ブレーキを踏んでいられなかったのだ。隣にいたのに満身創痍であることにすら、私は気付けなかった。そんな思いで茫然としながら、窓の外で後ろの若いドライバーに平謝りするジェイを眺めた。思えばその時にはすでに治療を始めていたのかもしれない。ほどなくして大きな病院に入院し、転院を何度か繰り返した。何度もお見舞いにも訪れたが、病室が変わるたびに容体は悪化していた。やはり、病状について大人から聞き出そうとはしなかった。好転する様子のないお見舞いは苦痛だった。直視できないほどの痛々しさが苦痛だったのではない。何も出来ずその場にいるだけというのが苦痛であり、病室に滞在する時間は無限にも思えるほど長かった。病室にひとりでいるということの孤独さと痛みを俺は理解しようとしなかった。じりじりと照り付ける太陽を浴び、背にべっとりと汗をかきながら、ある別の日もがん医療センターへ向かった。バービィとカクと一緒だった。明るいアイボリーを基調にした廊下、やたらと清潔に整えられた病室や看護師と対照的に、ジェイ自身やジェイの痕跡だけが既に死臭を纏っていた。部屋に踏み込んだとき、ちょうど看護師が何らかのケアをするためにベッドサイドに立っていた。ジェイは黒い汚れの溜まった爪をたて、肉の付いた看護師の白い腕を掴んで顔を近づけようとしている。ジェイの様子は異様で、目と歯茎を剥いて看護師の腕を睨みつけている。カクが2人の間に手を滑り込ませた。噛むなら私の腕を噛みなさい、カクの方に目を向けた間に看護師が腕を解いて後退する。手を離したのを確認し、カク自身も掴まれる前に手を引いた。その様子を見ながら俺は呆然と立ち尽くしていた。ジェイは孤立していた。身を包むはずのベッドシーツや枕さえその死の臭いを弾いていた。自慢のロマンスグレーの髪も、落ちた皮膚片も、何らかの体液でできた黄ばんだシミも潔白のシーツの上で異物であった。細い腕で格子状のベッド柵を揺らして音を鳴らした。発せられる唸りと吠声の先に立ち、カクはそれを受け止めようとしたが、目の焦点はカクには合っていない。ジェイの感情には行き場は無かった。ジェイが何を思っているのか、何を感じているのかを俺は考えなかった。早くここから帰りたいということだけをずっと考えていた。それからほどなくしてジェイは亡くなった。その夏の暮れだった。

 通夜の日、何度も小窓を開け顔を覗いた。薄く化粧の施された顔はうって変わって穏やかな表情を浮かべていた。理知の影も蘇って見えた。これで見納めか、と思った。寂しくは思えど、何故か悲しみは湧いてこなかった。大きな通りで羽根を折ったカラスのように踠いていた病室での一幕を思い出した。今日は悲しむべきときであり、悲しむべきときに悲しまないことは一生の後悔になると思った。その夜、納棺するための手紙を書いた。バービィの戸棚から借りた装飾のない便箋だった。最後の文章を書き終え、封筒に手紙を入れて封をした。儀式は終えたが、ついに涙が流れることはなかった。
 葬式の喪主を務めたのは父親だった。仕事もようやく引退してこれからゆっくり休もうと言っていたその矢先で、と挨拶を切り出してすぐ、顔をくしゃくしゃにして涙を流した。張り詰めた糸が切れたように思えた。私の父親は皮肉が多く、あまり物事を真正面から捉えることのない冷笑的な人物であると思っていただけに印象的だった。

 最近の出来事に戻る。コロナ病棟に肺気腫といわれる呼吸器性の慢性疾患を持病に持った患者が入院した。80歳代の男性だった。痩せて筋張った体つきをしており、目は窪み口唇も乾燥している。酸素カニューレからは空気の流れる音がしている。肺気腫患者の典型的な姿だった。救急隊が持参したファイルは厚く、一目で入院歴が多いと判るくらいの診療情報提供書の束が入っていた。病室に入っても横になろうとせず、首だけで下を向き肩で呼吸している。何かを訴えているものの、呼吸が荒く聞き取れない。身の置き所のない苦痛に苛まれていることは分かった。呼吸苦は心細さを加速させるようで、30分に1回はナースコールを鳴らした。ナースコールのたびにベッドの上で胡坐をかいていた。呼吸を整えるために上体を起こすというのも肺気腫患者としてよくある行動だった。彼は呼吸苦の中で孤独と闘っていたのだ。
「市営住宅やから」
「ここでは甘えられる」
「眠り薬」
「キチガイになってしまいそうや」
「キチガイはなったら治らん」
 肩を上下させハアハアと息をする合間に発せられる言葉は断片的にしか聞き取れなかった。多分知ってると思いますけど、と言い、口をすぼめるようにと呼吸を整えさせた。息切れを改善させるための呼吸法の一種だった。
「もう5年以上やからな」
 ゆっくりと少しずつ息切れは収まっていった。
「ああ、あかん、キチガイにもうなってもうたかもしらん」
 彼は節くれだった親指を鼻に向けて言った。そんなことないです、大丈夫、と声をかけて背中をさすった。きっと彼は各地の病棟で色んな状態の患者を見てきて、明日は我が身だと怯えてきたのだろう。そう考え、反射的にジェイのことを思い出した。胸が熱くなった。涙こそ流さなかったが、背をさする手に力が入った。看護師に噛み付こうとした行動、あれは今ではせん妄と呼ばれる一時的な意識混濁であったと理解できる。いままでにも数多くのせん妄患者を見てきた。病院の天井は石膏ボードで出来ている。その黒いまだら模様をせん妄患者は蠢く虫がいるように幻視し、衣擦れは噂話に幻聴する。ジェイが何を感じ何を思ったのかは分からない。しかし、最後まで自分を殺そうとする何かに牙を剥いたのではないかと思った。天涯孤独で育ち、自分を殺そうとする何かを跳ねのけたように、また人生を切り開いてきたように。
 数日後、肺気腫の彼は急性期を脱した。私が点滴を繋ぎ変えるとき、点滴に毒入れたらあかんで、と冗談を言えるまでに回復した。彼もまた闘い、自身の自然治癒力を信じることが出来たのだろう。

 思うに生きることとは、自分を何者にも明け渡さないことだ。例えば、身体を地べたに張り付ける怠惰の重力を打ち破ること、痛みに耐える人から目を背けないこと、これは私の話だ。自身の可能性を信じ抜くこと。死んだように過ごした休日の夜にもペンを手に取り記録を書くこと。踏み躙られるような思いを抱える日々にも意味を見出すこと。希望の詩に自分を重ねること。潔白の病室で矜持を保つこと。自分を殺す何者かに垢の溜まった爪を突き立てること。今を生きるものにはそれが出来る、そう信じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?