檸檬と槌

 ソナチネを見て眠った翌日、高熱を出した。舞台である夏の沖縄からは程遠い年の瀬の裏日本、隙間風でガタガタと障子戸が鳴る寝室でのことだった。空調を切れば、室内にも関わらず息は白くなった。確かに人を揺さぶる映像ではあったが、環境のことを鑑みるとその衝撃によって免疫に不調を来したと言ってしまうのは、平熱を取り戻した今となっては少しばかり夢想的かと思う。しかし、熱にうなされているときは往々にして思考は飛躍してしまうようで、例に漏れずこの日の思考も飛躍していた。体温調節中枢にはたらきかけた因子と、記憶にざわめきを残す熱持つ刺激を混同して考えていたのだ。鬱熱に浮かされ超自然的な事物に責任や因果を求めてしまうことは示唆的であるように思える。その記録を残したい。

 明るい緑のポール看板をもたげた首で見つめながら、受診のために長い坂を登っている。皮膚から上気する湿気った熱を、トレーナーの上に着込んだジャケットが閉じ込め、首筋を無機質な冷気が撫でてくる。そのどちらの温度刺激も不快だった。何故、病人が来ると分かっていながらこんな坂の上に立てたんだと、悪態を吐く。わざわざ排気ガスを吸うためにか、街路樹の枝葉が歩道を跨いで車道の方へ枝垂れている。枝葉直下の路面に形の残った犬の糞が落ちている。その枝葉を潜ろうとすると、蜘蛛の糸の1本が額に触れた。頭を振って振り解き、 見えない糸を指で摘んで取り除こうとした。全身の皮膚と極薄い平滑筋層に、ピリピリと寒気が走るのを感じた。身体を捩らせたからか、襟元から汗の据えた匂いが立ち上ってきたのが分かる。軽く舌打ちを打ったが、傍を通った自動車の一群がその音を掻き消した。

 ソナチネは南国の映画であるのに、暑さのようなものを感じなかった。褐色の男女を照らす自然光が、寒色から彩度を奪った白色に調えられていたからかもしれない。思い出の中の誰かの顔は、そういうふうに作られた白色の光で整理されている。ソナチネを見ている時、どこか郷愁をくすぐられる思いになったのも、そのせいかもしれないと思った。
 一方で、現実の光景は赤色と黄色で出来ている、とも思った。丁度、過剰な熱にのぼせ上がる蒸気も、解熱剤で掻いた多量の汗も、煮詰めれば茶色く濁るだろう。寝たきりの人間の気道に溜まった痰は砂のようなザラついた匂いで、淡い黄色を呈する。こちらで仕事を始めて知ったことのひとつだ。恐らく、人が思い浮かべる幽霊の顔が血色を失った真っ白なのは過去のものだからであろうし、燃えるような朝焼けに人が足を止めてしまうのはどの思い出のものよりも綺麗だからだろう。

 真っ白なマスクをした中年の看護師は、私をクリニックの軒先に座らせて消え、必要だからと水色のビニルの装備を整えてから細い綿棒を透明の外装から取り出し、鼻腔奥の粘膜を擦った。コロナとインフルエンザの検査だった。汚れた綿棒を小さなスピッツに詰めて蓋をして、もうしばらく待つように言った。もう既に15分以上も待っているのに、である。カサカサというビニルの衣擦れの音が耳にやたら残っている。自動ドアを隔てた向こう側、非感知式の検温機が目を光らせているその奥で、事務方の職員が談笑している。熱発者は午前の診察を終えた時間に来院するようになっている。もし感染者であった場合にも、他の来院者に伝染してしまわないための方策だ。今日の午前診も忙しかったねとか、午後は誰々さんの予約が入ってるよとか、きっとそんな話をしているんだろう。短く太い息を吐いて顔を上げると、軒先に土で固めたような鳥の巣があった。どうやら住人はおらず、どこかへ発った鳥の古巣のようだった。
 受診を終えて、薬局で処方箋を提出する。やはりここでも、かなりの時間を待つことに費やすことになった。

 ソナチネに想起された郷愁。照明効果だけでは説明できない引っ掛かり、色彩や音響効果、その他演出以外にも何か、もっと核心めいた何かがあるはずで、そのことについて考えていた。
 南国で友人達や女と戯れたという思い出はない。ましてや、暴力を近くに置いて生活したこともない。ありもしなかった青春を幻視するような惨めな感情に苛まれているわけでもない。そもそも俺の感性では、この劇中人物の言動にあまり人間味を感じることもない。あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ、という台詞がある。この映画の中でも印象的な台詞回しの1つだ。薄笑いを浮かべたまま冗談っぽく発されるが、どんな調光よりも青白く光る台詞だと思う。常人的感覚ではない。しかし、植え付いた郷愁のキーを握っている、その確信があった。断っておくが、私は本気で死のうとしたこと1度もない。身近に感じるほど大真面目に、自身の死について考えたこともない。知る限りでは自死を選んだ友人もいない。自分ごとのように思うことがあるとすれば、死に場所を求め彷徨い歩いているという本質に関わる空虚さだけだ。言うまでもないかもしれないが、その感覚は郷愁と決して結びつくものなどではない。一度取り憑かれてしまえば、死に場所を見つけるまで、ずっと付きまとう感覚だからだ。
 話は更に1歩脱線する。ソナチネについて画の美しさのあまり、見方を間違うと暴力すら美しく思わせてしまうような映画だと、崇高なものを語るかのような口振りで誰かが評価していた。俺には、暴力も美しく撮っている映画だと見ていて純粋にそう思えた。俺は暴力というものをよく知らない。友人の同僚の女が酔った拍子にその場にへたり込み、見えない何かを見て怯え出したことがあった。上から差し伸べられた友人の手に全身を萎縮させて震え、涙交じりに謝り出した。それが俺の目で見た唯一の暴力の痕跡だった。メディアを通した世界では戦争が続いているというのに、俺の周りでは暴力は何かの比喩にまるで成り下がってしまったみたいだ。暴力というものに触れずに生きてきたから、美しく撮っているように見えたのだろうか。俺の周りでは代わりに、暴力という言葉を盾に卑怯が跋扈している。思うに悪は、卑怯と愚かに大別される。そして卑怯は、みすぼらしい体つきをした小鬼のような形をしているのだろう。小鬼たちも、比喩としての使い方しか、暴力について知らずに生きてきたのかもしれない。創作物に触れて美徳を見出し崇高であるかのように振れ回ることは卑怯なことだと思う。自身の美徳の正当性を作品に担保している行為にどうしても見えるからだ。作り手が自身の善性や大義について受け取り手に同意を求めるようなものは論外だが、逆に露悪的に自身を描き同情を誘うものも同様だ。俺も暴力について知ろうとせず生きてきたという点において、卑怯と愚かの両方に当てはまるだろうが。

 締め付けられるような頭痛に耐えているとき、名前を呼ばれて我に返った。過剰に辛そうに肩で息をしながらカウンターに座る。若い薬剤師はその様相を見て、薬の説明を短く切り上げた。入口横にある給水機で一回量の解熱剤を飲んで、上司に受診結果の連絡を入れる。一旦安堵の溜息を吐いた。クリニック前の駐車場には既に数台の車が止まっていて、慌ただしい午後診がもう既に始まっているようだった。
 自販機でオレンジジュースを買い、大きく腕を広げた街路樹と犬糞を見つめながら坂を下る。日は少し傾いていて依然風は冷たいが、あと少しで横になれると思うと耐えられた。枝垂れた枝葉、それを避けようとしたとき、平衡感覚を失うような立ち眩みに遭い少しだけよろめいた。

 褪せた黒のTシャツを着た父親の後ろ姿を思い出した。今よりずっと髪の量が多い。公園のベンチに腰掛けて、木の枝でダンロップのスニーカーのソールを削っている。彼を照らす光の色は分からない。輪郭もボヤけているが、着古したシャツのバックプリントにはヒビが入っているのは鮮明に思い出せる。見えてなかったん?と聞く俺に、見えてたし踏んだらあかんなと思っててん、と父は答えた。犬の糞はな、あんまり踏んだらあかんなと思うと、吸い寄せられてまうねんなあ。あわや数センチのところを踏み抜いた自分の右足を見た。少しだけ固まって口角を上げ、前を向くと、対向車線を走るファミリー車、その助手席の子供と目が合った。

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