「QuizKnockは社会問題への無関心に加担している」という論理が挑戦している不可能について
序論
2024年8月28日。下記の記事が投稿された。
WebメディアでありYoutuberのQuizKnockへの批判的な記事である。
曰く、社会問題に積極的に触れようとしないQuizKnockはけしからんとのこと(ものすごく乱暴に要約すれば、だけど)。東大のブランドを背負い、社会へのコミットを期待される立場なのだから、もっと政治的な問題を取り上げて欲しいとのことである。
一見、政治色を持たないように見えるQuizKnock。彼らはクリーンに活動している。炎上とはおおよそ無縁である。だから例えば、環境省のような行政機関から仕事のオファーもくる。
しかしそれは、既存体制への迎合、あるいは無意識的な肯定を意味する。政治的に中立とは言えない。QuizKnockは、政治色を持っているのである。しかも、目の前の社会問題から目を背けさせるような力学を持つ、そういう政治色を。
それをQuizKnockの「クリーンさ」として、前掲記事の言葉を借りれば「安心安全」として持ち上げるのは、不健全なのではないか。
おおむね、こういう論旨だと思う。(間違っていたら教えてくださいね)
本記事では、前掲記事を読み進める中で私が覚えた違和感を、つらつらと書き連ねていくものである。
お断り
さて、記事の冒頭に「お断り」として言い訳がましい留意事項を並べていくことが、読者の興味を著しく削ぐ行為であることを僕は熟知している。でもやっぱり、ある程度の誠実さを示そうとするならば、こういう「お断り」は避けられないと思う。
(裏を返せば、別にこの項は読み飛ばしても論旨には関係ない)
まず僕は、もうあまりQuizKnockのコンテンツを見ていない。
だから、僕が今さらQuizKnockについて何か語れることがあるんだろうか、なんて疑念が拭えない。一言でいえば、自分におこがましさを感じて
いる。(もしかしたら、全然根拠のないテキトーなことを言うかも)
でも、昔はとても好きで、『東大主』とか『バカ田大学』とかを筆頭によく見てた。
(昔は、たまに出演する水上くんを楽しみにしてた)
また、Web記事もそこそこ読んでて、特に「#素朴な疑問」タグの付く記事が好きだった。(最近はあまり投稿されていないけど。方針展開とかあったのかな。また読みたい)
まとめると僕は、QuizKnockを知らないわけでもないけど、特段詳しいわけでもない人間である。だからテキトーなことを言う可能性もあると思う。その時は、可能であればガンガン指摘、批判をしてほしい。
読者諸兄の、忌憚のないご指摘を待つ、というやつである。
(Ⅰ) 都知事選について
(i)伊沢くんのコメント
まず前掲記事は、都知事選を巡る伊沢くんのコメントへの違和感から始まる。
そのコメントというのが、下記のツイートである。(後で全文を引用するから見に行かなくてもいいよ)
これは、伊沢くんが出演した『情報7days』の回への補足である。
(★ところで、彼が「文脈というものがありますから、要らぬ誤解を生むより無視される方が余程嬉しい」と言うので、元番組を見るためにTBSに登録したのだけど、見ることはできなかった。
酷くないですか。こんなにそれらしい名前のWebサイトなのに!
お金は払うので、過去の番組を見せて貰うことはできないのかな。。。★)
そんな事情はあったけれど、いくつかのWeb記事を読むことはできる。そしてそういう記事から、当時の情景を再構成してみても無理はないだろう。
これらの記事を読む限り、伊沢くんの言いたいことは次のようにまとめられると思う。
(合ってますか?)
(ii)伊沢くんコメントへの批判
前掲記事は、上のツイートを部分的に引用し、次のような解釈を試みている。(太字は僕ね)
この上で、「それならば伊沢さんが自身の持つ影響力を利用し、有意義な選挙報道をすることもできたじゃないか。例えば中田敦彦だって都知事選を取り上げて、人々の興味をかき立てることに成功しているのに」と言うのである。(これは僕の要約ね)
そして主張は、最終的に次の結論へ向かう。
「伊沢さんは具体的なことを話さないテレビを批判しているけど、QuizKnockだって都知事選について具体的なことを何も語っていないのだから、それはテレビと同じじゃないか」
(さんざん断るけど、これは僕の要約だよ)
(iii)その解釈、本当に妥当なのかな
けど僕としては、まず前掲記事による伊沢くんコメントへの解釈に疑問がある。ここに、伊沢くんのツイートを全文引用してみよう。(太字は僕だよ)
僕としては、上記のコメントは次のように分解されると思う。
上のようにすれば分かりやすいと思うのだけど、ここで伊沢くんのが言っているのは、大まかに次の二点である。
①「メディアの圧力とか特にないですよ」(分量的に見ても、これが主眼だよね)
②「個人の意見としては、バイネームで語った方が分かりやすいと思っていますよ」
だから伊沢くんは、別に「メディアが特定の候補者に偏ること、または偏っていると見られて批判されるリスクを避けすぎる」と「選挙報道としての存在意義自体が薄れてしまう」なんて一言も言っていないし、そういう趣旨の発言すらしていないのである。
伊沢くんが言っているのは、「バイネームの方が分かりやすそう」ということであり、そちらの方が「選挙報道として優れている」ということではない。彼は最初から、「仕事」と「個人の意見」を分けているのだから。
にもかかわらず、伊沢くんの発言を根拠なく曲解し賞賛したうえで、(QuizKnockを利用する形で)「仕事」に「個人の意見」を反映させられたのに等と言うのは、まったく的外れであろう。
(言葉を選ばずに言えば、誤読だとすら思う)
(iv)その仕事観、本当に妥当なのかな
前掲記事は言う。
「メディアの在り方として理想的」なんて(旨のことを)伊沢くんは言っているだろうか。あくまで彼は、「バイネームで話した方が分かりやすそうに思える」としか言っていない。
そしてそんな「個人の意見」と「仕事」とは明確に切り分けられている。
一般サラリーマンの僕としては、「個人の意見」と「仕事」を切り分けるなんて当然の前提にすら思える。CEOである伊沢くんがどういう思想を持っていても、彼には育てるべき事業があり進めるべき仕事がある。守るべき社員がいて仲良くするべきお客さんがいる。考えただけで大変そう!
今までのQuizKnockのイメージに鑑みて、政治的なコンテンツなんか出したらどれだけ影響があるか計り知れない(影響範囲を計測するための検証環境と本番環境の区別すらないだろうに)。
とにかく、どんな個人の意見を持っていたとしても、「それを仕事に反映できたはず」なんて僕には全く思われない。
(都知事選の候補者を選挙中に呼ぶのだって大変そうだよね。スケジュール調整とか契約書作成とか場所確保とか認識合わせとか誰がするんだろう。考えただけで憂鬱になってきた。。。)
伊沢くん個人が、どんなメディアの在り方を理想的だと考えていも、「ならQuizKnockでやろう」とはならないのである。論理も飛躍しているし、承認の段階もすっ飛ばしている。
と思うので、例えば次のような記述は、僕には大変無責任に思われる。
何を根拠にして言っているのだろう。ただの推測じゃないのかな。責任は誰がとるのかな。もし上手くいかなかった場合は、どうするのかな。上長は説得できるのかな。新しいことをすることが、どれだけ大変で時間がかかることか、本当に理解しているのかな。
(★ところで最近僕さ、承認を得ていない作業を本番環境で実施しちゃって、なかなかヤバい状況なのである。みんなは気を付けてね。めっちゃ詰められるよ!★)
(v)その望み、本当に妥当なのかな
そもそも前掲記事の、QuizKnockへの要求の仕方にも僕は文句がある。
彼は明確にこう述べている。
――私は誰かの代弁者ではない。
伊沢くんはメディアの代弁者でもなければ、もちろん僕の代弁者でもない。
そして当然、前掲記事の執筆者の代弁者でもないのである。彼には彼の考えがあり、やりたいことがあり、やるべきだと考えていることがあるのだ。
それなのに、「あらゆる政治・社会問題について触れない方が「正しい」「安全」とされる今の社会の空気感を、QuizKnock に打ち壊してほしい」と望むなんて、理屈が全くおかしいじゃないか。
正確に言えば、何を望もうがその人の勝手である。その点、僕は文句をつけるつもりはない。
しかし、「私はあなたとは違う」をあらかじめ断られているにもかかわらず、その言葉を引用しながら最終的に、「私はあなたに、あなたではなくなることを望んでいます」と論理が進んでいくのは全く不自然であろう。
自動車運転免許の試験くらい理屈が通っていないよ!
(僕は運転免許持ってないし、試験を受けたこともないけど)
補記:他者に自分の望みを叶えてもらおうとするタイプの言説について
ところで本件のような、「他者に自分の望みを叶えてもらおうとするタイプの言説」は定期的に現れる。(実は昔にも取り上げたことがある)
こういう類型の言説を読むたび、僕はいつも不思議に思う。なんでそんな要求に、公益性や合理性があると思われるのだろう。
その行為がどれだけの暴力性を含んでいるのか、理解されているのかな。自分と他者とは、あるいは自分と社会とは別の主体であるという事実の重みは、本当に知られているのだろうか。
補記:都知事選について
あと東京都民ではない僕としては、都知事選が、公益性があり取り上げられるべきテーマだという実感もないというのが正直なところである。
(このあたりの感覚は、人によって全然違うだろうけど)
だから、都知事選を自メディアで取り上げなかった事実を、「社会問題への無関心に加担している」という主張の根拠にできるのか、僕にはよく分からない。
この根拠とこの結論とは、どんな論理によって接続されているのだろう。前掲記事を読む限りでは、僕はよく理解できなかった。
(Ⅱ)問題に向き合わない「安心」について
(i)批判記事の問題意識
前掲記事は、QuizKnockのロシア-ウクライナ問題の扱い方を批判している。
曰く、4年前には軽く触れていたのに、問題が深刻化したら触れなくなったのはおかしいじゃないか、とのことである。(何度も断るけど、僕の要約だよ)
そして、本当なら問題が顕在化してから触れるべきだろう。学びを標榜するメディアならば、と言う訳である。
このロシア-ウクライナ問題は、話の具体例として取り上げられているに過ぎない。前掲記事はこの例を始めとして、「政治的な話題に触れないこと=中立的なこと」であるかのような認識を問題視している。
(たぶん、この問題意識が主題なのかなと僕は読んでいる限り思う)
例えば。大阪万博は政治的なイシューだった。その万博に、QuizKnockはサポーターとして参加している。であるなら、本当はQuizKnockには政治的な色がついているはずだ。なのに、さも政治的に無色透明であるかのように認識されている。
すなわち無意識に、水面下で、QuizKnockは既存の秩序や体制を肯定しているのである。少なくとも、ポジティブなイメージを付与することに貢献している。換言すれば、政治的に偏っているのである。なのに、QuizKnockは中立であるかのように思われている。おかしい、というわけだ。
(ii)「知」ってそういうものなのかな
前掲記事はこう述べる。
言うまでもないけれど、学びや知というのは、必ずしも政治的なものだけではないよね。身近な疑問の答えだって知だし、現代で起きていない問題についての知だって山ほどある。
なのに、戦争を取り上げないなら、そこに「学びも知も」無いなんて言いきれるのかな。(これはちょっと意地悪な読み方だけど)
(意地悪なことを言ったので)別の言葉で言いなおそう。QuizKnockは、「戦争」に関する正確な情報を、「学び」や「知」として発信することを社会的に期待されているメディアなのかな。そう考えるならば、その根拠は何だろう。僕が知る限り、QuizKnockはそういうメディアではないと思うのだけれど。
しかし前掲記事によれば、QuizKnockはそういう使命を持つメディアとして、当初設立されたらしい。記事をよく読んでみよう。
こんなの詭弁だよね。これが論理として通るならば、例えば次の論理だって通るはずだ。
「君は人の命を助けたくて医者になったと聞いた。そして今最も危機にさらわれているのは、ウクライナの市民だ。当初の意識がまだあるならば、ウクライナ市民の命を助けることを試みるべきなのではないか」
ウクライナ以外にだって、助けを求めている命はたくさんあるのである。
いま最も危険な問題だけが問題だというわけでは、ないのである。
(iii)政治的な偏りって、そういうものなのかな
前掲記事は「政治的中立」という言葉について、次のように述べる。
上記は、リニアモーターカーのPRをQuizKnockが引き受けた件を受けての主張である。リニアモーターカーの是非は政治的な問題だよね、そのPRをすることは政治的に偏っているよね、というわけだ。
しかしQuizKnock自身は、決してリニアモーターカーを巡る政治的な議論に首を突っ込んではいない。ただ、そのPRをしているに過ぎないのである。つまり、「QuizKnockが(政治的な)意味を持たせた」のではないのである。
QuizKnockのコンテンツに政治的な意味を持たせたのは、むしろ社会であり政治であり、もっと言えばあなたたちである。意味は、後から与えられたものに過ぎない。
確かにQuizKnockによるPRは、「政治的に中立」とは言えないかもしれない。しかしどうしてそう言えないのかと言えば、(言ってしまえば)たかがPR動画に政治的な意義を見出す人がいるからである。
自分たちで(最初は政治的な意味などなかったものに対し)政治的な意味を持たせておいて、「これには政治的な意味がある」などと言うのは全く理に反する。
「QuizKnockは政治的に中立ではない」という命題は、その立て方から間違えている。
正確には、「QuizKnockは政治的に中立だが、そこに政治的な意味を(勝手に)持たせる人々や環境があり、それにより結果として政治的な意味が与えられてしまう」と言うべきである。
しかし前掲記事はこの、意味の事後付与性を全く無視し、次のように述べる。
何度も繰り返すが、QuizKnockは賛成も反対も表明していない。静岡県の案件であったとしても、「大井川の生物多様性をPRする動画」とかだったら、QuizKnockが作成する可能性は十分考えられると思う。(少なくとも、僕には不自然だと思われない)
それはひょっとしたら、リニアモーターカー建設に賛成する人には、「静岡県の案件で、リニアモーターカーの建設を防ぐことの意義を"PR"する動画」と映るかもしれない。しかしその意義は、あなた方が事後的に付与したのである。QuizKnockが"PR"したのではない。
「賛成は政治的主張だが、反対はそうではない」と言われたら、確かに矛盾にも思えるかもしれない。しかし、次のように言ってみたらどうだろう。
「PRのようなもっぱら経済的な事象は、政治的な動機によっては解釈されえない。しかしそのPRの内容によっては、後から政治的な意味が付与されることはあり得る。結果として、政治的な主張ではないものが、ある特定の政治的テーマについて賛成しているように見えることがあるし、その逆も同様である」
僕にはこういう表現の方が、はるかに現実をよく描写していると思う。
(iv)現状の追認って、そういうものなのかな
だから、前掲記事の次のような主張にも、僕は首肯できない。
要するに、「Xに反対しないこと」は結果として、「Xに賛成していること」と同じになってしまうという論理だよね。そういう側面が、全くないとは僕も思わない。
だけど、QuizKnock(に関わらず、一般にメディアやら人やらが)すべての社会問題について、何等かの意見を持っているわけではない。
QuizKnockが都知事選について取り上げたとしよう。では、神奈川県知事選については? それを取り上げなかったとしたら、QuizKnockは現県知事の再当選を追認しているのだろうか。QuizKnockが戦争問題について取り上げたとしよう。では、格差問題は? それを取り上げなかったとしたら、QuizKnockは格差の維持を追認しているのだろうか。
あなたが環境問題について、このままではまずいと思い立ち、現状を変えようと毎日必死に努力して、この問題に生涯を賭けると誓ったとしよう。その時、あなたの隣人がこう言うのだ。
「お前は人種問題に関心がなく、現状を追認しており、レイシストと変わらないぞ!」
なぜ、「中立であること」と「現状(多数派・既存権力)の追認」であることが、両立不可能であるかのように言われているのだろう。
「中立であるがゆえに、結果として現状の追認になることがある」という表現がより正確であろう。
しかも、「現状」が常に多数派・既存権力というわけでもない。
(比喩的な意味で)革命的な機運が高まっている際には、「中立であること」は既存権力の追認を全く意味しないのである。むしろ、その逆をすら意味する。
だからこそ、社会の状況によって、どうとでも事後的に解釈されうるという意味で、QuizKnockは「フラット」なのであり、だからこそ「安心」なのである。
政治的中立は存在する。しかし同時に、それを政治的に偏って認識する人たちも大量に存在するというだけである。
補記:その議論、本当に妥当なのかな
ところで、前掲記事を読んでいる特定の認識が随所に染み出ていることに気づく。
「賛成」「反対」「是非」「ポジティブ」「推進派」「反対派」「賛否」。
これらの言葉はどれも、ある議題に対して賛成と反対に分かれるような、いわばディベート的な議論の仕方である。「この政策に私は賛成」「僕は反対」みたいな。
しかし、当然ながら議論とは本来そういうものではない。(僕が改めて言うまでもないけど)
大事なのは、「その結論がいかなる論理と根拠によって導かれているか」「それに対し、いかなる論理と根拠によって意見を持つか」の方である。
結論など、副次的なものに過ぎない。議論の主人公は、その結論が導出されるまでの過程であり、すなわち推論の妥当性と健全性である。
だから、そもそも「既存秩序の案件をポジティブに受注するQuizKnockは体制迎合的であり、従って政治的に中立なのではない」という主張は、最初から間違っている気がする。論理の道を、一歩目から踏み外していると思う。
知が注目するのは、「政治的に偏っているか・中立であるか」ではない。いかなる思想信条を持つかは(極端に言えば)どうでもよい。
その思想に到達するまでの論理こそ重要である。その水準からみると、前掲記事は知的ポリシーに違反している。
知的な人は、自分への鮮やかな反対意見を、むしろ心地よく受け入れるだろう。
(Ⅲ)東大の値上げについて
(i)前掲記事の問題意識
言うまでもないが、東大の授業料が値上げされるかもしれない件について、最近ちょっと盛り上がっている。前掲記事によれば、QuizKnockはこの件について「学生に寄り添う公式声明を出しても良かった」らしい。
というのは、QuizKnockは大部分が東大出身のメンバーによって成り立っており、しかも東大のブランドを最大限活用してきた。そのブランドを活用できたのは、東大卒の優秀な先輩のおかげである。つまり簡潔に言って、QuizKnockは東大に縁があるのだ。
だから東大が「間違った方向に進」んでいるなら、東大ブランドにも泥がつき、結果としてQuizKnockにも不利益があるはず、とのことである。
しかも東大の学費値上げには、QuizKnockが間接的に寄与しているらしい。どういうことだろうか。
前掲記事は、下記記事の河野氏の発言を引用しながら次のように述べる。
要するに、東大出身の有名人が直接的に日本に貢献するようなイメージがなくなった。そのイメージの変化には、QuizKnockの活動が関係している、というわけである。
(ii)発言の引用の仕方は、本当に妥当なのかな
まず僕がよく理解できないのは、河野氏の発言はあくまで氏の意見であって、何ら事実を指し示す保証はないのに、さもそれを事実として推論の前提に組み込んでいる部分である。
改めて河野氏の発言を引用してみよう。(太字は僕だよ)
「共有されていたように思います」「反転させかねない」という表現は、あくまでもこれが河野氏の意見であり、事実である保証はないことを明確に指示している。
(断定口調を避けるのは研究者の癖みたいな部分もなくはないが)
一記事での発言を、さも事実であるかのように引用され、それを前提に推論を組み立てられるのは……どうなんだろう。ご本人に聞いてみなくちゃ分からないな。少なくとも、議論の組み立て方としては適切じゃないと思う。
例えは僕は、QuizKnockが東大への風当たりを強くしているとは全く思われない。僕も一納税者な訳だけど、質の良い教育的な(しかも面白い)コンテンツを高い頻度で提供してくれる人材を育ててくれるなら、東大にもっと税金が使われてくれればいいのに、と……思わなくもない。
(正直なところ、税金が使われてほしいともあまり思わない。サラリーマンは常に金欠なのだ!)
(iii)QuizKnockの立場認識は、本当に妥当なのかな
さらに言えば、前掲記事(批判記事の方ね)のQuizKnockへの認識も、何を根拠しているのかよく分からない。
どうしてQuizKnockが、学費値上げ反対の立場であることが自明視されているのだろう。伊沢くんは、「どちらの立場もわかる」という中立的な発言をしていると、批判者自身が述べているのに!
仮に、仮にだよ。QuizKnockがこの問題について、学生側に寄り添う立場を取るべきだという主張が通るとしよう。
だとしても、なぜそれを「反対運動に連帯する」形で実施することを要求できるのか、全く理解できない。生活費を援助するとか、働く場所を提供するとか、東大生のパブリックイメージを良くするとか、そういう形で学生側に寄り添うことだって可能なのに。
(iv)現状認識は、本当に妥当なのかな
前掲記事は東大の学費値上げについて、上のように述べている。
「入学者の質的な偏りが生まれる」のはともかくとして、「東大が間違った方向に進ん」でいるとなぜ分かるのだろう。「間違っているか否か」を、現在議論中なのではないのかな。
それだけではない。批判記事を読んでいると、さも「現状=権威=悪」「改革=善」であるかのような議論が、当然のごとく出てくる。
社会を変革することは、健全なのかな。なぜそう言えるのだろう。既存の社会機構の取り込まれて一体化しているとして、なぜそれが健全な批判精神の消失に繋がるのだろうか。
東大の学費値上げに反対することが、どうして社会を良くすることなのだろう。一体全体、なぜそう言えるのだろう。本当にそうなのかな。
特定のイデオロギーが前提に挿入されていないかな。自分から色眼鏡をかけていないかな。偏りを正当化していないかな。
(v)議論の仕方は、本当に妥当なのかな
まだ結論が出ていない議論において、自分の立場を当然の結論であるかのように偽り、それを別の議論の前提に組み込むなど、当然許されない。
許されないどころか、不可能ですらある。そして僕には、批判記事はこの不可能に挑戦しているようにしか思われない。
(IV)「QuizKnockは社会問題への無関心に加担している」という論理が挑戦している不可能について
(i)特定の立場に偏らないことは可能である
特定の立場に偏らないことは可能である。
QuizKnockは偏っていない。そこに偏りを、事後的に見出す人たちがいるだけである。
そこで見出された偏りは、QuizKnockの偏りではない。その観察者の持つ偏りが、その者のQuizKnock像へ反映されたに過ぎない。
本記事冒頭の、伊沢くんのコメントと、それへの批判を思い出してほしい。伊沢くんは「バイネームの方が分かりやすい」としか述べていない。にも関わらずそれは、「有意義な選挙報道の在り方への見解」として、勝手に解釈されていくのである。
(なお個人的には、こういうアクロバティックな読み方も嫌いではない)
(ii)イデオロギーは議論の不純物である
前掲記事には、明らかに特定のイデオロギーが露骨に反映されている。
それは「反体制」とか「改革」とか「弱者(=学生)の味方」とか、そういう言葉で表現されるようなソレである。
前掲記事は例えば、東大の学費値上げに反対する立場を取っている。しかもその立場を根拠なくQuizKnockを押し付ける。さらにまた、反対運動に連帯する形で、その立場を表明せよと命令するのである。
言うまでもなく、ここにはイデオロギーが染み出ている。東大の学費値上げにも、本当は理があるかもしれない。少なくとも伊沢くんは、中立的な立場である。
(また、途中で話題にした『前編 東大の学費は値上げすべきなのか?』において、森本氏は授業料値上げに大賛成だとすら述べている)
妥協して、QuizKnockが東大の学費値上げに反対する立場をとるべきだとしよう。そうだとしても、なぜ「反対運動に連帯」しなければならないのだろうか。
その主張に理があっても、その主張を通すための運動が全く反社会的だということはよくある。意見は分かるが、仲間だとは思われたくないというやつである。(僕なんかはよくある)
この点において、「反対意見を表明すること」と「反対運動に連帯すること」とは、全くイコールでは結ばれない。
にもかかわらず前掲記事は、容易にこの二点を線で結んでしまう。なぜか。これこそ、イデオロギーのなせる業だからである。
イデオロギーは、ここまで論理を冒涜する。これほどまでに、知を破壊するのである。議論において、イデオロギーあるいは政治的な偏りは、最小限にまで減少させるべき不純物に他ならない。
もちろん、どのような思想信条を持つかは自由である。文句を言うつもりは僕には全くない。
しかしそれは、無条件で議論の前提に組み込んで良いものではないのである。
少なくとも僕は、次のことを、一定の確度とともに言ってよいと思う。
『QuizKnock は社会問題への無関心に加担している』という記事に宿っているのは、「健全な批判精神」ではない。
(iii)社会問題への無関心を肯定する
さて、15000文字の後に、僕は自分の考えを書いておこうと思う。
僕がこの記事を休日に貴重な休みを割いて執筆している理由を、書こうと思うのである。
こんなことを言うと冷笑的だと言われることは承知だけれど、僕は社会問題への無関心を悪だとは思っていない。むしろ、真面目な論理が介在しない空間を肯定したいとすら思っている。
QuizKnockへの批判記事を読めば火を見るよりも明らかであるが、「社会問題への関心」は往々にして、知への冒涜へと堕落していく。
曲解、不適切な引用、論理の飛躍、無責任な要求、根拠不明な前提の勝手な挿入――
最近、そういう言説に触れることが極端に増えた。(Twitterの見過ぎかもしれないね)
いくら社会的に重要なテーマであったとしても、僕は自分の信念として、知のポリシーに違反することを易々と許容することはできない。
そのため最近は、政治的に偏った言説を受け取る心の余裕みたいなものを、随分失ってしまった。一言でいえば、お利口なことを考えるのに疲れてきたのである。
例えば。東大出身でそのブランドを利用しているから、東大の後輩の力になるべきだ、という言説。僕は正直、これを肌感覚で理解することがまるでできない。
高校までと違い大学では、クラスの一体感とか、同じ学年だよね感みたいなものが極端に薄れる。カッコよく言えば、コミュニティ感が消えうせるのである。
そのため、自分と同じ大学に入学してきた後輩に対して、コミュニティの先輩としての義務が発生する感覚が僕にはまるでない。だからそう主張されても、頭にはてなが浮かぶのみである。
(僕だけかな? ほかの人はどうだろう)
だからそう主張するならば、論理を示してほしい。根拠を示してほしいのである。
それなのに出てくるのは、「東大の名前を使っているのだから」というような曖昧なものばかりで、「あぁーそういうことか」みたいな知的な驚きがまるで伴わない。
ひたすらモヤモヤ感が蓄積されていくのみである。僕から見たら、「政治的に真面目な話」こそ政治への無関心と嫌悪を助長している。
それならば最初から、そういう言説とは関わらない方が良い。マイナスになるくらいなら、ゼロの方がマシである――ような気がする。
(ごめん、これはこれでなんか違うかも!)
少なくとも、政治的に偏り知のポリシーに違反する「真面目な議論」よりかは、一定程度の品質が担保されている無色透明なクイズの方が、時間をかけて読むのに値すると思う。
(僕は早押しクイズめちゃめちゃ弱いけどね)
(iv)「QuizKnockは社会問題への無関心に加担している」という論理が挑戦している不可能について
さて、以上、僕は前掲記事への違和感を書き連ねてきた。
何度も言うけれど、僕はもうQuizKnockをあまり見ていない。TBSの『情報7days』の生放送も見ていない。前掲記事の有料部分も読んでいない。まるで根拠のないテキトーなことをずっと言ってきたのかもしれない。その場合は、ご指摘ご批判を頂きたい。
というお断りの下に、僕は次のことを言って良いと思う。
本稿は、次のようにまとめられる。
批判記事は、明らかに特定のイデオロギーに染め上げられた偏った観点から、QuizKnockというメディアに期待されている社会的役割を全く無視しつつ、自らの思想をQuizKnockに一方的に押し付け、その思想の偏りをすら「政治的中立はない」という詭弁でもって正当化を試み、知的ポリシーの数々に違反しながら、いまだ決定されていない命題を自らの推論の根拠に無許可で組み込んでいる。
それは、不可能への挑戦である。最初から同じ思想を共有する者には受け入れられるだろう。しかし、同じ思想を共有しない者には、理不尽で一方的な要求としか映らない。すなわち、論理の架け橋を建設することに、最初から失敗しているのである。
終わりに
本当は最後に、かっこいい言葉でバシッと決めて終わりたい。
だけど先述のように、最近ぼくは無許可で本番環境に触っちゃって、結構ヤバい状況なのである。
というわけで、本稿はさらりと閉めておく。
どうもありがとう、またどこかで。
と思ったのだけれど、この記事の後ろに、ずっと書き溜めていたエッセイを、少し加筆して置いておく。(機会としてちょうどいいと思うので)
本稿にはまるで関係ないから、ここで読み終えてもらって一向に構わない。
(X)「知的に面白い」ということ
(i)古本屋の面白さについて
ところで。何の脈絡もなく僕の趣味について話したい。
(あとでちゃんと伏線回収するつもり)
僕は昔から古本屋が好きで、よく巡っている。(横浜の人には伝わると思うけれど)関内から石川町へ向かう途中に古本屋さんが並んでいるところがあって、休日に巡るだけでも楽しい。(あと安い)
古本屋で全然知らない本を手に取り、黄ばんだ表紙をめくると本のかび臭さが漂ってきて、かすれた旧字体だらけの文章を読んでいる時間が、僕はたまらなく好きなのである。
何がそんなに面白いのか。古本にはどんな魅力があるのか。そんなことをずっと考えているのだけど、僕は最近、暫定的に次のことを結論としている。
――古本は、枝が多いから面白い。
(ii)「枝が多い」ということ
「枝が多い」とはどういうことだろう。例えば今僕の手元には、野尻抱影の『星三百六十五夜』という本がある。これを例に話してみたい。
この本は、365日分、それぞれ何等かの星について語っているエッセイ集である。例えば今日は9/16だけど、王維と李白の詩が引かれている。僕は教養がないので、全然読めないけどね。
では、筆者が中国古典の研究者かと言えば、全然そんなことはない。例えば、次のページでは、ギリシャの哲人プラトンの弟子たちについて語られている。その次のページには、タージ・マハルについての記載さえある。
要するにこの本は、何等かの星を取り上げ、その星にまつわる古今東西の民話や神話などを引き、それをおしゃれなエッセイとしてまとめている本なのである。
この本を読めば分かるが、これは明らかに専門書ではない。エッセイ集である。それも、いろいろなところに話が伸びていくような文章なのである。
だからこの本を読んでいると、自然と様々な場所へと連れていかれる。星について読もうと思ったら神話に触れ、漢詩に触れ、歴史に触れることになるのである。
それを僕は、「枝が多い」と表現している。何かのテーマについて調べているうち、知らず知らずのうちに全然別のことを考えている。そういう体験は旅にも例えられる。読書とは旅であり、本とはそのガイドブックだ。
旅はいろいろなところに行けた方が面白い。読書も同じである。様々な知識に触れさせてくれる本が、(僕にとって)面白い本である。
そういう体験が、古本屋にはある。ふらっと立ち寄ると、ふらっと知らない場所へ連れて行ってくれるような、そういう体験である。
ただ本を一冊読んでいるだけで、未知の獣道にチョロチョロ入っていき、その先にあるいかにも由来がありそうな名もない神社に迷い込んでしまうような。ノスタルジックに言えば、そういう経験なのだ。
そして「枝が多い」というのは、「連れて行ってくれる場所が多い」ということに他ならない。
それはつまり、偶然性である。その偶然性は、読者である自分の興味関心すら変形する。
最初は「ふーん星おしゃれじゃん」と思っていたのに、いつの間にか「ふーん漢詩おしゃれじゃん」とか思っているのである。次の瞬間には、「へーアルデバランってアラビア語で「後を追うもの」って意味なんだ」とか驚いているのである。
(日本語でもスバルの後星って言うものね。かっちょいい)
冗長だがもう一度繰り返そう。
「枝が多い」本は、こちらの興味関心すら、自然と変形してくる。そうして本を読んでいるうちに、いつの間にか知識が増えていたり、価値観が変わっていたりする。知らず知らずのうちに。
(iii)「知的に面白い」ということ
僕は、そういう経験を面白いと思う。知的で、面白いと思う。楽しい。
僕がQuizKnockを好きだったのは、そういう経験があったからである。動画を見ているだけで、いつの間にか知識が身についていたりする。全然意図していないのに、学ばせてくれるのだ。
自分から勉強しようと意気込んでいるわけではないのである。真面目に頑張ったわけではないのである。ただ、ふらっと扉を開けただけだ。するとそこには知らない花が咲いていて、その花の名前を知ることができる。
そうして得られた知は、「頑張って暗記した知識」ではなくて、「自然に身についた思い出」の方に近い。つまり、そう簡単に忘れないのである。
「知」ってそういうことだと思う。
真面目だと疲れる。不真面目だと怒られる。
ならば、なんとなく不真面目に始めてみて、いつの間にか真面目な話をちょろっと聞けるようになっているくらいがちょうどよい。
最近、切にそう思う。
(iv)枝を伸ばしていこう
そういう回路は、確かに存在するのだ。
一見すると、まるで真面目な社会問題とは無縁に見える入り口。だけどその扉を開けてチョロチョロ歩いていくと、いつの間にか真面目な社会問題と関わりあっていて、肌感覚でそれを自分事として理解してしまっているような。
そういう回路は、確かに存在するのである。(繰り返すけど)
「選挙報道」とか「大阪万博」とか「都知事選」とか。そういう真面目な話は大変息苦しい。というか率直に言うと、細い。
中田敦彦のYoutube番組でも、活動家の書く記事でもいいけれど、少しの時間を割いて、それを読み解いてみてほしい。彼らは、彼らの問題「しか」扱わない。
枝の生えていない木なのである。記念館に行く予定しかない観光プランなのである。そのくせ、「私たちは真面目な話をしているのだから、聴け」とか言ってくるのだ。この幹に飛んでこいと圧力をかけてくるのである。羽を休める場所もないのに!
そういうことじゃないと僕は思う。
「知」や「学び」は、枝を伸ばす作業である。そうしていつの間にか、別の木と枝を絡めあい、他の木にまで渡れるようになっているのである。
分かりにくい比喩はやめた方がいいかもしれない。要するに言いたいのはこういうことである。
最初からニュースを見たって、知らない固有名詞が永遠と流れてくるだけだ。1mmだって身につかない。
もう少し身近な興味関心から始めてみて、いつの間にかニュースを理解できるようになっている方が良い。自分の持っている知識と持っていない知識とが、接続されるのだ。意図しないうちに!
そういう回路は、確かに存在するのである。
(v)QuizKnockの「安心安全」を持ち上げていこう
その「枝を伸ばす」作業は、偶然のうちに行われる。少なくとも主観的には。
だからそれは、生真面目な意図や目標の下に行われるのではない。
必要なのは国民の啓蒙計画ではなく、ほんの少しの好奇心と、新しい知識を得た際の快感のみである。
その好奇心を掻き立ててくれるものこそ、古本屋でありQuizKnockである。その快感を与えてくれるものこそ、古本でありQuizKnockのコンテンツである。
もしもQuizKnockから「安心安全」が消えてしまったら。QuizKnockはもはや、枝のない木へと枯れていくだろう。好奇心は、危機的状況では減退していくのだ。戦争のニュースを聞きながら、「楽しいからはじまる学び」なんて言っていられない。
枝を伸ばせるのは、余裕のある時だけだ。急いで枝のない木に乗り移るよりも、着実に枝を伸ばしていって他の木に到達した方が、よほどその後の移動は楽なのである。もう道が出来上がっているのだから。
(どうしてずっと木の上で暮らす小動物目線で話しているのか、僕もよく分からない。前世は芋虫だったのかもしれない)
だからこそ、Quizknockの「安心安全」を持ち上げていこう。
楽しい話題にしか触れない今の安全なQuizKnockは、僕たちの枝を確実に伸ばし続けてくれるのだから。