ビート板と泳ぐこと。

体がキュッとなる。横隔膜から、気道にかけてのあたりにじんわりとした炎症を感じ、手足から力は失われ、虚脱した状態。たまに気を抜くと頭から血の気が引き、くらっと倒れてしまいそう。
 泳ぐことを考える。泳ぐこと。泳ぐことは水と身体が一体化することである。そこではどんな自由も水と重力によって制限される。しかし、それが自由であり世界と合一する事である。
 私が思うのは、人は皆ビート板を持って水に浮かぶ事を泳ぐと言っているのではないかと言う事である。水に浮き、進みたい方向に進める。その代わり、両手はビート板に固定される。それを泳ぐことと言う。その場合、ビート板をたまにはずし、泳ごうとしては溺れている私は多くの人にとって滑稽に映るであろう。
「泳げるのにわざわざ、ビート板をもつのをやめて、溺れて泳げないと嘆いている。全く意味のわからない人だ。ビート板を外すのがいけないんだよ。そう言うと、それじゃ意味がないんだと跳ね除ける。あの人はいつか取り返しのつかない溺れ方をして死ぬのだろう。哀れな人だ。」
おそらく、多くの人はそのように私を見ている。確かにその通りである。ビート板を持ってバタ足をすることが泳ぐことなのであれば、私はまったく滑稽な、わざわざ泳ぐことを辞めている愚かな人間である。しかし、私は泳ぐことからビート板を排斥したいのである。もちろん、ビート板を使うことも許容する。常に泳ぎ続けるのは大変なことだから。だが、ビート板をなくした途端、私の身体は水にどんどん沈んでいく。おそらく、全身の筋肉が硬直し、その力みが私を水底に引きづりこむ。力を抜いて、ただ漂えるのであれば、そして、正しく筋肉が力動するのであれば、私は私として、ひとつの生き物としてこの海に在ることが出来るはずなのに。
 足取りは酔っ払ったように千鳥足、私は私を規定する様々な神々を侵犯出来ずにいる。蒼白な顔面は演技じみて、誰かれかまわず助けを求める孤児のようである。そして、その演技の終演のたびの拍手。その拍手に絶望するのだ。誰もがわかっている。この災難から逃れるための儀礼は拍手であり、その手は差し伸べるためにあるものではないことを。私の演技は触手のように空間を這い回り、触れたもの全てを腐らせる。腐り、爛れ落ちたその肉がまた新たな演技を生み、触手は増殖する。それらを封じるために誂えたローブと手袋はまた私の身体を重くし、もはやこの重い鎧じみた装飾こそが私そのものであり、内容物たる液体は全て洗い流されて消え去るべきものと思い至るのだ。しかし、聡明な私の脳裏に浮かぶのは、その内容物の洗い流され漂白されたローブと手袋が荒野にひっそりと置き去りにされる様子。そこに生命はなく、ただ荒涼とした砂漠のオブジェ、それを描いた三連祭壇画。そう、それは誰も信仰していない宗教の聖典を描いたものである。
 私の硬直の正体はこのようなものであり、それは水面から海底へと私を誘う。ビート板の効能をよく存じているつもりである。しかし、それが、私たちの抱擁を阻害しているのであれば、この海は永遠の孤独を運命づけられた呪われた海である。全てが美しいのであれば、どうか、この身体に流線型の美しさを。美しさと機能が同一のものであるのならば、最も幸いたる最上の美しさを。それは平面的に描くことのできない美しさである。恐らく、私の見たことのない誠の美しさなのだ。

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